延宝七年(1679年)、京都。山崎闇斎(やまざき あんさい)の門に入ったばかりの二十八歳の門人が、勉強に打ち込みすぎて体をこわしました。血を吐いています。それでも彼は、机を離れません。
見かねた仲間の門下生が、おそるおそる師に伺いを立てました。
「浅見はあまりに体を傷めているようですから、しばらく休ませて養生させてはいかがでしょうか」
闇斎は、言下にはねつけました。
「学問でもしようと思う人間が、病に負けてどうするか」
浅見もまた、師に負けない気性の強い男です。血を吐きながら勉強を続けました。そしていつのまにか病が治ったのを見て、闇斎は「それ見たことか」と言わんばかりに、こう励ましたのです。
「いったん学問に志した人間が、途中で病に倒れたとしても、それは本望ではないか!」
この師にして、この弟子あり——。
浅見絅斎(あさみ けいさい)。『靖献遺言(せいけんいげん)』を書き、幕末の志士たちに読み継がれた儒者でした。
夜を徹して継母の看病に従う
浅見絅斎は名著『靖献遺言』の著者で、近世の勤王家のさきがけです。山崎闇斎に学び、いわゆる崎門(きもん)三傑——佐藤直方(さとう なおかた)、浅見絅斎、三宅尚斎(みやけ しょうさい)——の一人に数えられます。しかも三人の中で、もっとも筋を通した硬骨漢でした。
名は安正(やすまさ)、通称は重次郎、絅斎と号します。承応元年(1652年)八月十三日、近江国高島郡の太田(現在の滋賀県高島市)に生まれました。
家は武士だったようですが、弟子の記録『若林子語録』には、こう書かれています。祖父は京都の人で、父にはかなりの蓄えがあったらしい。兄弟は三人で、長男が道徹(どうてつ)、次が絅斎、末が浅見吉兵衛。はじめは高島と名乗ったが、のちに浅見の姓に戻した。道徹は山脇道立という医者の弟子になり、絅斎は儒者になり、吉兵衛は米屋をやらされた。米屋といっても、市橋下総守の米を預かって仕送りをするような商売だったらしい。父は道徹と絅斎をとにかく一人前に仕立てるつもりで、名のある人物には費用を惜しまず交わらせた——。
絅斎は京都で育ちました。父は、絅斎と兄・道徹のためには金を惜しまず、名高い学者につけて学ばせたのでしょう。弟の吉兵衛は米屋を開いて店構えこそ立派でしたが、内情はかなり苦しかったようです。長兄の道徹は頼りにならない人だったらしく、吉兵衛は何かにつけて次兄の絅斎に相談を持ちかけました。絅斎はもともと清貧の身ですから、金の面ではあまり助けられなかったでしょう。それでも、なけなしの金をはたくこともあったに違いありません。相談のたびに、ひどく苦しい思いをさせられたそうです。弟子たちはそんな師の苦労を気の毒がって、「千金の玉を泉に投げ捨てるようなものだ」と同情しました。

しかし絅斎は、学問に対して粘り強かったのと同じように、親類の面倒も、いったん引き受けたら徹底的にやらないと気がすまない一本気の人でした。弟子たちは『若林子語録』の中で、先生は自分の暮らしも十分でない身代なのに、何にでも手を出し、なんでも来いという気性だから、人一倍ご苦労が多かった、と同情せずにはいられなかったのです。
絅斎が継母に尽くした孝養の話も有名です。継母は弟の吉兵衛の家に同居していましたが、病が重くなると、絅斎は昼間は自分の塾で門下生を教え、夕方から夜通し母の看病を引き受け、朝になってようやく家に帰る、という日々を送りました。しかもこの看病を、真夏の暑さにも真冬の寒さにも一日も欠かさず、母の最期まで続けたのです。当時、絅斎は京都の錦小路に住んでいました。そこから御幸町松原下ルの弟の店まで、毎晩と毎朝の二度、必ず往復します。その道筋の人々で、心を打たれない者はなかったといいます。これほど孝養に厚い人だったからこそ、絅斎の主張は生きてくるのです。彼の学問は、決して机の上だけの空論ではありませんでした。
彼の代表作『靖献遺言』の版木ができあがったのは、貞享四年(1687年)です。その前年に、父が亡くなっていました。絅斎は「父は、自分が世に用いられないのをたいそう気の毒がっていた。しかし今、これほどの本を世に出すことができた自分を見たら、どんなに喜んでくれるだろう」と語り、版ができあがるとすぐ亡き父の霊前に供えて香を焚き、それから塾生の教材にしたということです。

赤心報国の四字を刻む
絅斎が山崎闇斎の門に入って学問に励みはじめたのは、延宝七年(1679年)六月、二十八歳のときでした。闇斎は門下に対して、たいへん厳しい師でした。冒頭に書いた、血を吐きながら学んだ逸話は、この師弟の間のことです。
絅斎は生まれつき厳しい性格で、固く節を守り、一生を貧しさの中で送りました。天皇をさしおいて大名に膝を屈するのは臣民の道に背く、と考えていたからです。だから京都を出て、どこかの藩に仕えようとはしませんでした。
その貧乏はひどいもので、ある年の冬などは着替えが一枚もない有様でした。それでも彼は、毅然として態度を変えませんでした。仕官しようと思えば、彼の高潔な気風を慕って召し抱えたいという公家や大名は、いくらでもいたのです。しかし彼はついに一生を町なかで送り、名声を求めようとしませんでした。「礼物を大名に差し出して仕えることをいさぎよしとしない。だから貧しさがどれほどひどくても、あえて禄をもらって仕えない」——彼はその固い決心を『絅斎語録』の中に語っています。
また彼は、好んで馬に乗り、剣を振るって武術の稽古をしました。その剣の鍔(つば)には「赤心報国」の四文字が刻んであったといいます。学者が馬に乗り剣を振るうのは一見奇妙ですが、それは、いざというときの心構えを忘れないためでした。山崎闇斎が尊王の大義を唱えたことはよく知られていますが、絅斎はその志を継いで、皇室の回復を一生の念願としたのです。

しかし当時は、徳川幕府が権力を独占していた時代です。少数の力ではどうにもなりません。しかも幕府は、由比正雪(ゆい しょうせつ)の謀反以来、浪人の儒者への取り締まりと監視を厳しくしていました。山鹿素行(やまが そこう)や熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)といった気骨ある学者は、幕府ににらまれて流罪にされています。絅斎は尊王の思想を抱き、討幕の志に燃えていましたが、過激な言動は慎み、時が来るのを待つほかありませんでした。
そこで彼は、本を書いて忠義の道を説き、天下の人々に尊王の大義を知らせることこそ、学者としての自分の務めだと考えました。この決心と遠大な理想のもとに、中国の忠臣・烈士八人を選び、とくにその絶命の詩を掲げて、それぞれの勤王の事跡を詳しく論じたのが、有名な『靖献遺言』です。
底本によれば、この本ははじめ、日本の尊王の忠臣——楠木正成、新田義貞、菊池氏ら——の事跡を記して尊王の思想を広めようとしたものでした。しかし幕府に目をつけられて発売を禁じられ、版木を押収されることを恐れて、中国に題材を変えて書き直したのだといいます。のちに竹内式部(たけのうち しきぶ)が『靖献遺言』を公家たちに講義して討幕の密謀をめぐらし、それが露見して追放されたとき、幕府の申し渡し状は『靖献遺言』を教えたことを非難しています。幕府はこの本を治安を乱す不穏な書物に数えていました。しかし内容は中国の事跡を伝えたものにすぎないので、発売禁止や版木の押収といった手段はとれなかったのです。ここにも、絅斎の細心な用意がうかがえます。
この本はひとたび世に出ると、勤王家の福音書となって一世を風靡しました。土佐の谷秦山(たに じんざん)はこれを藩士に教え、土佐勤王派が起こる大きなきっかけになりました。竹内式部は朝廷の公家たちに講義し、長年幕府に押さえつけられていた公家たちの間に大きな波紋を広げました。水戸の徳川光圀(みつくに)は絅斎の門下・三宅観瀾(みやけ かんらん)を召し出して『大日本史』の編纂にあたらせています。秋田藩では中山春庵、和田玄胤らを通じて、絅斎の学問が藩に伝わりました。山県大弐(やまがた だいに)、頼山陽(らい さんよう)、梅田雲浜(うめだ うんぴん)、有馬新七(ありま しんしち)らの勤王家は、みな絅斎の学問の影響を受けたのです。
『靖献遺言』に続いて世の人々の目を覚まさせたのは、『名分論』でした。当時は大儒とか碩学(せきがく)と呼ばれる学者でさえ、幕府の顔色をうかがって、将軍がいることは知っていても天皇がいることを忘れているような状態でした。絅斎はその流れに毅然と逆らって、名分の大義を唱えたのです。
荻生徂徠(おぎゅう そらい)のような学者までが、支那を「中国」と尊んで呼び、日本を「夷狄(いてき)」とへりくだって、自分を「日本国夷人」「東夷の小子」などと言っていました。絅斎はこうした中国崇拝が、ひいては主君を軽んじ、国を辱めることになるのだと憤りました。名分の学問が明らかでなければ物事に筋道がなく、国の秩序は崩れる。国を治め、家を正し、行いを律し、言葉を整えるための土台は、この道理をおろそかにしないことにある——そう主張したのです。

名分論に次いで世を導いたのは、正統論です。闇斎はその著『倭鑑(わかん)』で南朝を正統と断じましたが、絅斎もその考えを受け継いで、大いに正統論を唱えました。当時の儒者たちは幕府におもねって武家の政治を讃え、はなはだしい者は将軍を国王にしようとさえしていました。絅斎はそこに憤然と立ち向かい、天下の注意を呼び起こしたのです。赤穂の四十七士を義士とし、楠木正成を至忠の大功とし、足利尊氏兄弟を乱臣のさきがけと論じたのは彼でした。
絅斎は気性が強く、質素に甘んじ、生涯だれにも仕えませんでした。師の道を厳しく守り、多くの優れた人材をその門から送り出しています。ただ、あまりに厳しすぎて、三宅観瀾や佐藤直方といった門人・友人と交わりを絶つこともありました。著書は『靖献遺言』『同講義』『忠孝類説』『不許友以死説』『中国弁』など数十種にのぼります。正徳元年(1711年)十二月一日、六十歳で京都錦小路の錦陌(きんぱく)講堂に亡くなり、東山の鳥辺山に葬られました。
血を吐いても学問をやめず、着替え一枚ない冬を耐えて仕官を断り、朝までの看病を一日も欠かさなかった。剣の鍔に刻んだ四文字を、この人は自分の生活で示したのです。その本は百五十年後、幕末の志士たちの懐の中にありました。





