明治三十六年(1903年)の秋、十月。ようやく朝夕に冷たさを感じるころ、一人の海軍少佐が、海軍省から「至急出頭せよ」という知らせを受け取りました。
出向いてみると、舞鶴鎮守府の司令長官・東郷平八郎(とうごう へいはちろう)中将が、待ちかねたように彼を迎えます。
「今度は君の努力に俟(ま)たねばならぬ。大いにやってもらいたい」
重々しく、どっしりとした威厳のある言葉でした。東郷中将の参謀になってほしい、という頼みです。
「はっ! やりましょう」
たった一言でした。しかし、この一言で、彼の飛躍の舞台は目の前に開けたのです。
秋山真之(あきやま さねゆき)。日本海海戦の作戦を組み立て、一代の謀将(ぼうしょう:はかりごとにすぐれた将)と呼ばれた人でした。
一代の謀将
日露戦争の日本海海戦は、国の運命をこの一戦で決め、世界の海戦史にかつてない大勝利をおさめて、その後の日本の土台を築いた戦いです。
このとき、連合艦隊司令長官・東郷平八郎のもとで作戦を担った人こそ、先任参謀の中佐・秋山真之でした。
日本海海戦における東郷の功績は、国民の記憶に深く刻まれています。歴史はそのために何ページも費やしていますし、それは当然のことで、東郷の名は後の世まで輝き続けるでしょう。けれども忘れてはならないのは、東郷にこの功業を成しとげさせた裏に、一代の謀将・秋山真之がいたことです。
日本海海戦は、秋山が全能力を傾け、熱い血を注ぎ、「早すぎる死の原因を作った」と言われるほど心魂を打ち込んで計画したものでした。大勝利の半分は、彼の作戦の功績に帰さなければならないのです。
連合艦隊の参謀は、戦争中にほとんど入れ替わりました。そのなかで秋山ただ一人が、最初から最後まで作戦参謀として変わらず任にあった。このことも、彼の謀将としての価値を証明しています。まさに彼は東郷の懐刀(ふところがたな)であり、連合艦隊の知恵袋でした。
それだけではありません。当時、国民の血をたぎらせ、歓喜させた連合艦隊の名報告文——「本日天気晴朗なれども浪高し」や「舷々(げんげん)相摩す」といった名文は、今なお人々の記憶に残っています。この名文を書いたのが秋山真之だと知るとき、私たちは彼の豊かな天分にあらためて驚くのです。
海軍のある提督が、かつての秋山参謀について、こう語ったことがあります。
「今日、連合艦隊の司令長官として国の運命を担える大提督は、いないわけではない。しかし、その大提督のもとで秋山参謀の役を果たせる者は、探しても見つかるまい」
秋山とは、それほどの人物でした。

江田島に巣立つまで
秋山真之は明治元年(1868年)三月二十日、伊予の松山(現在の愛媛県松山市)に生まれました。秋山久敬(ひさたか)の五男で、兄はのちの陸軍大将・秋山好古(よしふる)です。
少年のころから才気にあふれ、餓鬼大将としても群を抜き、学問でもほかを圧倒していました。ものごとを組み立てて考える頭を持っていて、十四、五歳のころには松山の歌人・井手正雄(いで まさお)に和歌を学んでいます。そのころの歌に、こんなものがあります。
惜花 桜花今をさかりと咲くものをさそふ嵐の風ぞつれなき
山家月 たづねくる友こそなけれ山里のふせ屋さやけき月の夜比(よごろ)も
十五歳のとき、陸軍少尉として東京にいた兄の好古に呼ばれて上京し、その下宿に同居して勉強しました。兄の教育は、厳しさをきわめました。いっさいの贅沢を禁じ、いっさいのよそ見を戒め、昼も夜も勉学に励ませたのです。この厳しさが、どれほど真之を奮い立たせたことでしょう。

晩年、彼は自分の家を訪れる誰に対しても、いつも床の間を背にして座り、その席を譲ろうとしませんでした。ところが兄の好古が来ると、すぐに立ち上がって座布団を裏返し、好古を上座に直したといいます。そして人にはいつも、「自分が今日あるのは、ひとえに兄・好古がいたからだ」と語っていました。
その後、彼は好古の家を出て、同郷の友人・正岡子規(まさおか しき)らと神田の下宿に同居し、大学予備門に通います。正岡は言うまでもなく、のちの俳聖・子規です。二人は競い合って勉強しましたが、やがて秋山は海軍兵学校に入りました。二人の交友は最後まで続き、秋山がアメリカへ留学するとき、子規はこんな句を作っています。
君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く

明治十九年(1886年)十月、秋山は当時築地にあった海軍兵学校に入り、海軍生活の第一歩を踏み出しました。兵学校はその二年後に江田島へ移ります。入学したときの成績は中ほどでしたが、一年目が終わると一躍、首席になりました。同級には田所広海(たどころ ひろみ)、山路一善(やまじ かずよし)、森山慶三郎(もりやま けいざぶろう)——いずれものちの中将——といった秀才がいましたが、彼は首席を一度も譲りませんでした。しかも、猛勉強というほどの勉強ぶりではなかったのに、奇妙に要所や急所を押さえていて、試験の答案はいつも優秀だったといいます。そこにすでに、彼の機略がほとばしっていました。

明治二十三年(1890年)七月、彼は首席で兵学校を卒業し、同時に少尉候補生を命じられ、実地の練習として軍艦「比叡(ひえい)」に乗り組みました。ここに彼は、海軍士官として初めて舞台に立ったのです。

日露戦争時の大活躍
明治二十五年(1892年)五月に少尉に任官してから日露開戦までの十年間は、彼にとって修業と勉強の時代でした。
「龍驤(りゅうじょう)」の分隊士から「松島」の航海士へ。次いで、軍艦「吉野(よしの)」がイギリスで建造されたとき、それを日本へ回航する委員に選ばれてイギリスへ渡り、引き続き「吉野」の航海士を務めました。日清戦争が起こったときには「筑紫(つくし)」の航海士に移っていましたが、「筑紫」は古い艦だったため、晴れの戦場に出る機会は少なく、威海衛(いかいえい)攻撃に参加したくらいでした。
戦後はしばらく水雷の方面に回されましたが、明治二十九年十月に大尉へ進級し、海軍軍令部の諜報課員になります。
このころにはすでに、日本とロシアの間には不穏な雲がかかり、両国は仮想敵国として向かい合っていました。彼はこの形勢をじっと見つめ、ロシアとの戦いを研究の対象に定めます。あるときは洗濯夫に化けて満洲・朝鮮の間で重要な任務についた、ともいわれます。またあるときは軍令部の一室で上申書を書きました。こうして彼の才能はようやく上司の知るところとなり、明治三十年(1897年)六月、アメリカ留学を命じられたのです。

その翌年、アメリカとスペインの戦争(米西戦争)が起こりました。彼はアメリカの艦船に乗り組んで、戦いの様子を間近に見ます。これがどれほど彼の知恵袋を豊かにしたことでしょう。アメリカ艦隊のサンプソン提督の兵の使い方こそ、彼にとって生きた教材でした。
その後イギリス駐在員となり、明治三十三年五月に帰国。海軍省軍務局の課員、常備艦隊の参謀を経て、三十五年七月、海軍大学校の教官になりました。ここで彼は、これまでにたくわえた兵学の知識をすべて注ぎこみます。まずアメリカ流の兵棋演習(へいぎえんしゅう:図上で行う模擬戦)を取り入れ、次いで海軍の兵学を科学的に体系づけ、筋道の通った大講座を開きました。この功績で、彼の名声は海軍の中に鳴り渡ります。
そうするうちに明治三十六年の夏も過ぎ、冒頭に記した東郷中将との出会いを迎えるのです。
明治三十六年十月二十七日。この日、常備艦隊が解かれて新たに第一から第三までの艦隊が編成され、第一・第二の両艦隊で連合艦隊が組織されました。日露の開戦は、もはや時期の問題になっていたからです。連合艦隊司令長官・東郷平八郎、参謀長・島村速雄(しまむら はやお)大佐、参謀・有馬良橘(ありま りょうきつ)中佐、秋山真之少佐、松村菊勇(まつむら きくお)大尉。十年かけて練り上げたロシアとの作戦を胸に秘め、旗艦「三笠(みかさ)」の舷側に立ったとき、彼はどんな思いだったでしょうか。
彼は一生の心血を、この作戦に注ぎました。開戦からの一年半、彼は風呂に入るとき以外は靴も脱がず、服も着替えず、眠るときでも靴を履いたままベッドにごろりと横になっていました。日本海海戦が迫った数日間は不眠不休で、ベッドに体を横たえていても、目は大きく開いて天井をにらんでいたといいます。このとき彼の胸には、バルチック艦隊を迎え撃つ「七段構え」の戦法が練られていたのでしょう。
明治三十八年(1905年)五月二十七日の日本海海戦——それは今さら説明するまでもありません。連合艦隊は遠路やって来た敵艦隊を撃ち破り、かつてない勝利を得て、日露の海の戦いに最後の幕を下ろしました。
戦後、帝国議会は秘密会を開き、陸海軍から戦争の経過の報告を聞きました。陸軍の報告者は少将の松川敏胤(まつかわ としたね)。それに対して海軍の報告者は、一中佐の秋山真之でした。「この報告をするのにもっともふさわしいのは、秋山をおいてほかにない」——これが海軍当局の説明でした。

晩年の名提督
一代の謀将・秋山の晩年は、やや不遇でした。日露戦争の作戦であまりに疲れ果てたのか、それとも角の立つ性格がわざわいしたのか。
海軍大学校の教官から海の上の勤務に戻り、各艦の艦長、第一艦隊の参謀長、軍令部の参謀を経て軍務局長になります。やがて第一次世界大戦を視察するためヨーロッパとアメリカを巡り、帰って第二水雷戦隊の司令官になりましたが、まもなく病のために閑職につかざるを得なくなりました。
大正六年(1917年)七月、陸上の勤務に移って静養に努めましたが、病は癒えません。同年十二月一日、中将に昇進して待命となり、翌七年(1918年)二月四日、五十一歳で、湘南の暁の霜のように消えていきました。
不生不滅明けて鴉の三羽かな
これが、名提督・秋山真之の辞世の句でした。

動画で見る




