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秋山真之の生涯|日露戦争を勝利に導いた「日本海軍一の智将」の素顔

秋山真之のシーンを表すイラスト(節2) 日本の偉人
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比類なき智将

 

日露戦争の日本海海戦は、日本の国の存亡をかけた決定的な戦いでした。結果として、世界の海戦の歴史上でも前例のないほどの大勝利を収め、その後の日本の発展の基礎を築き上げました。この歴史的な戦いにおいて、帝国連合艦隊のトップである東郷平八郎(とうごうへいはちろう)司令長官のそばで、作戦を立てるという超重要な任務を担当した人物こそ、当時の先任参謀(作戦の責任者)であった秋山真之(あきやまさねゆき)中佐、その人でした。

日本海海戦における東郷長官の功績は、国民の心に深く刻み込まれており、歴史の教科書でも大きく扱われています。それは決して間違ったことではなく、東郷長官の名前はこれから先もずっと輝かしいものとして語り継がれていくでしょう。
しかし、東郷長官にこれほどの偉業を成し遂げさせた裏には、時代を代表する天才作戦家・秋山真之の存在があったことを忘れてはなりません。
実際のところ、日本海海戦の作戦は、秋山が自分のすべての能力と情熱を注ぎ込み、その過労が原因で若くして命を落としてしまったと言い切れるほど、魂を削って計画したものでした。日本海海戦での大勝利の理由の半分は、彼の見事な作戦のおかげだと言わざるを得ません。

連合艦隊の参謀たちは、戦争中にほとんどが別の人物に交代しています。しかし、たった一人、秋山だけは最初から最後まで作戦参謀としての任務から外れることはありませんでした。このことからも、彼がいかに作戦家として代わりのきかない価値ある人物だったかが証明されているのではないでしょうか。

まさに彼は、東郷長官にとっての「最も頼りになる右腕」であり、連合艦隊全体の「知恵袋」でした。それだけではありません。当時、国民を熱狂させ、歓喜爆発させた連合艦隊からの有名な報告文があります。
例えば、

「本日天気晴朗(せいろう)なれども浪(なみ)高し(今日は天気は良くて晴れているが、波は高い)」

とか、

「敵艦見ゆとの警報に接し……(敵の船が見えたという知らせを受け……)」

といった名文は、今日でも国民の記憶に深く残っています。実は、この名文を書いた本人が秋山真之であることを知った時、私たちはさらに彼の豊かな才能に驚かされるのです。

海軍のある提督(ていとく:高い地位の海軍軍人)は、かつて筆者(菊池寛)にこう語ったことがあります。

「今日、帝国連合艦隊のトップとして、日本の運命を背負うことのできる立派な長官は、探せば見つかるかもしれない。しかし、その長官の下について、当時の秋山参謀のような完璧な働きができる人物を探し出すことは、おそらく非常に困難だろう」

と。
実に、秋山真之とはそれほどまでに凄まじい人物だったのです。

江田島に巣立つまで

 

秋山真之は、明治元年(一八六八)三月二十日、伊予の松山(現在の愛媛県松山市)で、秋山久敬の五男として生まれました。後で有名な陸軍大将となる秋山好古(あきやまよしふる)の弟です。

少年の頃から頭の回転が速く才能にあふれており、ガキ大将としては仲間の中で飛び抜けて目立ち、圧倒的な存在感を持っていました。

十四、五歳の頃、松山の歌人である井手正雄(いでまさお)のところで和歌を学びましたが、真之はただ文学が好きなだけでなく、物事を筋道立てて考える理系のような頭脳も持っていました。その頃に作った和歌にはこんなものがあります。

「嵐の風ぞつれなき 惜花(おしばな) 桜花今をさかりと咲くものを」

「山家月(やまがづき) たずねくる友こそなけれ 山里の さやけき月の 夜比(よろ)もや」

(※どちらも風情ある立派な歌です)

十五歳の時、彼は東京で陸軍少尉をしていた兄の好古に呼ばれて上京し、兄の下宿に一緒に住んで勉強することになりました。しかし、兄の教育方針は本当に厳しく、一切の贅沢(ぜいたく)を禁止し、勉強以外のよそ見を絶対に許さず、昼も夜も勉強させました。この超スパルタ教育が、どれほど真之の負けん気に火をつけ、必死に努力させたことでしょう。

晩年の真之は、自分の家にお客さんが来ても、常に自分が「床の間」を背にした一番偉い席(上座)にドカッと座り、決してお客さんにその席を譲りませんでした。しかし、兄の好古がやって来ると、すぐにパッと立ち上がって座布団を裏返し、兄を上座に案内したそうです。そして他人に対して「今の自分があるのは、すべて兄の好古のおかげだ」と語っていたといいます。

その後、彼は好古の家を出て、神田の下宿に引っ越し、同じ愛媛県出身の親友・正岡子規(まさおかしき)たちと一緒に「大学予備門(現在の東京大学に入るためのエリート学校)」に通いました。正岡子規といえば、後に「俳句の神様(俳聖)」と呼ばれるようになる超有名人です。二人は良きライバルとして競い合うように勉強しましたが、やがて真之は海軍兵学校に入学することになります。二人の友情は最後まで続き、後に真之がアメリカへ留学する時、子規はこんな俳句を作って別れを惜しみました。

「君を送りて 思ふことあり 蚊帳(かや)に泣く」
(君を見送って色々な思いが込み上げ、蚊帳の中で一人泣いている)

明治十九年(一八八六)十月、真之は当時東京の築地(つきじ)にあった海軍兵学校に入学し、海軍としての第一歩を踏み出しました(兵学校はその二年後に、有名な広島の江田島に移転します)。
入学した時の成績は真ん中くらいでしたが、一年生が終わる頃には一気にトップに躍り出ました。
同級生には、後に中将(ちゅうじょう:海軍の高い階級)になる優秀な生徒がたくさんいたのですが、真之はついに卒業するまで一度もトップの座を彼らに譲りませんでした。

しかも、彼はガリ勉のように一日中必死に勉強していたわけではありません。
不思議なことに「ここはテストに出る」という重要なポイントをピタリと押さえるのが上手く、試験の点数は常にトップクラスだったといいます。そこにはすでに、彼の「作戦家としての要領の良さ」があふれ出ていたのです。

そして明治二十三年(一八九〇)七月、彼は見事に首席で兵学校を卒業すると同時に「少尉候補生」に任命され、実地訓練として軍艦『比叡(ひえい)』に乗り込みました。ここから彼は、立派な海軍士官として海へ飛び出していったのです。

 

秋山真之のシーンを表すイラスト(節2)

日露戦争の起こるまで

 

明治二十五年(一八九二)五月に少尉(しょうい)となってから、日露戦争が始まるまでの約十年間は、彼にとって自分を磨くための勉強の時代でした。

軍艦『龍驤(りゅうじょう)』の分隊士から、続いて『松島』の航海士になりました。『松島』がイギリスで造られた時には、それを日本へ乗って帰ってくる委員(回航委員)に選ばれてイギリスへ渡りました。
次いで『吉野』の航海士となり、日清戦争が起きた時には『筑紫(つくし)』の航海士に変わっていました。ただ、『筑紫』は当時すでに古い軍艦であったため、華々しい戦場に出るチャンスは少なく、かろうじて中国の威海衛(いかいえい:中国山東半島の北東端に位置する港湾都市・威海の旧称)への攻撃に参加したくらいでした。

明治二十九年(一八九六)十月に大尉(たいい)に昇進し、日清戦争が終わった後、彼はしばらく水雷(すいらい:魚雷や機雷などの兵器)の担当に回されましたが、やがて海軍軍令部の「諜報課員(ちょうほうかいん:スパイや情報収集の担当)」になりました。
もうこの時期には、日本とロシアの間に不穏な空気が漂い始め、両国はお互いを仮想敵国としてにらみ合っていました。

真之はこの状況をじっと見つめ、ロシアとの戦争の作戦を自分の研究テーマにしました。ある時は洗濯夫に変装して満州や朝鮮半島に潜入するという危険なスパイ活動を行い、またある時は軍令部の部屋でロシアに対する作戦の提案書を書き続けました。こうして、彼の並外れた才能はついに上司の認めるところとなり、明治三十年(一八九七)六月、ついにアメリカへの留学を命じられたのです。

「生きた戦争」を教材にする天才

 

ところが、その翌年にアメリカとスペインの間で戦争(米西戦争)が勃発(ぼっぱつ)しました。彼はアメリカの軍艦に特別に乗り込ませてもらい、アメリカ艦隊のサムソン提督が、どのように艦隊を動かし、どんな作戦を使うのか、を最前線で間近に観察したのです。
この経験が、彼の作戦家としての引き出し(知恵)をどれほど豊かにしたことでしょう。
まさに彼にとって、目の前で起きている本物の戦争が生きた教材だったのです。

明治三十三年(一九〇〇)五月に日本へ帰国し、海軍省の軍務局や常備艦隊の参謀を歴任しました。明治三十五年にはイギリスに駐在することになりますが、彼はこの時期に、アメリカ留学で得た最先端の知識をすべて日本の海軍に注ぎ込みました。

まず、七月に海軍のエリートを育てる海軍大学校の教官となりました。そして、それまでバラバラだった海軍の戦術を科学的で体系的なものにまとめ上げ、机の上で軍艦のコマを動かしてシミュレーションを行うアメリカ流の「兵棋演習(へいきえんしゅう)」を取り入れて、しっかりとした海軍の戦術の授業を開くという大きな功績をあげました。

「秋山教官の授業はすごいぞ」

という絶賛の嵐は、あっという間に海軍中に響き渡ったのです。

日露戦争時の大活躍

 

そうこうする間に明治三十六年(一九〇三)の夏も過ぎ去り、少し肌寒さを感じる秋・十月となりました。ある日、真之は海軍省から「大至急、こちらへ来なさい」という呼び出しを受けました。行ってみると、そこには東郷平八郎中将が待ち構えていて、まるで彼が来るのをずっと待っていたかのように、こう言いました。

「今度は、君の努力に頼らなければならない。大いにやってもらいたい」

それは、重みのある、どっしりとした威厳に満ちた言葉でした。東郷中将は、秋山少佐に対して「私の右腕(参謀)になってくれ」と頼んだのです。

「はっ!やりましょう!」

それはまるで、伝説の龍が天に昇るチャンスを得たように、真之が大きく飛躍するための最高の舞台が用意された瞬間でした。ロシアとの戦争が始まるのは、もはや時間の問題だったからです。

同年十月二十七日、日本海軍の組織が新しく編成され、東郷平八郎をトップとする「連合艦隊」が組織されました。

連合艦隊司令長官・東郷平八郎。 参謀長(作戦のまとめ役)大佐・島村速雄。 参謀中佐・有馬良橘。 参謀少佐・秋山真之。 参謀大尉・松村菊勇。

ロシアとの開戦までの一年半、そしてこれまでの十年間、必死に磨き上げてきた対ロシアの作戦を胸に秘め、連合艦隊のトップの船である戦艦『三笠(みかさ)』の甲板に立った時、秋山真之は一体どんな思いだったでしょうか。彼は自分の一生の魂と情熱のすべてを、この作戦に注ぎ込んでいました。 彼は、お風呂に入る時以外は靴も脱がず、服も着替えず、寝る時でさえ靴を履いたままでゴロリとベッドに横たわっていました。

運命の日本海海戦が迫ったある日、彼はベッドに体を横たえてはいるものの、目は大きく見開いたままで天井を鋭く睨みつけていました。不眠不休のその胸の中では、迫りくるロシアの無敵艦隊(バルチック艦隊)を完全に叩きのめすための、有名な「七段構えの戦法(何重にも波状攻撃を仕掛ける恐るべき戦術)」が必死に練り上げられていたのでしょう。

 

秋山真之のシーンを表すイラスト(節3)

天才作戦家の最後

 

明治三十八年(一九〇五)五月二十七日に起きた日本海海戦の結果については、歴史の授業で習う通り、ここで詳しく説明するまでもないでしょう。連合艦隊は、はるばるやって来た敵のバルチック艦隊を見事に撃滅(げきめつ)して歴史的な大勝利を収め、日露戦争の海戦に最後の幕を下ろしたのです。

戦争が終わった後、日本の国会(帝国議会)は秘密の会議を開き、陸軍と海軍からそれぞれ「戦争がどう進んだか」の報告を聞くことになりました。陸軍の報告者は「少将」という高い階級の松川敏胤(まつかわとしたね)でしたが、海軍の報告者は、まだそれほど階級が高くない「中佐」の秋山真之でした。海軍のトップたちは「この超重要な報告を任せるのに一番ふさわしい人物は、秋山を置いて他にいない」と説明したそうです。

こうして日本の大ピンチを救った「稀代の智将」の秋山でしたが、日露戦争の作戦で心も体も限界まで疲れ果ててしまったのか、あるいはその尖りすぎた天才ゆえに周囲とぶつかることが災いしたのか、晩年の人生は少し不遇なものでした。
海軍大学校の教官から再び海上の任務に戻り、様々な船の艦長や海軍の重要ポストを歴任しました。やがて第一次世界大戦の視察のためにアメリカへ渡ったりもしましたが、間もなく病気にかかってしまい、第一線から退かざるを得なくなりました。

大正六年(一九一七)七月、陸上での勤務となって静養に努めましたが病気は治らず、同年十二月一日に「中将」に昇進。そして翌年の大正七年(一九一八)二月四日、五十一歳という若さで、湘南(神奈川県)の地で、明け方の霜が消えるように静かに息を引き取りました。

『不生不滅 明けて鴉(からす)の 三羽かな』

これが、日本の歴史に名を刻んだ天才・秋山真之がこの世を去る前に残した、辞世の句でした。

 

秋山真之のシーンを表すイラスト(節4)

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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