時代の心
我が国、平安朝の末から鎌倉時代の始めへかけて、世は挙げて戦乱に次ぐ闘争の有様で、平和の日は一日とてなく、民衆は魂のどん底より不安動揺におののき、今にもこの天地も打ち砕かれるかの思いに沈んでいた。
鎌倉時代に入って、頼朝によって創立せられた幕府の統治のもとに、世は一時平安を思わせたけれど、民心は依然として落ち着かない。京洛に、春の霞に花を歌い、秋の月に想いをよせた公卿社会の人々は、全く人生に対して生きる力を失っていた。わずかに遊惰(ゆうだ)と軟弱な、そして単調な生活を繰り返すのみであった。
こうした公卿社会の人々に対して、地方の武士階級の豪族はますます憤怒と反抗の意気に燃えて起ちあがった。戦禍の焔(ほのお)はいたるところ、罪なき民家を焼き払い、人馬の命を奪った。年来の努力も水の泡、朝にして全財産を失うもの、愛しの我が児の骸(なきがら)を抱き狂乱する痛ましき母、愛する者を奪われて狂気する男。人心は恐怖におびえて全く生きた心地とてはない。
また、自由を奪われた庶民階級の人々は、天の一角を打ち眺めながら茫然自失の有様である。その上、地震や飢饉が襲って来た。
「世も末じゃ、今にこの天も地も一しょに砕け落ちるのじゃ。ああ恐ろしい。俺たちも何時まで命のあることやら。」
人々は蒼ざめた面をあげてささやき合った。もはや生きることの希望を失っている彼らである。現実の生活に執着を感じ得ない程、打ちのめされた彼らである。そこにはただ人生の無常と、現実生活の不安とが、まことに陰惨な影を投げて、人々の心を厭世(えんせい:この世に生きていることをつらい、または嫌だと思うこと)的な深みに引きずってゆくのみであった。
これが平安朝から鎌倉時代にかけての時代の心であったが、一遍上人はまさしくかかる時代の思潮に棹(さお)さして、自らの生活を静かに刻んで行った捨聖(すてひじり)であった。

救済を得るまで
一遍は四条天皇の延応元年(1239年)2月15日、四国の伊予(現在の愛媛県)に生まれた。あたかもこの年は、かの日本浄土教の大成者・法然の滅後二十七年目にあたり、東海の浜・清澄に日蓮が得度の鐘を聞くの年であり、北越の幽谷に道元が示寂してより十四年目であった。
幼名を松寿丸と言い、父は河野七郎通広という武人(後に出家する)であった。七歳の時、同国の天台宗継教寺に入り修学、十歳の時に慈母は逝去(せいきょ:「死」の尊敬語)し、父の命で松寿丸は出家することになり、法名を随縁とした。
十三歳の折、僧の善入と共に筑前大宰府の学者である聖達上人(浄土宗西山派の人)のもとに行き、更にこの人の勧めによって、肥前の華台上人のもとに修学することになり、名も智真と改めた。後、聖達上人のもとに帰り修学したが、智真はかく前後十二年の間、浄土の法門につき学んだのである。しかし、この時代の智真の修学、名だたる学匠の歴訪ということも、言わば彼の知識欲を満たすものであって、これによって心の平安を得ることは出来なかった。
しかるに、弘長3年5月、智真が25歳の折、父の死に際して一度故郷に帰ることになったが、この時代から若き智真の人生に対する疑念と内観反省とは深刻となり、静かに自己と人生の真実の姿を見究(みきわ)めようとして苦しみ、かつ努力をするのであった。
「身を観ずれば水の泡、消えぬる後は人もなし。命思えば月の影、出入る息にぞとどまらぬ。過去遠々のむかしより、今日今時にいたるまで、思いと思うことはみな、叶わねばこそ悲しけれ」(別願和讃)
かく人生の無常を痛感した彼は、一方静かに悠久なる人生、限りなき命への憧憬(どうけい:あこがれ)を深めてゆくのであった。
「生ぜしも独りなり、死するも独りなり。万事に顧わず、一切を捨離して孤独々一なるを死するとは言うなり。されば人と共に住するも独りなり、添い果つべき人なきゆえなり。」(一遍上人語録下)
人情を、義理を、と人々は叫ぶ。妻よ、児等よ、と人々は求める。まことに須臾(しゅゆ:わずかの間)の頼みである。どうしてそこに永遠の確かさを求むることが出来よう。ましてや地位が、名誉が、そして財産が何の頼みになろう。しかも人々は人生五十年の短き世に我と呼び彼と隔て、明日を知らぬはかなき人の世に浮き身をやつす。すべてはそらごと、たわごとである。
死の前には一切は無である。何がこの身を託すに足ろう。まことに荒野にさすらう旅人一人、これこそ人間の真実の姿ではないか。――と彼は考える。
孤独の自己に徹する。この真実の自己に徹した者にして、始めてそこに自己ならざる真の自己の姿を見出すことが出来る。この真剣な自己凝視のうちより、始めて大いなる命への門はひらかれる。――かくのごとくにして、始めて孤独の自己に還った青年智真は、ここに魂の安立を見出すべく求道の旅をつづけたのであった。
彼は文永8年より善光寺を始めとして各地に求道発心の旅を続け、同11年3月に天王寺に参詣し、高野山に参籠して紀州熊野に至り、本宮証誠殿の前に祈請し、ここに始めて自力のはからいを捨てて、他力信仰に生きる自信を得たのである。時に36歳であった。
真実の道を求めて苦悩すること二十余年、ここに他力本願の純一道を発見し、名号の絶対力を信知した智真は、歓喜のあまり「我は生きながら成仏せり」と社壇(しゃだん:主に神や精霊を祀る神聖な壇や神社建築そのものを指す)を踏み勇躍して叫んだという。かくて智真は一遍と自ら名のり、自ら得たところの他力本願の念仏をひろく人々の胸に伝えるため、更に全国を遊行することに決したのである。

遊行
熊野を出でた一遍は、それより正応2年にいたる前後十五年の間、全国各地を教化した。南は九州より中国、近畿、中部、関東、更に奥州にまで、ほとんど各地を巡化し、いたるところ老若男女貴賤を問わず、盛んに結縁(けちえん:仏や仏法との関係を結び、悟りや成仏へ至るためのきっかけを作ること)したのであった。
一遍は常に空也上人を先達としてその行跡を慕った。自ら身命を山野に捨て、住いとても全く風雲にまかせての旅である。世の名利を求めず、身に一塵をも蓄えず、檀那弟子(教団を経済的に支える「施主(信者)」)などと呼ぶべきものなく、結縁を歓ぶ門侶あるも師匠ぶることなく、ひたすら念仏を勧めることを生涯の命として、定めなき魂の安住を失った庶民たちに念仏の札を配りつつ村から市へ、市から村へと漂泊の旅をつづけた。
この行雲流水の遊行の生活によって、多くの念仏の信者を各地に造り得たのであるが、更に彼の遊行をして効果あらしめたものは賦算(ふさん:時宗の開祖である一遍上人が始めた、「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と記された念仏札を人々に配り歩く宗教行事)と踊念仏とであった。
一遍は全国遊行の際、結縁の人々に向かって「念仏の形木」(念仏の札)を与えた。
「いませ地獄へ堕つるものを助くるぞ、これは阿弥陀仏より下されたるにて候」
これは紀州新高の里より弟子聖戒への消息の一節である。この念仏の形木には「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」の文字が書かれてある。遊行の際、一遍は結縁のために、手づからこれを人々に与えたもので、与えるものも、これを受くるものも、ともに念仏合掌するのであった。
賦算と共に注意すべき行儀としては踊り念仏があった。
弘安2年の頃、一遍が信濃の国を巡化した時である。小田切の里のある武士の館で一遍が踊り始め、道俗多く集まり結縁したので、これより踊り念仏は次第に盛んに行われるようになった。そして同年の冬、信濃国佐久郡の武士・大井太郎が発心して一遍を請い、一日二夜の間供養なして念仏を申したが、一遍の帰った後、集まった数百の者が踊り廻ったため、ついに板敷を踏み落とした程であった。
この踊り念仏はもと空也上人によって始められたものであることは言うまでもない。この空也に私淑(ししゅく:直接会って指導を受けたわけではないものの、その人物の生き方や著作、作品に深く感銘を受け、心の中で「師」と仰いで手本とすること)し、その生涯を深く慕った一遍は、念仏の信心に歓喜の心躍るとき、同行のものと声をそろえて念仏し、提(ひさげ:銀・錫製などの、つるの注ぎ口のある小鍋型の銚子)を叩き、金磬(きんけい:読経や法要の際に僧侶が打ち鳴らす金属製の仏具)を打ちならして踊るのであった。

彼の最期
正応2年(1289年)8月10日に、一遍は最後の遺言を認(したた)め、所持の書物なぞ全部焼き捨てて、同月23日、念仏の声と共に往生した。51歳であった。
一遍は自己の後のことを遺言して、
「我が門弟におきては、葬礼の儀式をととのうべからず、野に捨て獣にほどこすべし。」
と言い残している。
まことに一遍の生涯は市井の乞食僧にも等しきものであった。果てしなき巡礼と念仏勧進のうちに一生を送り、名もなき一人の念仏者として、法悦と聖貧のうちに終わった。
彼の先達・法然はその臨終に際し、我が遺骸は念仏の声するところなりと弟子たちを戒め、親鸞は死後この身体を鴨川の魚に与えよと言ったと伝えられている。
念仏の命は全国の村々に生きつつある。今更彼が魂を葬礼の形をもって、また墓所をもって慰むるの要があろうか。

