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一遍上人の生涯|「捨聖」と呼ばれた踊り念仏の祖

一遍上人の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「我門弟におきては、葬礼の儀式をととのうべからず。野に捨て、獣にほどこすべし」

正応二年(1289年)八月、一人の僧が、持っていた書物をすべて焼き捨て、弟子たちにそう言い残して世を去りました。寺を持たず、弟子を弟子と呼ばず、十五年のあいだ全国を歩いて念仏の札を配り続けた人。一遍(いっぺん)上人です。人々は彼を「捨聖(すてひじり)」と呼びました。

 

時代の心

わが国の平安朝の末から鎌倉時代の初めにかけて、世はこぞって戦乱につぐ闘争の有様で、平和の日は一日とてなく、民衆は魂のどん底から不安と動揺におののき、今にもこの天地も打ち砕かれるかの思いに沈んでいました。鎌倉時代に入り、源頼朝によって創立された幕府の統治のもとに世は一時平安を思わせましたが、民心は依然として落ち着きません。京の都で、春の霞に花を歌い、秋の月に思いを寄せた公家社会の人々は、まったく人生に対して生きる力を失っていました。わずかに、遊惰(ゆうだ)で軟弱な、そして単調な生活を繰り返すのみです。

こうした公家社会の人々に対して、地方の武士階級の豪族はますます憤怒と反抗の意気に燃えて立ち上がり、戦禍の炎はいたるところ、罪なき民家を焼き払い、人馬の命を奪いました。年来の努力も水の泡、一朝にして全財産を失う者、いとしいわが子のむくろを抱いて狂乱する痛ましい母、愛する者を奪われて狂う人。人の心は恐怖におびえて、まったく生きた心地もありません。ひとしお自由を奪われた庶民階級の人々は、天の一角をうち眺めながら茫然自失の有様でした。そのうえ、地震や飢饉(ききん)が襲ってきます。

「世も末じゃ、今にこの天も地も一度に砕け落ちるのじゃ。ああ恐ろしい。俺たちもいつまで命のあることやら」

人々は青ざめた顔を上げてささやき合いました。もはや生きることの希望を失っている彼らです。現実の生活に執着を感じられないほど打ちのめされた彼らです。そこにはただ人生の無常と現実生活の不安とが、まことに陰惨な影を投げて、人々の心を厭世(えんせい:世をいとうこと)的な深みに引きずってゆくのみでした。これが平安朝から鎌倉時代にかけての時代の心でしたが、一遍上人はまさしくこのような時代の思潮のなかで、自らの生活を静かに刻んでいった捨聖だったのです。

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救済を得るまで

一遍は、四条天皇の延応元年(1239年)二月十五日、四国の伊予に生まれました。あたかもこの年は、かの日本浄土教の大成者・法然の滅後二十七年目にあたり、東海の浜、清澄(きよすみ)に日蓮が得度(とくど:出家)の鐘を聞く年であり、北越の幽谷に道元が示寂(じじゃく:高僧が死ぬこと)するのと前後する時代でした。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は、この年を「日蓮が得度の鐘をきく年」「道元が示寂してより十四年目」と書いていますが、日蓮の出家は天福元年(1233年)または嘉禎三年(1237年)、道元の示寂は建長五年(1253年)で、どちらも延応元年のことではありません。

 

幼名を松寿丸(しょうじゅまる)といい、父は河野七郎通広(こうの しちろう みちひろ)という武人(のちに出家)でした。七歳のとき、同国の天台宗継教寺(けいきょうじ)に入って修学し、十歳のときに慈母が亡くなると、父の命で松寿丸は出家することになり、法名を随縁(ずいえん)としました。十三歳の折、僧の善入とともに筑前大宰府の学者である聖達(しょうたつ)上人(浄土宗西山派の人)のもとに行き、さらにこの人の勧めによって肥前の華台(けだい)上人のもとに修学することになり、名も智真(ちしん)と改めました。のちに聖達上人のもとに帰って修学しましたが、智真はこうして前後十二年のあいだ、浄土の法門について学んだのです。

しかし、この時代の智真の修学、名だたる学匠の歴訪ということも、いわば彼の知識欲を満たすものであって、これによって心の平安を得ることはできませんでした。ところが弘長三年(1263年)五月、智真が二十五歳の折、父の死に際して一度故郷に帰ることになりましたが、このときから若い智真の人生に対する懐疑と内省とは深刻となり、静かに自己と人生の真実の姿を見きわめようとして苦しみ、かつ努力するのでした。

「身を観ずれば水の泡、消ぬる後は人もなし。命おもえば月の影、出入る息にぞとどまらぬ。過去遠々のむかしより、今日今時にいたるまで、おもいと思うことはみな、叶わねばこそかなしけれ」(別願和讃)

このように人生の無常を痛感した彼は、一方で静かに悠久なる人生、限りなき命への憧憬(どうけい)を深めてゆくのでした。

「万事にいろわず、一切を捨離して孤独独一なるを死するとはいうなり。生ぜしもひとりなり、死するも独りなり。されば人と共に住するも独りなり、そいはつべき人なきゆえなり」(一遍上人語録)

人情を、義理をと人々は叫びます。妻よ、子らよと人々は求めます。まことに束の間のたのみです。ましてや地位が、名誉が、そして財産が、何のたのみになるでしょう。人生五十年の短い世に、明日を知らぬはかない人の世に、人々は我と呼び、彼と隔てて浮き身をやつします。すべてはそらごと、たわごとです。死の前には一切は無です。まことに荒野にさすらう旅人一人、これこそ人間の真実の姿ではないか。彼はそう考えました。孤独の自己に徹する。この真実の自己に徹した者にして、はじめてそこに自己ならざる真の自己の姿を見いだすことができる。この真剣な自己凝視のうちから、はじめて大いなる命への門は開かれるのです。

このようにして、はじめて孤独の自己に帰った青年智真は、ここに魂の安立を見いだすべく、求道(ぐどう)の旅を続けました。彼は文永八年(1271年)、善光寺をはじめとして各地に心の救いを求める旅を続け、同十一年(1274年)三月に天王寺に参詣し、高野山に参籠(さんろう)して紀州熊野にいたり、本宮の証誠殿(しょうじょうでん)の前に祈請して、ここにはじめて自力のはからいを捨て、他力信仰に生きる自信を得たのです。ときに三十六歳でした。真実の道を求めて苦悩すること二十余年、ここに他力本願の純一な道を発見し、名号(みょうごう:南無阿弥陀仏の六字)の絶対の力を信じ知った智真は、歓喜のあまり「我は生きながら成仏せり」と、社壇を踏んで勇躍して叫んだといいます。こうして智真は一遍と自ら名乗り、自ら得たところの他力本願の念仏を広く人々の胸に伝えるため、さらに全国を遊行(ゆぎょう:諸国をめぐり歩くこと)することに決したのです。

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遊行

熊野を出た一遍は、それより正応二年(1289年)にいたる前後十五年のあいだ、全国各地を教化(きょうけ)しました。南は九州より中国、近畿、中部、関東、さらに奥州にまで、ほとんど各地をめぐり、いたるところで老若男女、貴賤(きせん)を問わず、盛んに結縁(けちえん:仏道に縁を結ぶこと)したのです。

一遍は常に空也(くうや)上人を先達(せんだつ)として、その行跡を慕いました。自ら身命を山野に捨て、住まいとてもまったく風雲にまかせての旅です。世の名利を求めず、身に一塵も蓄えず、檀那(だんな)や弟子などと呼ぶべきものはなく、結縁を喜ぶ門侶(もんりょ:仲間の僧)があっても師匠ぶることはなく、ひたすら念仏を勧めることを生涯の命として、定めなき魂の安住を失った庶民たちに念仏の札を配りつつ、村から市へ、市から村へと漂泊の旅を続けました。

この行雲流水の遊行の生活によって多くの念仏の信者を各地につくりえたのですが、さらに彼の遊行を効果あるものにしたのは、賦算(ふさん)と踊念仏(おどりねんぶつ)とでした。一遍は全国遊行の際、結縁の人々に向かって「念仏の形木(かたぎ)」、すなわち念仏の算(ふだ)を与えました。この念仏の形木には「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」の文字が書かれています。遊行の際、一遍は結縁のために手ずからこれを人々に与えたもので、与える者も受ける者も、ともに念仏合掌するのでした。

賦算とともに注意すべき行儀としては、踊念仏がありました。弘安二年(1279年)のころ、一遍が信濃の国をめぐったときです。小田切(おたぎり)の里のある武士の屋形で一遍が踊りはじめると、僧俗が多く集まって結縁したので、これより踊念仏はしだいに盛んに行われるようになりました。同じ年の冬、ある武士が発心して一遍を招き、一日二夜のあいだ供養して念仏を申しましたが、集まった数百の者が踊り回ったため、ついに板敷きを踏み落としたほどだったといいます。この踊念仏はもと空也上人によって始められたものであることは、言うまでもありません。この空也に私淑し、その生涯を深く慕った一遍は、念仏の信心に歓喜の心が躍るとき、同行の者と声をそろえて念仏し、鉦(かね)をたたき、鉢(はち)を打ち鳴らして踊ったのでした。

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彼の最期

正応二年(1289年)八月十日、一遍は最後の遺誡(ゆいかい:死に臨んでの教え)をしたため、所持の書物などを全部焼き捨てて、同月二十三日、念仏の声とともに往生しました。五十一歳でした。

 

※ 一遍が亡くなったのは、摂津の兵庫(現在の神戸市兵庫区)の観音堂で、現在の真光寺(しんこうじ)にあたります。底本には没した場所が書かれていません。

 

一遍は自分の死後のことを遺誡して、「我門弟におきては、葬礼の儀式をととのうべからず。野に捨て、獣にほどこすべし」と言い残しています。まことに一遍の生涯は、町なかの乞食僧にもひとしいものでした。はてしない巡礼と念仏勧進(かんじん:人々に念仏を勧めること)のうちに一生を送り、名もなき一人の念仏者として、法悦と聖なる貧しさのうちに終わったのです。彼の先達の法然はその臨終に際し、わが遺跡は念仏の声するところなりと弟子たちをいましめ、親鸞は死後この身体を鴨川の魚に与えよと言ったと伝えられています。念仏の命は、全国の村々に生き続けています。今さら彼の魂を、葬礼の形をもって、また墓所をもって慰める必要があるでしょうか。

書物を焼き、骸(むくろ)は野に捨てよと言った人の跡には、寺も墓も残りませんでした。残ったのは、六十万人に配ろうとした一枚の札と、村々で今も踊られる念仏です。捨てきった人の声だけが、七百年のあいだ消えずに続いています。

一遍上人の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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