「斯様(かよう)に候う者は、富樫の左衛門にて候」
明治二十年(1887年)四月二十六日、井上馨(いのうえ かおる)の屋敷に設けられた舞台で、富樫役の左団次がそう名乗りました。幕の陰から覗くと、いつもとまるでせりふの調子が違います。高島屋がうつむいて、ぶるぶる震えていたのです。その日、天皇の前で『勧進帳』の弁慶を演じようとしていたのが、九代目市川団十郎(いちかわ だんじゅうろう)でした。
明治劇壇の第一人者
絢爛(けんらん)豪華な大歌舞伎劇は、日本が持つ世界的な誇りの一つです。この栄誉ある歌舞伎の伝統を、江戸時代から明治の末期に至る二百年のあいだ維持し、大成させたのは、市川家九代に伝わる修業と努力のたまものでした。とくに明治の初めから末期にかけて、華やかな歌舞伎の時代を出現させた功労者は、一代の名優・九代目団十郎です。
彼は時代物を尊重し、歴史上の人物を生き生きと写すことに意を注いで、いわゆる「活歴(かつれき:史実に忠実であろうとする歴史劇)」の芸風を打ち立て、歌舞伎の精神と内容の向上に専心の努力を傾けました。その豪放な演技と天才的な芸風は、天下の観客を魅了せずにはおきませんでした。一日の出演料が千円といわれ、明治三十一年(1898年)の春、大阪の歌舞伎座へ乗りこんだときなどは、五万円の給金を取って世間の物議をかもしたほどだといいます。まるで天下の人気を一人で総ざらいにした観がありました。上は伊藤博文・井上馨・大隈重信といった顕官から、下は床屋のおやじ、八百屋の小僧に至るまで、彼のファンでない者はなかったのです。ともあれ、彼は明治劇壇の第一人者として、その名を不朽に残した名優でした。彼の舞台姿は銅像となって、浅草公園に建っています。

修業時代
彼の先祖は、元禄時代に一代の名優として名高かった初代市川団十郎で、実父は文政・天保のころに江戸の劇壇に雄飛した七代目団十郎です。家筋をさかのぼると、もとは甲州武田家の家来で、堀越十郎という武士でした。七代目はわずか十歳で団十郎を襲名し、文化・文政年間に一流の名優として崇(あが)められましたが、四十二歳のとき、人気の絶頂において団十郎の名前を実子の八代目に譲り、自らは幼名の海老蔵を名乗りました。このとき八代目は十歳です。この八代目は三十二歳で自殺したために真の技量を発揮するには至りませんでしたが、古今にまれな人気役者でした。
七代目は、はなはだしい一夫多妻主義の実行者で、九代目はその妾腹(しょうふく)に生まれています。母をお為(ため)といいました。彼女は七代目に囲われてから足かけ四年目の天保六年(1835年)に一人の子を挙げ、これが九代目と同腹の兄にあたる猿蔵(えんぞう)です。それから二年置いて、天保九年(1838年)十月、九代目団十郎の誕生を見ました。しかし彼は生まれて十二日目に、河原崎座(かわらさきざ)の太夫元(たゆうもと:座の経営者)である河原崎権之助(ごんのすけ)の養子となって、三十間堀(さんじっけんぼり)の自宅へ引き取られます。
ともかく、彼は一代の幸運児でした。実家は役者の総本家といわれる「市川家」、父は当時の役者の総元締めの観がある七代目、兄の八代目は当時江戸第一の人気役者、養家は金力と権力において俳優社会に江戸随一の勢力を張った河原崎座の太夫元です。だから彼は、生まれながらにして芝居王国の貴公子でした。
養父は彼を愛するとともにひどく望みをかけ、あっぱれな役者にしようとして、俳優に必要な教育を残らず課しました。その第一は踊りです。やや物心ついたころから、名人として聞こえの高かった西川扇蔵(にしかわ せんぞう)のもとへ通わせて教えを受けさせました。そのほかにも、色々の稽古事をいくつも仕込まれます。朝起きて飯を食うと寺子屋へ行き、それから踊りの稽古、三味線の稽古。これを終えて家へ帰ると、また踊りと三味線のさらい。そのほか花の稽古、茶の稽古と、ほとんど体一つでは足りないほどの課程でした。だからあどけない彼は、寝るのと用便に行くほかは稽古事ばかりに追われて、いつも気がつくと雪隠(せっちん:便所)へ遊びに行ったという話があります。用を足しに行くふりをして、雪隠で遊んだのです。彼の教育がいかに厳格であったかが分かるでしょう。団十郎が踊りに長じていたのは、この幼時の薫陶(くんとう)が与って力がありました。
もう一つは、彼の体質です。彼の手は俗にいう「弓手(ゆんで)」で、肘(ひじ)の関節を外へも曲げることができました。だから『対面』の五郎となって腕を伸ばしたときに形が崩れず、またおよそ荒事(あらごと:豪快な演技を見せる芸)をするのに自然に肘が外へ張るので、あのふっくりした格好がつくのだそうです。ともかく彼は、このような厳格な家庭教育を受けるとともに、一方で舞台をつとめ、諸芸の稽古に余念がありませんでした。初舞台は五歳のとき、訥升(とっしょう)の『渡辺亘(わたなべ わたる)』に八代目が盛遠(もりとお)をつとめた折、「升平(しょうへい)」という奴(やっこ)に出たのが初めだといわれています。

九代目襲名
八代目が大坂で自殺をとげたのは、安政元年(1854年)八月六日でした。そのとき九代目は十七歳です。その翌年には、彼と母を同じくする実兄の猿蔵が、二十一歳で八代目のあとを追って世を去りました。彼が引き続いて二人の兄を失ったのは不幸でしたが、それが彼のためには飛躍の機会をつくることになりました。
八代目が自殺した安政元年の十一月、彼は『忠臣蔵』の若狭之助(わかさのすけ)をつとめました。これまで子役か、でなければ若立役(わかたちやく)の端役であったのが、ここに至ってはじめて本役をふられたのです。翌年の『鏡山』では采女(うねめ)をつとめ、中幕が坂東しうかの『女長兵衛』でしたが、しうかは二、三日出たきりで病気になりました。その代わりに彼にお鉢が回って、彼は「幡随院長兵衛弟長吉(ばんずいいんちょうべえ おとうと ちょうきち)」という役名でそれをつとめます。このとき彼は、八代目の変死を悲しむ当て込みのせりふを舞台で言いました。これが見物にわっと受けて大入りを取ったそうで、それからの彼の進境はめざましく、河原崎権十郎(ごんじゅうろう)こそ未来の九代目団十郎だという評判が高まりました。
彼は河原崎家にもらわれて河原崎長十郎と名づけられましたが、嘉永五年(1852年)に将軍家に若君が生まれて「長吉郎」と名づけられたので、世間一般がその字をはばかり、彼も「権十郎」と改めたのでした。
彼が九代目団十郎を襲名したのは、明治七年(1874年)です。養家との了解がようやく成り立って、八代目が自殺してから実に二十一年目に、はじめて市川家の名跡(みょうせき)を継いだのでした。そのあいだ、市川家の名誉ある名跡は絶えていたわけです。

豪華の晩年
九代目を襲名してからの活躍は、実にめざましいものでした。河原崎座を再興するために莫大(ばくだい)な借財を背負い、また演技に新工夫を入れて歌舞伎劇に独創を加えようとして失敗し、種々の苦境にも沈みましたが、晩年にはその苦心が報いられ、彼は名優としての一代の声望を担ったのです。
明治二十年(1887年)四月二十六日、彼の演技は、おそれ多くも天覧(てんらん:天皇がご覧になること)の光栄に浴しています。このころが彼の人気の絶頂でした。また三十年にわたる彼の演技が円熟期に入り、油の乗りきった絶頂でもありました。明治の功臣・井上馨が鳥居坂(とりいざか)の自邸の茶室開きとして天皇の御臨幸(ごりんこう:お出まし)を仰ぎ、余興に芝居をご覧に入れることになって、彼がその光栄に浴したのです。これは彼の一門の光栄であるばかりでなく、当時の演劇社会にとって無上の栄誉でした。
そのときの事情は、『団十郎経歴談』に詳しく語られています。
「そのうちに日がたって、いよいよ明日は天覧となった。その前の日から、もはや飯も喉(のど)へ通らない、夜も寝られない。ふと、こんな面白くもないものを、との仰せがあって、途中でお立ちになられるようなことがあっては大変だと、心配でならなかった。さて当日になって鳥居坂のお屋敷へ出る。やがて主上(しゅじょう:天皇)にはご臨幸と相成って、君が代の奏楽につれて設けの御座へお着きになった。奏楽の止まるのを合図に緞帳(どんちょう)を巻き上げる。真っ先に出るのが高橋(左団次)の富樫だ。『斯様に候う者は富樫の左衛門にて候』と言っているのを後ろで聞いていると、いつもの高島屋とまるでせりふの調子が違っているから、揚幕(あげまく)から覗いてみると、高島屋がうつむいてぶるぶる震えていた。それから福助の義経、その時分は病中であったから、なおさらがたがた震えていた。けれども私は、舞台に出てから、おそれ多いわけだが観念して、自分では頭を上げていたつもりであった。後に問答になってからはそうでもなかったが、勧進帳を読む間は実に苦しかった」
天皇の御前で一代の名優たちがひどく恐れ入っている有様がうかがえて、興味があります。翌二十七日には皇后が行啓され、二十八日には各国の公使が招待され、二十九日には皇太后の行啓となって、この四日間で首尾よく天覧芝居を終えました。芝居が済むと彼の目は落ちくぼみ、体が痩せて、体重を量ったら一貫五百匁(約5.6キロ)ばかり減っていたそうです。そして宮中からは一同に包み物を賜りましたが、団十郎は中身の金を残らず弟子たちに配り、上包みの奉書だけを天覧の光栄の記念として子孫に残し、今も大切に保存してあるということです。
このように天覧の光栄を賜った『勧進帳』は、引き続き新富座の六月狂言として上演し、二か月間の大当たりを取って、彼の人気をいやが上にもあおることになりました。
彼は勤王愛国的な題目を好んで演じましたが、それにはこういう烈々とした見識がありました。
「たとえ一口に狂言綺語(きょうげんきご:作り事の言葉)と申すものの、巾着切(きんちゃくきり:すり)や盗賊よりは、国のためとか忠義のためとかいう高尚なことをやってみたいと、私は心がけました。もっとも、やってみますと、巾着切とか盗賊の狂言で評判を得ましたよりは、国のためとか忠義のためという実のあるほうが、やっている私も心持ちがようございます。どうしても演るなら、やはり国のために尽くすとか、君のために死ぬとかいうような芝居でなければいけない」
これが彼の一貫した芝居道の精神でした。明治三十六年(1903年)九月十三日、六十六歳をもって、五歳の初舞台以来その天才的な演技を見せてきた華々しい生涯を終えました。


