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上杉景勝の生涯|豊臣五大老として活躍した「笑わない名将」の真実

上杉景勝の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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家に一匹の猿が飼ってありました。よく人の意を解する猿で、主人はこれをかわいがっていました。ある日その猿が、主人の脱いでいた頭巾を取って自分でかぶり、主人がいつも座る席に上って腕を組み、顎をしゃくって、みなの者を指図するまねをしました。主人はこれを見て、はじめてにっこりと笑いました。近臣たちが彼の笑顔を見たのは、生涯でこのときだけだったといいます。上杉景勝(うえすぎ かげかつ)。謙信のあとを継ぎ、豊臣の五大老に列した「笑わぬ大将」です。

 

笑わず

戦国の名将・上杉謙信の跡を継いで、豊臣氏の五大老の一人として活躍した上杉景勝は、性来豪壮で肝が大きく、戦陣に臨んだ際にも、前隊はすでに矛を交え、矢玉が雨のように飛び交い、鬨(とき)の声が天地に震えていても、身はなお幕中に臥して、雷のようないびきをかいていました。しかも沈毅(ちんき:落ち着いて動じない)にして果敢、何ら喜びの情を顔に現すことなく、常に険しい表情を保ち、人を恐れさせる風貌を持していました。

家に猿が一匹飼ってありました。それはよく人の意を解し、景勝はこれを寵愛していました。この猿がある日、景勝の脱いでいた頭巾を取って自らかぶり、景勝が常に座る座席に上って、腕を組み、顎をしゃくって、みなの者を指図する体の身ぶりをやっていました。景勝はこれを見て、はじめて莞爾(かんじ)としました。左右の近臣たちが彼の笑顔を眺めたのは、ただこのときのみであったといいます。笑わぬ景勝。それが、足利の末期、十三代将軍義輝のころ、弘治元年(1555年)に世に生を受け、織田、豊臣を経て徳川氏に至り、元和九年(1623年)に没するまでの、彼の約七十年にわたる生涯の厳粛な象徴ではなかったでしょうか。

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討たれし人の子

景勝ははじめ喜平治といいました。父の長尾政景は錚々(そうそう)たる武将でしたが、自分の妻の兄にあたる上杉謙信を亡ぼそうとして事が露見し、謙信のために討たれるところとなったと底本の『日本英雄伝』は伝えています。

 

※ 長尾政景は永禄七年(1564年)、野尻池で舟遊び中に溺死したとされ、謙信の命による謀殺説もありますが、「討たれた」と断定するのは底本の見方です。

 

謙信は当時十歳であった喜平治を引き取り、直江大和守と甘糟(あまかす)近江守の両人に預けて言いました。

「彼が十五歳になるまでは、お前たち両人で政景の本領を支配せよ。そして喜平治にもし人となるべき器量があるならば、十六歳になったあかつきには相違なく返し与えてやれ」

喜平治は物柔らかな性格でしたが、手ぬるいかと見ればそうではなく、すさまじい事柄にも忍び堪え、怒るときは恐ろしく、ひどく無慈悲かと思えば情深く、心を配って人が恭しく思うように人を使い、文武の道に心を入れ、功績のある者たちの語るところを聞き、よく理非の吟味をしました。あるとき、神仏に祈願をこめている喜平治に向かい、側の者が何のためのご祈願ぞと聞くと、

「政景の子であるからご成敗あるべきところを、一命を助けおかれるのみならず、ゆくゆくは某(それがし)の心立てによって上田の本領も賜るようにも承っている。このご恩を何をもってお報いしようか。一生のうちに召し出されたならば、身命をなげうって忠勤を励み、父の不忠の罪を償い、自分の忠誠をもって亡霊の迷いを晴らしたいという願いなのである」

と言いました。謙信は、喜平治が尋常の者と変わったところが多いから召し出されては、と言われて、さようならば、と彼を召し出し、側奉公を申しつけました。年十三歳のときでした。

景勝が十四歳のとき、深沢、九鬼という二人の者が法度に背き、謙信はこれを斬ろうと思い定めていましたが、都合で延び延びになっていました。景勝は自分にやらせてくれとひそかに謙信に望みました。が、彼らも相当な豪の者であるからとて、謙信は許しません。そこで景勝は、成敗と決まった者たちであるから斬ったとて粗忽にはなるまい、斬れば手柄、返り討ちに遭えばそれまで、と覚悟して時機をねらっていました。と、九月九日の節句の慶賀に諸士が登城した折、ちょうど深沢と九鬼が席を立って休息所へ茶を飲みに出ているところを、景勝が深沢に、

「お前の眼病が悪いとのこと、上のお耳に入り、お薬を下された。お前の目にさして心持ちを聞いて参れとのご意じゃ」

と、深沢をあお向けに寝させて、手に持った胡椒の粉をさっと両眼に打ちかけ、「上意ぞっ」と言うなり脇差を抜いて突きながら、九鬼に助けよと叫びました。九鬼は深沢が起き上がらぬ間に二の太刀を打ってとどめを刺します。そのあいだに景勝は脇差を引き取り、踏みこみざま、九鬼の右の肩先から左の脇まで袈裟掛けに斬り落としました。これを聞いた謙信は非常に褒美し、政景の本領を前のように返し与え、翌年、加賀・能登へ出陣の際には景勝を従えて初陣させました。

永禄の末年、謙信は北条氏康と和し、その子を養って景虎と名づけ、能登と佐渡を与えたと底本はいいます。そして景勝には越後と越中の半国を与えました。ついで天正六年(1578年)に謙信が没しましたが、ここに景勝は景虎と争いを生じ、戦ってついに景虎を破りました。さらに北国を討ち取る志を抱く信長の遣わした柴田勝家を相手にして、頑強に戦っています。

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秀吉との会見

天正十年(1582年)、本能寺の変によって信長は他界しました。以前から景勝に親交を申しこんできていた羽柴筑前守秀吉は、天正十三年八月、疾風のように越中に斬り入ってきて佐々成政を攻め降したのち、石田三成、木村秀俊の二騎と雑兵わずかに三十八人を引き連れて、越後落水(おちみず)の城下に入ってきました。そしてその城を守っている須賀修理亮のもとに使いを立てて、須賀と会い、景勝に見参を申し入れたのです。すると須賀は、その旨を景勝に申し伝えるから、と返事して早馬を立て、一方、秀吉を城中に入れてさまざまにもてなしました。

そのとき景勝は、越中へ秀吉が攻め入ったと聞いて、去年起請文を書いて我と好(よしみ)を結ぼうなどと言ったのも、はなはだしい世の偽りであったのかと、八千六百の勢を率いて糸魚川の城に陣していました。馳せ来った須賀の使者は秀吉の言葉を伝え、

「秀吉をお討ちなさろうとならば、お勢をお借り申すまでもござりませぬ。某、たった今討って参りましょうぞ」

と言いました。景勝は聞いて、

「天下の権をつかさどる身が、戦国争乱のただなかを多くの難所を越えて来たということは、一つには去年の誓いにたがわず我と好を結ばんがため、また一つには景勝が卑劣な振る舞いをすまじきことを頼んでこそ来たのであろう。それをだまし討ちにすることは、日ごろ正しく取ってきたわが弓矢の名の汚れである。いでいで景勝参会して、彼の望みにまかせて親しくなるか、しからずばまずこのたびは彼を返し、重ねて軍を起こしてこそ、勝負は決すべきであろう」

と、直江山城守、藤田能登守ら十二騎、歩武者六十余人を引き連れ、落水の城に行って秀吉に会見しました。挨拶が終わったのち、秀吉の側からは石田三成、景勝の側には直江山城守のみ残って、ひそかに二時(ふたとき)余り事を謀り、秀吉は落水の城を立って富山に帰りました。これより秀吉の信任を得て、招かれて京都に上り、従四位下左近衛権少将兼弾正大弼に叙任され、天正十六年には参議正四位下に叙任されました。同十八年、小田原攻めにしたがい、朝鮮出兵の際には名護屋(なごや)の本営にありました。文禄三年(1594年)、従三位権中納言に叙任。四年には刈羽郡鯖石川(さばいしがわ)の疎水工事をやり、水田五千余町歩を開墾しました。慶長二年(1597年)、小早川隆景に代わって大老に加わり、翌三年、会津に封ぜられて、旧封の庄内とも合わせて百二十万石を領し、同四年、権中納言を辞しました。

 

※ 底本は大老就任と同じ「慶長二年」に会津に封ぜられたように書いていますが、会津への移封は慶長三年(1598年)です。

 

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三成と合わず

慶長三年、巨星落ちて秀吉が亡くなり、日本六十余州は騒然として、二年後に来るべき関ヶ原の戦いを予見して動揺していたころ、景勝が会津に下ろうとして中山道を通った際、石田三成は彼を出迎えて言いました。

「家康と前田利長とが不和となるように策動し、両虎相闘うあいだにその虚に乗じる手段はいかが」

しかし景勝はじっと考えて、

「貴下の謀計はいかにもごもっとものようであるけれども、おそらくそうは参るまい。利長の性質は利家と異なり、家康と勢を張って対陣することなどはできず、ただちに和睦を求めるであろう。家康は叡智の将であるゆえ、必ずこれを幸いとし、恨みを恩に代えて、かえって援助に出て、自らの強さをなす基とするであろう。家康と利長と戦わしめることは、必ずやめられよ」

と言い置いて、会津に下りました。が、三成は彼の忠告を用いず、家康と利長との離間策をやったのです。しかし結果は、はたして景勝の言葉のとおり、いたずらに利長を家康のほうへ押しやったにすぎませんでした。

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忍苦精励

慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣において、景勝は城を攻めて進んでいました。と、馬で走ってきた久世三四郎が、

「にわかに城を攻めなば死傷多からんにより、後陣の堀尾山城守忠晴殿と入れ替わられよとの仰せにござりまするぞ!」

と呼ばわりました。景勝は聞きもあえず、

「弓矢の先を争うときは、一寸でも前に出るのがましということさえある。今朝方より激戦の末、取り敷いたところを人に譲って退くことがあろうか」

と、少しも動こうとしませんでした。丹羽重政が景勝の陣に行ってみると、具足もつけずに床几(しょうぎ)に腰を下ろした景勝は、青竹を杖について城をはったとにらみ据え、左右三百ばかりの軍兵も槍を横たえてひざまずき、紺色に日の丸の旗、毘(び)の文字の旗二本に浅黄の扇の馬印を押し立て、静まり返って見向きもしませんでした。そこに、不遇の英傑たる景勝の悲壮な涙が光っていたのです。逆境多難の忍苦の道をたどらなければならず、笑わなかった景勝ではありましたが、彼は決して絶望しませんでした。徳川氏によって米沢三十万石に減封されたのちも、彼は市街を整備し、城下を経営し、大いに産業を興すなど、よく精励して立派に終わりを全うしました。

父を討った伯父に育てられ、笑うことなく七十年を生きた人は、敵の総大将をだまし討ちにせず、味方の謀略に乗らず、取った持ち場を譲りませんでした。百二十万石から三十万石へ落とされても絶望しなかった。猿の一芸に一度だけ笑ったという話が、この人のかたくなさと、その奥の優しさを、同時に伝えています。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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