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上杉謙信の生涯|「越後の龍」と呼ばれた戦国最強の義将の素顔

上杉謙信の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「さても残念な、名大将を殺したものよ」

天正元年(1573年)四月、宿敵武田信玄の死を知らされた越後の大将は、食べかけの湯漬けの箸を捨て、涙をはらはらと落として、三日のあいだ音楽を禁じました。老臣たちがこの隙に信濃へ攻めこめと勧めても、「若い勝頼が跡を継ごうとする慌ただしさにつけこむなど、大人げない振る舞いだ」と出陣しませんでした。上杉謙信(うえすぎ けんしん)。戦国の世に、真の高士の風格を示してそびえ立った人です。

 

戦国の偉雄

永禄・元亀・天正の約四十年間を貫く戦国時代。甲斐に武田、相模に北条、駿河に今川、長門に毛利、越後に上杉、その間に織田が介在し、群雄が年々相闘って機略を競い合いました。この天下の偉観のなかに、もろもろの群雄を圧して、猛勇、無欲、清浄にして器量大きく、廉直、明敏、慈恵にして下を育て、真の高士の風格を示してそびえ立つものは、実に上杉謙信でした。

謙信は享禄三年(1530年)正月二十一日、越後国春日山城に守護代・長尾信濃守為景の末子として生まれ、幼名を虎千代といいました。天文五年(1536年)、虎千代七歳のときに父が没しましたが、たちまち物情騒然として強敵の迫るに及び、彼は幼弱の身に甲冑をつけて父の柩(ひつぎ)を守護したといいます。年わずか十四歳にして下越に戦って以来、謙信は、あるいは村上義清の乞いを容れて武田信玄と川中島に戦い、あるいは関東管領上杉憲政に救援を請われたのに端を発して上杉家を嗣ぎ、関東の野に転戦して北条氏と争い、南征北伐実に三十六年、東山、北陸、東海の諸道に威を振るい、越後、越中、加賀、能登、佐渡、飛騨、上野、陸奥、出羽、常陸の国々を討ち従えました。そして天正六年(1578年)三月、織田信長に追われた将軍足利義昭の依嘱を容れて信長を討とうとし、越後の雪の消えるのを待って、管内八か国の大軍を検閲し、都に討ち上る準備のさなか、にわかに病のために倒れ、同三月十三日、ついに空しくなりました。享年四十九。

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魔風一騎

永禄四年(1561年)九月、隣の室がほのかに白みそめるころから、銀蛇のようにうねる千曲・犀(さい)の両河に漂う紫の朝霧をかき乱して、貝鉦(かいがね)の響き、押太鼓の音、矢叫び、剣戟(けんげき)、天地も崩れる鬨(とき)の声。甲越両軍の龍虎の闘い、虚々実々に、水も草木もどよめいていました。

折しも突如、黄褐毛の駒の足並み早く、白布に面を包み、大太刀を大上段に振りかぶり、砂を蹴立てつつ武田の本陣へ、真一文字に斬りこんだ魔風一騎。

「武田殿!」

声もろともに信玄へ斬りつけました。刀を抜く間もなく発止(はっし)と受けた信玄の鉄扇は二つに割れ、信玄は肩をやられます。危機一髪、槍で刺された襲撃者の馬が飛び上がりました。これこそ有名な、越後方の総帥上杉謙信の単騎斬りこみでした。

天文二十二年(1553年)八月、村上義清が武田信玄と戦って敗れ、越後へ来て謙信に回復を託した際、謙信は承諾したのち、信玄の兵を用いるさまはいかがとたずねました。義清は答えて、信玄の戦法は十分に大事をとり、締めてかかり、軽率なやり方をするようでそうではなく、勝ったのちはますます用心を深くし、十里行くところを五里あるいは三里にするものであると言いました。謙信はうなずいて、

「信玄のそうした戦法は、つまり国を取らんがためのやり口だ。自分は国を取ろうなどということには構わぬ。ともかく、やりかけた一戦に勝ち抜くということを眼目とする。信玄は陣形を広く開く。しかし自分はあくまで敵陣に対して力を集中し、それを突破する戦術をとる」

この精悍無比な戦法が、謙信の兵法でした。

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深謀と信念

信玄は、このように大将自ら陣頭に立ち、鋭角的に直線的に敵を衝こうとし、時おり自ら斥候(せっこう)に出たりする謙信をとらえようとして、間者を放ってうかがわせました。けれども謙信は一日ごとに姿を変えるので、ついにはっきり突きとめることができませんでした。謙信はまた、蝋燭(ろうそく)、金引(かなひき)、鮭の塩引き、黄檗(きはだ)などの商人を仕立てて国々に遣わし、人情地勢をうかがわせて、自らこれを記していました。だから、その主の徳とか能力、その国の虚実、地の険易、兵の多少など、百里二百里の外のこともつぶさに心得ていたのです。彼は酒を好み、景勝や直江兼続を相手に飲みましたが、肴は何もなく、いつも梅干しだけでした。将士の訓練に関しては「精神」を重んじることを第一義としました。謙信は真言密教に深く帰依し、武神毘沙門天王を尊信し、兵馬のあいだにも参禅をつとめ、仏道に深く心を寄せていました。彼の軍には「我が軍は降魔(ごうま)の軍なり」という信念が強く流れていたのです。

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血あり涙あり

永禄五年(1562年)、長尾謙忠が四か条の罪があって斬られたとき、彼の家中の妻子たちはそれぞれ分に応じて金銀米銭を与えられました。そのなかに謙忠の子で十二、三歳になったのが母とともに近郷にいました。これは謙忠の子であるから殺すべきか否かをたずねたとき、謙信は、

「そんな要はない。その子が成人して予をねらい、父の怨みを報いるのも報いないのも、それはすべて天運にあるのだ」

と、同じように金子を与えて、飢えと寒さから救ってやりました。この恩に感じてか、のちに彼ら兄弟は右馬助、右京亮と呼ばれ、加賀市橋の城で忠死しました。

元亀元年(1570年)四月、信玄が三河に出陣すると聞いて、謙信は信濃に入り、長沼へ火を放って、はるかに徳川氏へ声援しました。そのとき信玄は子の勝頼に兵八百を率いさせて謙信の行く手を阻ませました。

「勝頼はわずかの兵をもって予に当たろうとしている。さすがは信玄の子だ。その勇気を愛でよう」

と、謙信は兵を引いて帰りました。世人はその態度を嘆賞しました。天正元年(1573年)四月、信玄が死んだとき、謙信は春日山で機嫌よく湯漬けを食べていましたが、その訃報を聞いてそのまま箸を捨て、

「さても残念な、名大将を殺したものよ」

と涙をはらはらと落とし、三日のあいだ音楽を禁じました。信玄の死去を知ったとき、老臣たちはこの虚に乗じて信濃に出陣すれば勝利疑いなしと勧めましたが、謙信は、「若い勝頼が跡を継ごうとする慌ただしい際につけこんで攻め入ろうなどとは、大人げない振る舞いであろう」とて出陣しませんでした。また長篠の役があったのちにも勧めた者がありました。けれども、人の落ち目を見て侵略しようとするなどは我が本意ではない、と言って、ついに勝頼の領国へ兵を出しませんでした。信玄が臨終に際して、「我がなきあとは、越後の謙信公を頼れよ」と勝頼に遺言したことも思い合わされて、気高い英雄の面影がしのばれます。

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風流の道

謙信は兵馬倥偬(へいばこうそう:戦いに忙しいこと)、寧日(ねいじつ:安らかな日)のないあいだにあっても、常に心を学問風流の道にひそめていました。天文二十二年に上洛し、参内の上、貢ぎ物を献じた際などにも、公卿の邸に出入りして歌道を談じ、大納言公光については源氏物語や伊勢物語に関する疑義をただしたり、将軍足利義輝と応酬して、初雪と題し、

昔よりさだめし四方に立帰りおさめさかふる千代の初雪

と返しに詠じたりしました。

 

※ 底本の『日本英雄伝』はこのとき謙信が「一条兼良、西園寺公朝等の邸に出入して歌道を談じ」たとしていますが、一条兼良は文明十三年(1481年)に没しており、天文二十二年の上洛で会えるはずがありません。別の人物の誤りか、底本の思い違いです。

 

永禄二年(1559年)に上洛した際は近衛稙家(たねいえ)に歌道を学び、また細川幽斎とも和歌の交わりが深いものでした。こうして花の朝、月の夕、さては兵を率いて野宿する野にあっても、謙信は時により、ところに応じて胸中に湧き起こる詩情を、心ゆたかに詠みました。

雲雀なれもまた草のまくらかゆふひばりすそ野の原におちて鳴くなり(雲雀)

風の音をまつさきたてゝさゝの葉のみやまも迷ふ夕立の空(夏日詠夕立)

つらかりし人こそあらめ祈るとて神にもつくす我心かな(祈恋)

あふ人をたびには友とこととはん思ふ都のつてならずとも(旅行)

天正五年(1577年)、七尾城を陥れ、信長を追って越前の細呂木にあったとき、

野伏する鎧の袖も楯の端もみな白たへのけさの初雪

同じ年の九月、能登を攻略したときには、

霜満軍営秋気清 数行過雁月三更

越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征

(霜は軍営に満ちて秋気は清く、数行の雁が月の三更を過ぎてゆく。越山に加えて能登の景色をもわが手にした。故郷の者が遠征の身を案じていようとも、それはさておき)

と、今の世までも名韻を伝えました。

 

※ 底本は能登攻略を「同年五月」としていますが、七尾城の落城は天正五年九月十五日で、この詩は「九月十三夜」の作と伝えられます。詩の「秋気」「月三更」とも合うのは九月です。

 

さらに謙信は、書は青蓮院書風の正統を学び、また能、笛などの諸芸にも通じていました。また謙信は辞世に、

極楽も地獄も先は有明の月ぞ心にかゝる雲なき

と詠じてその澄み冴えた心境を語り、まさに死のうとしては左右を顧みて、「四十九年一睡の夢、一期の栄華一杯の酒」と言い、笑みを含みつつ眠るがごとく、波乱の生に英雄詩人らしい幕を静かに閉じました。

国を取るためではなく、始めた一戦に勝つために戦い、敵の子の勇気をほめて兵を引き、敵の死に涙を流して三日音楽を止めた人。梅干し一つで酒を飲み、陣中で月を詠み、一生を一杯の酒と笑って逝った。戦国にこういう大将がいたことを、人は四百年たっても忘れていません。

上杉謙信の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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