明治二十九年(1896年)五月五日。鍛冶橋監獄の門を出たばかりの一人の実業家のもとへ、親しい事業仲間のミッチェルというイギリス人が訪ねて来ました。サミュエル商会の東洋支店長です。長いあいだ牢獄で苦しんできた日本の友人を、大いに慰め、励ますつもりでした。
ところが応接室に通されると、主人はその日の新聞を手にして出て来ます。そして席につくやいなや、新聞に出ている五分利付き九十八円の軍事公債の話を始めました。これは大いに儲かる、ぜひ買っておくべきだ、とすごい勢いで論じ始めたのです。たった今、牢獄から帰ってきたばかりの人が、です。世界を股にかけて大事業を切り回す闊達な紳士ミッチェルも、これにはたじたじとなって、出獄の祝いも慰めの言葉も、ろくに口にできなかったといいます。
雨宮敬次郎(あめのみや けいじろう)。明治の実業家気質を代表する人物でした。
満身これ事業熱
明治二十七年(1894年)、「鉄管事件」という小さな疑獄が起きて、ずいぶん世間を騒がせました。事件の舞台は東京鋳鉄会社です。そのころ、東京市に初めて水道が引かれることになり、その工事を請け負ったのがこの会社でした。工事に不正な鉄管を使ったことが明るみに出て、会社の社員と、彼らと手を組んでいた市の役人が多数検挙されます。雨宮敬次郎はこの会社の社長でしたから、鍛冶橋監獄につながれることになりました。
彼はずいぶん長く獄にいました。しかし幸い嫌疑は晴れ、明治二十九年五月五日に出獄します。
「天命をよく知る年に獄を知り、これも天命これも天命」
などと、あまり上手とは言えない獄中の詩を書きつけた帳面を、たくさん抱えて。
鉄管事件そのものは、たしかに大きな事件でした。けれども世間を騒がせたのは、事件そのものより、むしろ雨宮敬次郎がかかわっているという事実のほうでした。彼は明治の実業家の典型のような人で、その一挙一動がいつも事業界に大きな波を起こしていましたから、この人物がここで滅びるのかどうかに、世の目が集まったのです。

では、それはどんな時代だったのでしょうか。ちょうど日清戦争のころ。東京にもまだ電車が走っていません。日本中に鉄道もあまり敷かれていない。今と違って、国内に次々といわゆる「文明事業」を興さなければならない時であり、外国との貿易もやっと手をつけ始めたばかりでした。つまり日本の資本主義はまだ若く、ようやく立ち上がりかけたところだったのです。
だから当時の人々は、大なり小なり野心家でした。大臣になろう、大将になろう、博士になろう、という野心もさかんでしたが、なんといってもいちばん熱かったのは、一つ大事業をやって巨万の富をつかんでやろう、という思いです。日本中を、大小の事業家が血眼になって走り回っていました。そのなかで一人抜きん出ていたのが、雨宮敬次郎でした。第一に、事業への情熱で他を圧倒していました。目のつけどころ、計画の大胆さと巧みさ、それをやり抜く手腕と粘り強さと腹の太さ——どれをとっても、かなう者はいなかったのです。冒頭のミッチェルの話は、その一つの証拠でした。

明治の実業家気質を代表する人物
こんな人ですから、事業のほかには楽しみも趣味も何一つありません。ただ事業の上に事業を積み重ね、いつも粗末な服を着て、粗末なものを食べていました。倹約を心がけていたからではなく、そんなことにまったく無頓着だったからです。美しい女性や美食を楽しんでいる人を見ると、「へどが出る」と口汚く罵ったといいます。その一方で、友人や後輩には無造作に大金を融通し、事業に必要だとなれば、どんな大金でもポンと投げ出しました。だから競争相手からはずいぶん憎まれもしましたが、友人や後輩、失敗したときに救われた人、落ち目のときに引き立てられた人たちからは、彼のためなら身を投げ出す、というほどの信頼を寄せられていたのです。

鉄管事件のとき、こんな話がありました。警視庁が彼の持ち物を調べたときのことです。彼はいつも頑丈な組み紐で、甲武鉄道会社の車掌用の、時価十円ほどの白銅の時計を帯にぶら下げていました。それを警視庁は、時価百数十円の白金製の時計と書類に書き込んだのです。当時、たいへんな評判になりました。彼はこの勘違いを笑って、歌を一つ作ります。
白銅も白金になり悪党も善人になる金の御威光
あれほど金儲けに熱中していながら、心の底では金を軽蔑し、金持ちを軽蔑し、金をありがたがる人々を軽蔑していた。彼の人生観が、この拙い歌によく表れています。死ぬとき、子に遺言してこう言いました。
「おれは金をこしらえて地獄へ背負って行く気はなかったから、財産は残さないぞ。ただ家屋敷だけは残しておくから、貧乏したらそれを売って食え」
事実、彼が儲けた巨万の金は、残らず投資に回っていました。彼には事業だけが命で、事業熱のほかには何もなかったのです。この点で、彼は明治の実業家のなかの代表的な人物であったばかりでなく、明治の実業家気質そのものを代表する人物でもありました。

極端な浮沈の波を乗り切った生涯
雨宮敬次郎は弘化三年(1846年)に生まれました。アメリカのビッドル提督が軍艦で浦賀に来た年です。生まれた山梨県東山梨郡牛奥村(現在の甲州市)は、山の奥の辺鄙な村でした。世の中が物騒なころでしたから、そんな山の中にも、藩を脱走して尊王運動に加わっていた名も知れぬ浪士が、幕府の追及を逃れて隠れていました。雨宮の家は貧しい農家でしたが、その土地の習わしどおり、幼いころから武術や『孝経』の素読を学びます。教えたのは、その浪士でした。十歳のころからは近くの一の宮村の修斎という塾に学僕として住み込み、十六まで勉強します。しかし家が貧しく働き手が要るので、呼び戻されました。それからは家で莚(むしろ)や草鞋(わらじ)を作って暮らしを助けながら、しばらくは文武の道に励んでいたそうです。

けれども、帰ってきて目の当たりにしたわが家の貧しさが、彼を奮い立たせました。ある日、まず近くの村から鶏卵を買い集め、遠くない甲府の城下町へかついで行って、茶屋や旅館を一軒一軒売り歩いてみたのです。最初の元手は、家じゅうをかき回してやっと見つけた一分金二枚だったといいます。これが、のちの大事業家の記念すべき第一日でした。多少の利益が出たので、彼の事業熱はがぜん目を覚まします。一、二年は鶏卵売りを続けましたが、十八のころにはもう一歩進んで、真綿や葡萄などの産物を江戸へ運び、その儲けで今度は江戸の産物を買い集めて甲州へ運んで、そこでまた儲ける——ばかにならない商売を始めていました。

さて、ようやく貯めた三十両を元手に、今度は信州の松本・上田から奥州の白河・会津のあいだを行き来して、生糸や蚕の種紙の仲買をやってみました。ところが、これが失敗でした。大きな商売をするには、時の相場や景気に通じていなければならない。そう悟ったときには、もう遅かったのです。生まれて初めて大きな商売をして、生まれて初めて大きな失敗をした彼は、数千両という借金を背負いきれず、自殺を決意しました。郷里の村を流れる川の岸に立ち、袖に石まで詰めて、あわや飛び込もうとしたところで——いや待て、とその瞬間に思いとどまったといいます。それからは骨身を削り、言葉に尽くせない苦労をして、あらゆる事業に片っ端から手を出しました。儲けたこともありますが、片っ端から失敗も続きます。それでも失敗のたびに勇気を新たにして、次の事業に立ち向かった。あの腹の据わり方は、この自殺未遂の瞬間に決まったものだ、ということです。

彼がようやく事業家らしい顔つきになったのは、明治二年(1869年)、二十四歳のとき。六十円を懐に横浜へ出て、洋銀相場を始めてからです。とはいえ、一挙に三十万円儲けたかと思うと、翌日には六十万円損をして郷里へ逃げ帰る、といったことが何度も繰り返されました。いちばんひどかったのは、あるイタリア人と組んで蚕の種紙三万枚を持ってアメリカへ渡り、ロンドン、パリ、ローマと世界中を回ったのに一文にもならず、さんざんな姿で日本に逃げ帰ってみると、家は丸焼け、おまけに妻は重病で死にかけていた、というときでした。
こんな話もあります。ある銀行の開業祝いの宴会で、突然立ち上がった彼は、「私はまっ先にこの席で、家屋敷を抵当に二千二百円の借用契約をしよう」と言い出しました。この銀行の前途を祝して、開業式の日から早くも取引が始まるのは縁起がいい、と。満場の大喝采です。ところがこれは、資金が底をついていた彼の苦肉の策でした。しかもその家屋敷は借家で、翌日、家主に了解を求めに行ったというのです。
しかし最後には、北海道炭礦汽船会社、東京電気鉄道会社をはじめ大小数えきれない会社の社長として、彼の地位は安定しました。炭鉱、採油、電気、製鉄、鉄道、海運、貿易——いわゆる「文明的商工業」のほとんどすべての分野で、その土台を固めた先覚者として、勲四等の名誉も得ています。軽井沢を開墾した功績で藍綬褒章も受けました。そこには今でも雨宮村があります。明治四十四年(1911年)に亡くなり、その盛大な葬儀には、親しかった伊藤、松方、井上らの元老たちも参列しました。





