明治二年(1869年)六月二十三日。函館の五稜郭で降伏した幕府軍の将たちが東京に護送され、軍務局糺問所(きゅうもんじょ)の揚屋(あがりや:武士を入れる牢)に入れられました。
その牢屋は、皮肉なことに、彼自身が二年前に幕府の歩兵頭をしていたころに建てさせたものでした。
蚤と蚊が多く、薄暗く、暑苦しく、臭気ふんぷんたる牢の中に座った彼は、嘆声一番、こう言ってため息をつきました。
「俺はかつて舶来の虎を見たことがあるが、今日の姿はまるで見世物の虎じゃわい」
けれども、檻の中へ入ってもさすがは虎でした。彼はそこで、脱走以来の記録を綿密に書きつづり、和漢の書はもちろん、南北戦争の戦記からナポレオン伝、さらには葡萄酒や石鹸の製造法まで、外国の原書を読破し続けたのです。
大鳥圭介(おおとり けいすけ)。緒方塾の貧書生から幕府の歩兵奉行となり、五稜郭で戦い、明治には工部大学校長・学習院長・公使を歴任した人でした。
貧書生ほがらか
「おい、大鳥、俺のも頼むぜ」
「わえのも早うやってんか」
「かしこまって候」
嘉永のころ、大坂の緒方洪庵(おがた こうあん)の塾舎です。関東の佐倉にある佐藤泰然(さとう たいぜん)の塾と東西に並び立ち、天下にその名がとどろいた蘭学塾でした。塾舎の片隅、机の前に座った圭介は何をしているのかと見れば、せっせと洋書の書き写しに励んでいます。
当時、原書というものはじつに乏しく、兵書なども長州侯が一部、薩摩侯が一部といった具合で、全国に十部もありませんでした。洋学を学ぶ者たちは、手に入れるのが難しいので、原書を借りて順番に写すしかありません。この書き写しを、他人の分まで十枚一銭ほどで引き受け、乏しい学費の足しにしていたのが大鳥圭介でした。

生い立ち
播磨と備前の境にある上郡(かみごおり:現在の兵庫県赤穂郡上郡町)という小さな町から、三里ほど山奥に入ると、赤穂郡赤松村字細念(さいねん)という村があります。この村の片隅、山ぎわに立つ藁ぶきの家で、天保三年(1832年)二月二十八日、維新の偉才・大鳥圭介は生まれました。父の直輔(なおすけ)は村の医者でした。
圭介は幼いころから祖父の純平に学びました。十四歳で備前の閑谷塾(しずたにじゅく:岡山藩の郷学)に入って漢学を修め、続いて父の親友・中島意庵(なかじま いあん)について、生理学・物理学・植物学・病理論・解剖書などの翻訳を読みます。そこで大いに目を開かれました。ついに意を決し、何度も父に頼み込んでようやく許され、蘭学を修めるために緒方塾に入門します。嘉永五年(1852年)の春、二十一歳でした。
さて、念願の入門は果たしたものの、国元から届く月二、三両では、どうにも心もとない。そこで始めたのが、金のある怠け者たちから代金を取って原書を代わりに写す仕事でした。この商売はなかなか繁盛します。
こうして彼は、最初に取りかかって面食らった文法書『グラマチカ』を半年ほどで征服し、次に生理学の本、それから『ナチュラルフィロソフィ』という理学の本を読んで、ようやく尽きない面白さを感じ始めました。
こんなふうに稼ぎと猛勉強ばかりに夢中だったのだから、きっと陰気で冷たい人間だったのだろう——と思うと、まったく違います。きわめて陽気で朗らかでした。
外出から戻った仲間に向かって、「おい、放り出せ」と言う。何のことかといえば、刀と羽織です。当時は刀を差さず羽織も着ずに外出するのは具合が悪かったのです。圭介先生、自分が持っていないものだから、他人のものを応対ずくで剥ぎ取っては出て行く。しかも芝居がたいへん好きで、帰ってくると役者の声色をやる。
この声色には効用もありました。同窓の岩谷玄龍(いわや げんりゅう)はひどい寝坊で、毎朝なかなか起きません。それを圭介が「玄龍どの、お起き召され」と、得意の尾上多見蔵(おのえ たみぞう:当時の大坂の名優)の声色でやると、いつもぽんと飛び起きたといいます。
同窓には、福沢諭吉、箕作秋坪(みつくり しゅうへい)、大村益次郎、長与専斎(ながよ せんさい)など、のちに名を成す錚々(そうそう)たる顔ぶれがそろっていました。
風雲を望んで江戸へ
二年半ほど緒方塾で学ぶうちに、世は安政となりました。外国の軍艦が近海に現れ、開国か攘夷かの議論がやかましく、世の中は騒然としてきます。彼はきっぱりと江戸に上り、坪井芳洲(つぼい ほうしゅう)の塾に入りました。
まもなく塾長となり、各方面から頼まれる築城や操練の兵書を翻訳しながら蘭学を教えていると、江川太郎左衛門(えがわ たろうざえもん)の江川塾に招かれ、そこで蘭書によって兵書を講じるようになります。圭介はまだ二十六歳。塾生の中には黒田清隆、大山巌もいました。
圭介の名はしだいに高まり、初めは尼崎藩に、続いて徳島藩に召し出されます。このころ翻訳したのが、洋式兵書の古典として珍重される『築城典型』と『砲科新編』です。この本を出版するにあたって、彼は蘭書から活字の鋳造法を研究し、日本で初めて金属活字を造って使いました。写真術の大要を初めて理解し、自分で試したのもこのころです。

幕府に抜擢さる
時勢の重大さを見て、幕府は民間から人材を登用しようとしました。慶応二年(1866年)、ほかの洋学者たちとともに圭介を抜擢し、開成所の洋学教授に任じます。のちに歩兵差図役頭取(さしずやくとうどり)となった圭介は、幕府が横浜でフランス式操練の伝習を始めると砲兵科の実習に加わりました。オランダ語や英語の本で兵学を研究し、幕府に雇われていたフランス人にも質問して、彼独自の、士気にあふれた伝習隊を作り上げたのです。
このころ圭介は神田駿河台に住み、出雲藩士・矢島大三の娘みちと結婚して、一男二女をもうけていました。
そこへ慶応四年(1868年)正月。幕府軍は鳥羽伏見の激戦に大敗し、徳川慶喜はひそかに海路で江戸へ帰ってきます。江戸で歩兵奉行を務めていた圭介は急いで将軍に謁見して意見を述べましたが、軍議はばらばらで、いっこうにまとまりません。大久保一翁・勝海舟・山岡鉄太郎らは恭順派。主戦派の榎本武揚は、新政府軍の先鋒がすでに品川に達しているのに、軍艦数隻を率いて品川湾に停泊したまま動かない。上野の山には彰義隊がいる——。圭介はうっ屈した思いを抑えきれず、ついに日光をめざして江戸を脱走しました。従う幕府の精鋭は二千人あまり。
それから彼は東北各地を転戦し、仙台で榎本武揚らと合流して、ともに函館の五稜郭に立てこもり、新政府軍に抗しました。しかし戦いは不利に傾きます。明治二年(1869年)五月、自ら罪を引き受けて部下の助命を決め、榎本・松平・荒井らとともに軍門に降ったのです。

檻の中の虎
六月二十三日、東京に護送された彼らは、軍務局糺問所の揚屋に入れられました。その牢屋は、圭介が前々年に歩兵頭だったころに建てさせたものでした。
蚤と蚊の多い、薄暗く、暑苦しく、臭気ふんぷんたる牢の中に座った圭介は、嘆声一番、「俺はかつて舶来の虎を見たことがあるが、今日の姿はまるで見世物の虎じゃわい」とため息をつきました。
けれども檻の中に入っても、さすがは虎です。豚のようにぼんやりしてはいませんでした。慶応四年に江戸を脱走してから入牢中の明治三年七月末までの出来事を、『南柯紀行(なんかきこう)』として細かく詳しく書き記します。そのうえ、和漢の書はもちろん、イギリス人の書いた『米利堅合衆国南北戦記』、ドイツ人リュストウの著書のオランダ語訳、『仏蘭西全国歴史』、フランス人の書いた『仏帝那破翁(ナポレオン)伝』、アメリカ人の書いた南部軍艦の海上巡邏の記録、『千八百六十六年独逸戦記』など、諸外国の原書を読み尽くしました。さらに洋書で葡萄酒や石鹸の製造法まで、細かく研究したのです。
薩摩藩は寛大な処分を主張し、長州藩は死刑を主張する。自分の運命がまさに風前の灯だというときに、これほど知識欲に燃え、こつこつと欧米の文化を吸い取り、日本の文化の興隆を念じてやまない。生死を超えたその大きな覚悟は、まことに虎でなければできないことでした。
そのあいだ、下総の佐倉で苦労しながら身を隠していた妻は、夫の東京到着を聞くと三人の子どもを連れて上京し、出入りの米屋・大黒屋の名義で差し入れをするなど、夫を気遣っていました。

出でて万里に使す
明治五年(1872年)正月、黒田清隆の尽力と西郷従道らの奔走で許され、出獄した圭介は、久しぶりに妻子に会いました。江戸脱走のとき八歳だった娘の小雛(こひな)が、もう十二歳になっていました。
まもなく黒田の計らいで開拓使御用係に任じられ、続いて外債発行の用件で欧米へ行く大蔵大輔・吉田清成(よしだ きよなり)に従って、アメリカからヨーロッパへ出かけることになります。
サンフランシスコに着くと、豪華絢爛な大ホテルです。夜具は絹ずくめ、食事は山海の珍味。圭介はひどく恐縮して、「いや、比べものにならぬ!」。何と比べているのかと思えば、ついこのあいだまで寝起きしていた牢屋とでした。
アメリカでは金利が高くて外債が成り立ちません。そこでイギリスへ渡り、明治六年(1873年)六月まで一年ほど滞在するうちに、うまく外債募集の使命を果たして帰国しました。

累進腕を揮う
明治八年(1875年)、彼は工部省に入りました。出獄したとき、当局者は軍の職に就くよう勧めましたが、彼は「敗残の将、兵を語らずじゃよ」と断って、外債募集使とともに渡欧してしまったのです。
とはいえ、軍人の才がなかったわけではありません。部下を率いることに優れた名将の素質があり、負けた際にも「またやられたか」と笑っているほどで、彼のいるところでは必ず士気が上がったといいます。
欧米から帰った圭介は、向こうの工業についての新しい知識をしっかり仕入れていました。明治十五年(1882年)に工部大学校長となり、研究に、紹介に、工業教育のために尽くすところが多かったのです。教育界での信望も厚く、十九年(1886年)には学習院長となり、華族女学校長も兼ねました。
二十二年(1889年)、清国駐在特命全権公使を命じられ、二十六年(1893年)には朝鮮公使を兼ね、日清戦争の直前には清国公使・袁世凱(えん せいがい)と交渉しました。当時、大鳥公使が朝鮮政府を助けようとして清国兵をさんざんに打ち負かした、という趣旨の俗謡が流行したといいます。
その功績で枢密顧問官に挙げられ、勲一等に叙せられ、続いて男爵を授けられました。
「五十年の むかし思へば 難波津の よきもあしきも 夢の一ふし」
五稜郭の籠城も、今は過ぎ去った悪夢でした。明治四十四年(1911年)六月十五日、八十歳で静かに世を去ります。
他人の分まで原書を書き写して学資を稼いだ貧書生は、自分が建てた牢屋の中で洋書を読み続け、出獄すると「敗残の将、兵を語らず」と軍職を断って、工業と教育の道に進みました。
負けたときに「またやられたか」と笑える人でした。その笑いは、牢の中で「見世物の虎じゃわい」と言った、あの笑いと同じものだったのでしょう。



