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榎本武揚の生涯|五稜郭の死闘から明治政府の大臣へ登り詰めた「江戸っ子の花」

榎本武揚の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「降伏のことならば、聞くに及ばん」

明治二年(1869年)五月、五稜郭の孤城を背にして、官軍の黒田清隆と幕軍の総裁榎本釜次郎が向かい合いました。その数日前、釜次郎は、オランダで苦学して持ち帰った『海律全書』を敵陣に贈っています。自分は城と共に消えても、この本を戦火で焼くのは忍びないから、と。黒田は感謝の手紙と酒五樽を返しました。のちに明治政府の大臣を歴任する榎本武揚(えのもと たけあき)の、生涯でいちばん有名な場面です。

 

丁髷の洋行

勝海舟とともに江戸っ子の花とうたわれる武揚は、天保七年(1836年)八月二十五日、江戸は神田和泉町に産声を上げました。父は榎本円兵衛武規という幕府の天文方の役人でした。武揚は明治新政府に出仕するに至るまで釜次郎といいましたが、その性質は幼時からいかにも垢抜けのした、きびきびしさを持っていました。六、七歳のころ、湯島天神女坂下の女師匠の寺子屋へ入った彼は、成績はすこぶるよく、席書(せきがき)のごときも常に首位を占めていましたが、悪戯と来ると手に負えない腕白小僧でした。師匠が留守だというと、草紙を肩や腰にまとって鎧にし、砂糖袋を冑にし、机に馬乗りになっては「者ども進めェー」と竿を振るのでした。

のちに昌平黌に学ぶようになってからも腕白と無頓着は相変わらずで、ある日、兄と一緒に通学の途中、一人の町人体の男が釜次郎に突き当たりました。振り返ると見も知らぬ男でしたが、「ねえ、あなたのお刀をくださいな」と言うのでした。釜次郎はいっこうに怪しむ様子もなく、「そうか、さあやろう」と、大小二本とも無造作に渡してしまいました。帰ると家内中大騒ぎで、武士が両刀を取られて生きていられるか、などとおどしましたが、「くれと言うから、やってしまった」と本人はいかにも洒々と平気なものでした。またあるとき、姉がお稽古に行くときになって三味線がないと探し回っていると、その大事の三味線は庭先で釜次郎のために、哀れ黒檀の竿を挽き切られてしまっていました。

当時はすでに内外の形勢ようやく風雲をはらみ、西南諸藩には早くもむらむらたる気運が動きはじめていましたが、御膝元の八万騎はいまだ太平の悦楽にふらついていました。こうしたなかにあって、釜次郎はふと、江川坦庵(たんあん)の屋敷内に寓居していた中浜万次郎から英学を学ぶに及んで、はじめて彼の耳目は緊張しだしました。浦賀沖に四隻の黒船を見てからは全国騒然として品川には台場が築かれ、越中島に新設された練兵場では連日訓練が行われるという有様でした。幕府はまた長崎港に長崎伝習所を開き、蘭学の伝習と新式海軍建造の準備に着手しました。雄心勃々たる釜次郎がこの長崎伝習所へ入ったのは、安政三年(1856年)、彼が二十一歳のときでした。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は「嘉永六年、彼が十八歳の時」としていますが、嘉永六年(1853年)は黒船来航の年で、長崎海軍伝習所の開設は安政二年、榎本の入所は安政三年です。

 

伝習所での成績は抜群でした。そしていくらもなく教授に挙げられ、こうして三年余を長崎に送りました。文久二年(1862年)、彼は幕命によってオランダに留学することになりました。ときに彼は二十七歳。時代の精鋭として選ばれた内田恒次郎、沢太郎左衛門、赤松大三郎、林研海(はやし けんかい)、西周助、津田真道らとともに、1862年九月十日、数年後に大政変を控えた故国をあとにして、万里の波濤の上に颯爽と乗り出でたのでした。

長崎を出てから十日余り、南へ南へと針路をとり、軟風穏波の上を漂揺しつつインド洋に向かっていましたが、ジャワの北東にかかった際、突如暴風雨に遭い、ついに暗礁に乗り上げてしまいました。小島に這い上がって救助の船を待っていたとき、やって来たのが海賊船でした。

「おのれ、日本刀の切れ味、見せてくれるぞ!」

みな奮起して海賊船に斬りこみました。これには海賊連も少々顔負けして、彼らを付近の島へ送り届けました。ところがそれはインド洋上の無人島でした。さすがの豪傑たちも参りましたが、ようやくにして現地の人々に助けられ、やっとジャワのバタビアに送られました。そしてそこのホテルに移って歓待を受けましたが、バナナやマンゴーが珍しさにみな欲張って食いすぎ、さんざんに下痢の連続をやりました。それが三、四日も続き、五分、十分ごとに丁髷の先生たちが厠の前に並ぶので、隣家の女たちまでが手をたたいて面白がりました。釜次郎は大いに怒り、「腹が下って厠へ行くのが、何がおかしい。べらんめェ」と、女たちが笑っている窓の先へ、螺(にし)みたいな拳骨を突き出しました。これがまた大評判になりました。ようやく便船を得て出帆し、オランダのアムステルダム市に着いたのは文久三年(1863年)でした。これより慶応二年まで三年余り、釜次郎はオランダにとどまり、孜々(しし)として新知識を吸収し、見聞を広め、また幕府からオランダに注文してあった二千トンの軍艦開陽丸の造船監督にあたりました。

 

※ 底本は滞在を「六年の間」としていますが、文久三年に着いて慶応二年秋に開陽丸で出航するまで、三年半ほどです。

 

榎本武揚の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

五稜郭籠城

釜次郎が新艦開陽丸に座乗して威風堂々と故国に帰ってきたのは、慶応三年(1867年)三月二十六日でした。帰朝とほとんど同時に維新の政変が来ました。彼の帰朝の翌年、慶応四年正月には鳥羽・伏見の戦いあり、同二月には東征大総督の東下あり、続いて四月には徳川慶喜の水戸に幽せられるに及んで、海軍奉行として幕府の海軍の実権を握っていた釜次郎は、徳川家に対する旧誼を重んじて結束して起った東北諸藩を望みつつ、品川湾頭にあった開陽、回天、蟠龍、神速、千代田、長崎、長鯨、大江、鳳凰、美賀保、咸臨の十一隻の艦隊を率いて、北に向かって脱走したと底本は記しています。

 

※ 通説では、品川を脱走した艦隊は開陽・回天・蟠龍・千代田形・神速・美賀保・咸臨・長鯨の八隻です。

 

途中仙台で、同じく幕兵を率いて江戸を脱走してきた大鳥圭介らと会い、ともに函館に赴き、五稜郭を占領し、ここによって官軍に抗しました。釜次郎の目指すところは、北海道を経営し、そこに主家徳川の没落を慨する士を集め、一つには皇国領土の開発を計り、一つには幕臣の憤激をこの雄図に向かって転じさせようとするにあったらしいのですが、明治二年(1869年)三月、黒田清隆を指揮官として鎮圧に向かってきた官軍を前にして、大勢の赴くところ、ついに最後の決心をせざるをえませんでした。五稜郭における幕臣たちは、榎本釜次郎を総裁とし、松平太郎を副総裁、荒井郁之助を海軍奉行、大鳥圭介を陸軍奉行に仰いで、花々しく江戸っ子の気を吐いて奮戦しました。官軍は幾度か降伏を勧めました。が、彼らは応じませんでした。

 

※ 底本は海軍奉行を「荒木郁之助」と記していますが、荒井郁之助が正しい名です。

 

五月十三日、函館病院長高松凌雲らを介して送ってきた勧降状に対する峻拒の返書に添えて、

「かつまた別冊二本、釜次郎、オランダ留学中苦学いたせし海軍皇国無二の書につき、兵火に付し烏有(うゆう)に相成り候段痛惜いたし候あいだ、ドクトルより海軍アドミラルへお贈りくださるべく候」

と、釜次郎はオランダで学び得た『海律全書』二巻を贈りました。それが黒田清隆の陣に着いたとき、清隆は、身はまさに五稜郭の露と消えようとするに際し、なおわが国の文化の前途を思ってこの書を残そうとする釜次郎の人格に打たれ、自ら厚い感謝をしたためた手紙とともに清酒五樽を釜次郎に贈りました。孤城落月。もはや心にかかる雲もなく、潔く城を枕に討ち死にを覚悟した釜次郎は、清隆から贈られた五樽の鏡を抜き、将卒を会して最後の訣宴を催しました。

五月十七日、釜次郎らの偉材を深く惜しむ黒田清隆は、自ら釜次郎に会見を求めてきました。五稜郭の孤城を背景として、悲壮な両雄の会見は行われました。釜次郎はまず言いました。

「降伏のことならば、聞くに及ばん」

しかし清隆はかねて予期して来たこととて、静かに諄々と天下の形勢を語り、名分利害を説きましたけれども、釜次郎は、

「話は分かった。しかし降伏はしない」

ときっぱり言い切り、清隆と袂を分かちました。そして五稜郭内に将士を集め、声涙ともに下る一場の告別の辞を述べました。

「我らは邦家のために、ともに協力奮闘して今日に至った。たがいに死してのちやむの覚悟は胸中に動かぬなれど、今や士気ようやく振るわず……されど、されど、なお戦わんと欲すれば、この天下無双の堅城、まだまだ五日や十日に落ちるにはあらねども、数えるに足らぬ兵をもって六十余州の大敵に当たり、無益の血を流すも忍びがたい。されば……」

ふと釜次郎は二階へ上がりました。大鳥圭介らが上がってみると、釜次郎は小姓に介錯を命じ、あわや割腹しようとしていました。とにもかくにもと押しとどめた一同は、ここに大評定の結果、ついに明治二年五月十八日、官軍の軍門に投降することになったのです。

 

※ 底本は黒田との会見を「五月十六日」としていますが、通説では五月十七日です。

 

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明治時代に活躍

降伏後、東京に護送された釜次郎らは二年有余のあいだ鍛冶橋監獄に幽閉されていましたが、優勢な厳罰論に対して黒田清隆らの助命運動が効を奏し、明治五年(1872年)正月、ついに特赦によって出獄しました。そして同年三月、開拓使次官であった清隆の推挽で開拓使四等出仕となり、はじめて明治政府に仕えることになりました。武揚と名を改めたのはこのときでした。折しもわが国とロシアとの接触がますます緊切を加えたときに際し、七年一月、彼は一躍してわが国最初の海軍中将となり、特命全権公使としてロシアの首都サンクトペテルブルク(底本はのちの名でペトログラードと書いています)に駐在することとなりました。彼はその中心使命ともいうべき千島樺太交換条約を締結し、また朝鮮元山の開港も彼の力のいたすところでした。

駐露全権公使の任を全うしたのち、十二年、彼は条約改正取調係となり、ついで外務大輔となり、十三年二月から海軍卿に任じられ、十五年には駐清特命全権公使となり、十八年の内閣制度確立後は、逓信大臣、文部大臣を歴任し、さらに二十四年には、来朝中のロシア皇太子が滋賀県大津で凶漢に襲撃された大椿事突発に際会し、責を引いて辞職した青木周蔵のあとを受けて外務大臣となり、よくその難局に処して円満な解決をつけました。二十七年、農商務大臣に任じ、三十年までその椅子にいましたが、その後は枢密顧問官として終始しました。気性豁達にして侠骨に富む彼は、個人的にもよく人の世話を焼くと同時に、また公共社会事業の方面に温かい気持ちを伸べるところが多いものでした。明治四十一年(1908年)十月二十六日没。享年七十三。

刀をくれと言われて渡し、三味線を挽き切り、海賊に斬りこみ、城を枕にする直前に敵へ本を贈った人。負けた側の総裁が、勝った側の政府で六つの大臣を務めました。節を曲げたと見る人もいますが、黒田が酒五樽で応えたあの本の贈り方に、この人の生き方は全部出ています。

榎本武揚の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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