「父上、ここの襞(ひだ)は、興国寺の悪僧の腹の上でもこのとおりに出るでしょう。私は薬師仏の襞を彫り出そうとして、この十日間、そればかり考えております」
上皇の御幸が決まったと告げに来た父に、仏師は振り向きもせずそう答えました。衣の襞がどうしても気に入らないのです。菊池寛監修の『日本英雄伝』は、鎌倉彫刻の巨匠・運慶(うんけい)の生涯を、奥州平泉の毛越寺(もうつうじ)に送られた薬師仏の物語から説き起こしています。
薬師仏と十二神将像
大治五年の春でした。七条仏所の備中法印運慶が、鑿(のみ)を執ってから八か月目にほぼ完成したという一丈六尺(約4.8メートル)の薬師仏と十二神将像とのうわさが、京の都じゅうに高まっていました。それは名匠定朝によって代表される前代藤原栄華時代の優美・豊麗な彫像からまったく脱け出した豪壮雄渾なものであって、従来の運慶の傾向をいっそう進めたものであり、実際そこに息の通っている菩薩、偉人が立っているかと思われるほど真に迫っています。その彫りは深くかつ鋭く、彩色は内部にみなぎっている力を表現するために強烈で、ある部分では顔料が盛り上げられてさえいます。表情にしろ、ポーズにしろ、すべてに現実感があふれ出ています。だから全体から受ける感じは威圧的で、見ていると胸が苦しくなるほどです。なににしても画期的な名作である。これを見ずして当代の彫刻美術を論じる資格はない。こういった評判を、さらに高めるもう一つの理由がありました。それは、この名作が完成のあかつきにはすぐさま、遠く奥州の果てまで運び去られてしまうからでした。これは陸奥の押領使(おうりょうし:地方の軍事指揮官)藤原基衡(もとひら)のものでした。
基衡は父清衡が建立した中尊寺にならって、それと向かい合った南方の山腹に毛越寺を建立しました。それは嘉祥三年(850年)に慈覚大師が開基し、堀河・鳥羽両帝の勅願霊場として、堂塔四十余宇、禅坊五百余、東国一の規模を持っていました。彼はその寺院の本尊に祀る薬師仏一基と十二神将像を、当時一流の仏師として名声高かった運慶に依頼したわけでした。もっともこの基衡という人物についての伝えはあまりよろしくなく、この毛越寺の建立そのものも、ただ自分の名を後代に伝えようという個人的な見栄からなされたとか、彼自身は風流も解さなければ宗教的な教養もあまりなく、したがって運慶に彫刻を頼んだのもまったくの見栄からだったとされています。また京都の人たちも、運慶の仏像をもって「東夷の輩には過ぎたものだ。見る目のない田舎押領使にはいかにももったいない」などと陰口をきいたといいます。これは当時の都の人の思い上がった考えから出た言葉だとも解され、あるいは支配者に対する不満と反感からの言葉だとも解され、これだけでは当時の押領使としての基衡の人物がほかの人に比べてとくに下賤だったということの証明にはならないでしょう。

芸術の殿堂
一方、運慶はこうした世間のうわさも知らず、一意専心、鑿を振るっていました。彼は遠く奥州の果てに自分の魂をこめた製作品が持っていかれることに一抹の寂しさを感じていました。しかし彼は芸術に対する燃えるような真剣さと、技術よりも魂の深さをとくに心がけはじめていたときだったので、邪念の入りこむ余地はありませんでした。この八か月間、彼は一歩も仏所から踏み出しませんでしたし、父の康慶と長子の湛慶以外の者は、何人たりとも立ち入ることを許しませんでした。あるとき製作の進行ぐあいを見に基衡の使者が来たことがあります。そのときも父康慶が応対して仏所の内へは招じ入れませんでした。使者は、直接運慶の製作を見て帰らなければ命に背くからと言うのを、康慶は、しいてそうしたいならこの製作は中止するのほかはないと言って追い返したのです。基衡は当時の長官らしくわがままだったと見えて、これを聞いてはなはだしい侮辱だと考え、ただちに自ら輿を仏所に乗りつけて、否応なしに仏所に押し入ってくれようとまで考えたほどでしたが、たまたまそこへ訪客があり、その客に、ああした名匠には特別な気持ちがあって、それは傑作を生ませるためには極力尊重しなければならないものだ、と言われて思いとどまったといいます。彼はそれ以来、五日おきに運慶へ贈り物を運ぶことにしました。
もはや完成の日も近いころでした。康慶のもとに鳥羽上皇の御使者が立ちました。何事かと驚く康慶に御使者は、上皇じきじきに運慶の仏所に御幸あって、今度の名作をご覧あそばされるという聖旨を伝えました。康慶は平伏しましたが、ふと、あの一向きの運慶がこれをお受けしなかったら、という危惧に襲われました。しかしこれはほかならぬ上の御沙汰です。彼は恭しくお受けして御使者を返しました。そしてすぐさま仏所に駆けこんで、
「運慶、一大事じゃ!」
と叫びました。運慶は左の手に鑿を握って、大蓮華の上に座す薬師尊像と真向かいに相対して突っ立ったまま、父の声も耳に入らぬ気色でした。彼は薬師仏の衣の襞がどうしても気に入らなかったのです。左肩から腹部をおおう衣の襞が単に才気にまかせて刻んだもので、なんとなく新味がなく、その下に慈悲深い薬師仏の温かい体があるという気分が出ていないと思われました。なるほど襞はいかにも自然なようではある。しかしまだまだ薬師仏の襞ではない。彼はそれさえ気に入れば万事意のごとくでき上がるのだと思うと、いっそういらいらしました。彼はこの仏像に、まだ何人も試みたことのない水晶の眼を入れましたが、この大胆な試みは確かに成功したという自信がありました。ただ襞である。襞ばかりである。
「おお、父上でしたか」
と、運慶は父にふたたび声をかけられてはじめて我に返りました。
「父上、ここの襞は、興国寺の悪僧の腹の上でもこのとおりに出るでしょう。私は薬師仏の襞を彫り出そうとして、この十日間、そればかり考えております」
康慶ははやる心を抑えて息子の精進をほめ、大慈悲の如来の襞はただ魂の修行を待ってはじめて得られるものだ、と言い、やっと、「上皇の御聖旨じゃが」と、それを伝えるきっかけをつかみました。

名作をめぐって
「上皇が運慶の仏所に御幸あそばされたそうな」といううわさは、運慶とその名作とをいやが上にも名高くしました。基衡はうわさが高くなるにつれ、何か大きな戦いにでも勝ったような得意さを感じました。彼は運慶の労をねぎらうために料金百両を贈り、引き出物として鷲羽百尻、水豹(あざらし)の皮六十余枚、安達絹千疋、希婦細布二千端、糠部(ぬかのぶ)の駿馬五十頭、白帛三千端、信夫毛地摺千端を贈ったのです。
「水晶の玉だけあって、あの神将像の眼力にはえもいわれぬ威厳がある……」
彼は近侍の者や会う人ごとに、そう言って自慢をしていました。こうしている折も折、今度の名作を京の都にとどめておけとの鳥羽上皇のお声がかかりました。しかも洛中こぞって、この名作を奥州へ出すことに反対の様子です。失望のあまり基衡はどっと床についてしまいました。尊像が惜しいばかりではなく、自分が名作を所有する資格がないように見えるということが苦痛だったのです。それは彼にとって堪えられぬ屈辱でした。彼は一部屋にこもって神仏の加護を祈ったり、三度も四度も九条関白藤原忠通卿のもとへ使者を走らせて哀訴したりしました。こうして彼はついに、やっとのことで上皇の勅許を得ることができました。このとき彼はご真翰を押しいただいて涙を流し、御使者にこう申し上げたといいます。
「畏し、畏し、一生一度の不忠をつかまつり申しました。これもただただ、あの運慶の名作ゆえにござります」
運慶の芸術はすでにその時代において、このように尊重されていたのです。

その芸術
彼の躍動的な力に満ちた作風、また北円堂の世親菩薩像に見られるような徹底的な写実的作風は、鎌倉時代の武士的な空気を持った人々の心をしっかりととらえていました。彼は七条仏所第六世で南都の大仏師職でしたが、新たに東寺大仏師職に補せられ、建久の南都復興にあたり、東大寺および興福寺の諸仏像を製作して認められ、法印に叙せられて備中法印と号しました。現存する彫刻のうち、彼の作品として信じられるものは、東大寺南大門金剛力士像(建仁三年・1203年作)、興福寺北円堂の世親・無著菩薩立像二躯と本尊弥勒菩薩坐像、円成寺の大日如来坐像(安元元〜二年・1175〜76年作)などであり、そのほか運慶の名によって国宝に指定されたものは十数体を数えます。
彼は父康慶について藤原氏の仏像彫刻を学び、これに独特な写実的傾向を加えて、ついに豪壮ないわゆる運慶風の作風を打ち開きました。慈悲相でも忿怒相でも、彼の芸術はどんな試みにおいても、行くとして可ならざるはなしという領域に達していました。鎌倉時代の彫刻は彼によって飛躍させられたというべく、全時代を通じて見ても彼は押しも押されぬ第一流の彫刻家でした。それゆえまた同時に、彼は実質的に世界的な芸術家でした。その一門には名匠多く、父康慶をはじめ、湛慶は長子であり、康運、康弁、康勝、運賀、運助らも彼の子だといわれています。
襞ひとつに十日を費やし、上皇の御幸を告げられても振り向かない仏師。底本が描いたこの姿は年代こそ合いませんが、南大門の仁王や北円堂の無著・世親を見た人なら、その執念を疑わないでしょう。水晶の眼を入れ、人の体の重みをそのまま木に刻んだ人の仕事は、八百年たった今も息をしています。


