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飯沼慾斎の生涯|12歳で家出し50歳から植物学の大著を完成させた反骨の蘭学者

飯沼慾斎の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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三歳児の魂

 

伊勢国亀山(三重県亀山市)の郷士・西村の息子は、ある日、乳母に手を引かれて田んぼ道を歩いている時に、突然、何を思ったか大きな声で言った。

「ばあや、男として生まれて、少しでも何かを成し遂げようとする者は、こんな田舎で一生を終わっては駄目だね」

多分、その頃は幕末の動乱期であったから、こんな田舎にも、肘を張り、肩を怒らせながら時勢を論じる青年がいたであろうから、子供の常として、ふと耳にしたそんな断片的な言葉をよく記憶していて、それを乳母に漏らしたのであろう。しかし、「坊ちゃん」の言うことなら何でも無条件に(一も二もなく)感心してしまうお人好しの乳母は、家に帰ってから自慢げに鼻高々と、「私の坊ちゃんは、今日こんな偉いことをおっしゃいましたよ」と、そのことを主人の新左衛門に告げたのである。

だが、彼は乳母と違って、ただ、

「小倅(こせがれ)め、そんなことを言ったか」

と笑っただけであったから、乳母にはそれが不満だった。そこで、至る所でその話をふれ歩いた。それで、「西村の息子は偉い」ということが村中に広まり、一つの噂話になってしまった。

すると、このことが、この少年の心の中に一つの自覚を呼び覚ましたのである。誰かが喋った言葉を聞きかじって、意味も確かには分からないままに何気なく乳母に語ったに過ぎなかったのだが、そうしているうちに、彼は自分の言った言葉の意味をだんだんと理解するようになり、そしてそれが次第に、真実彼の心から湧き上がる希望を語る声になってきたのである。

それで、彼は時々、「都に出たい」と父に願うようになった。しかし、父はまだ子供の彼を一人で都へ旅立たせるのは心もとなかった。そこで、ついぞ許したことはなかった。それで彼は背水の陣を敷いて、断然、家出を決心したのであった。それが12歳の時である。

伊勢から美濃(岐阜県)へ――いくら近いとはいえ、交通が不便な当時のことだ。決して三日や四日で行けるものではない。疲れる足を踏みしめながら、街道の埃(ほこり)にまみれて、まだ行ったこともない土地を目指して、ただ一人の徒歩旅行を始めたこの少年の性格が、並々ならぬものであったことは明らかである。

しかし、幸いにして、美濃の大垣で医者を職業として盛んにやっていた叔父の飯沼長意(いいぬま ちょうい)は、彼を喜んで迎えた。「よくやって来た。見どころのある奴だ」というので、やはり同じ町に住んでいる一族の飯沼長顕(いいぬま ちょうけん)に、彼の身の振り方について相談した。すると長顕も、「この子は将来よく行けば大物になるぞ」という意見で、自ら進んで彼の面倒を見ようとしたのである。かくして、彼は飯沼家に身を寄せて(寄食して)、医学を学ぶことになったのである。

彼は天明3年(1783年)の生まれであるから、ここで初めて専門の学問に入ったのは、寛政6年(1794年)のことである。

さて、当時「植物学の大家」と言われていたのは小野蘭山(おの らんざん)であった。当時は「医学」といっても漢方で、薬草についての学問、すなわち「本草学(ほんぞうがく)」をもっぱら学んだものであるから、医者にして植物学者を兼ねる人が多かった。いや、当時の植物学者といえば、必ず医者の出身であった。

小野蘭山もやはりそうだった。そして蘭山は、幕府の命令によって薬草採集のために日本全国を巡遊(じゅんゆう)していたが、たまたま大垣に立ち寄ったので、医者の勉強を始めたばかりのこの少年は幸いにも、直ちにこの大家について学ぶ機会を得たのである。

しかも彼は、単にこの大家から室内で教えを受けたのではなく、その巡遊に従って一緒に山野を分け巡って、直接、自然の教室において教えを受けたのである。だから、その一週間分は、机上の勉強の一年分にも相当するほどの勉強ができたに違いない。実に、この少年が後に大植物学者「飯沼慾斎(いいぬま よくさい)」となった基礎は、この間に出来上がったものである。また、彼の大著『草木図説』全30巻も、一つの空想として、この間に彼の脳裏に浮かび上がったものであった。

そして、この数年間の研究旅行から第二の故郷・大垣に帰った時には、彼はすでにひとかどの医学者兼植物学者となっていた。そこで、飯沼家の娘を妻とし、その家の後継者として「飯沼」の姓を名乗り、医業の門を開くと、たちまち非常に高い評判(名望)を得たのであった。

だから、彼がもし常人であったならば、これで満足して一生を終わってしまったかもわからない。だが、「三つ子の魂百まで」と言うが、そこが慾斎の慾斎たる所以である。いつになっても自己満足ということを感じない、烈々たる向上欲を持っていたから、ここに再び、幼き日に乳母に向かって「こんな田舎で一生を終わりたくない」と言ったあの反骨精神が起きてきた。

当時、彼が親しく行き来していた友人に、いわゆる「濃州蘭学」の祖・江馬蘭斎(えま らんさい)の弟子の吉安三栄という人がいて、その人と常々論議するうちに、「どうしても蘭学(オランダ語を通じた西洋学問)をやらなければ駄目だ。蘭学をやって、もう一度、自分の教養を根本的に叩き直さなければ駄目だ」と思うようになり、もうどうしても落ち着いていられなくなったのだ。彼は間もなく家財を売り払い、妻子を近親に託して、ふらりと上京(江戸へ行くこと)したのであった。時に28歳であった。

 

飯沼慾斎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

今日の労(ろう)、後必ず験(しるし)あり

 

日本の自然科学を育んだものは蘭学である。禁書の令が厳重だった当時でも、医学の書物だけはその難を免れていた。そして明和8年(1771年)、前野良沢(まえの りょうたく)や杉田玄白(すぎた げんぱく)が、初めて江戸の小塚原(こづかっぱら)で罪人の死体を解剖して以来、急にオランダ医学(和蘭医学)が勃興(ぼっこう)した。
玄白の門人である大槻玄沢(おおつき げんたく)が『蘭学階梯(らんがくかいてい)』というオランダ語の入門書を出し、その門人の稲村三伯(いなむら さんぱく)が『蘭和辞書(ハルマ和解)』を著してから、蘭学研究の道が開け、蘭学はますます盛んになった。彼が上京した時分では、大槻玄沢の門人・宇田川榛斎(うだがわ しんさい)とその養子の榕庵(ようあん)が蘭学の大家として声望(せいぼう)があった。

彼は上京すると、榛斎の門に入った。同門には彼より17歳若い江沢格(のちの宇田川格庵)などがいた。この人は後に師の家を継いで宇田川格庵と名乗った人だが、日本の「純正科学的博物学の祖」となった偉大な学者である。

さて、彼は神田鍛冶橋の師の家に身を寄せて(寄食して)勉強したが、師の榛斎は「自分はまだ若いから」と言って、もっぱら父の優れた弟子(高弟)である藤井芳亭(ふじい ほうてい)に彼を指導させた。ところが芳亭の家は下谷にあったから、師の家からそこまでは二里(約8km)ほどもあった。しかし、彼は一日も怠らず、その間を徒歩で通った。

「今日の労、後必らず験あり(今日の苦労は、後で必ず良い結果をもたらす)」

というのが、彼のモットーであったのだ。だから、割に短い期間(短時日)であったが、彼の蘭学は多くの門人の中で群を抜いて進歩した。そして間もなく一人前となった。

そこで大垣に帰って、再び医者の門を開いたが、その名声(声名)はいよいよ高く、遠く近くより慕い来る患者の数は非常なものであり、また入門を願う書生もはなはだ多かった。

しかし、飯沼慾斎が真に大事業を成したのは、家を義弟の健介に譲って、大垣の西郊・長松村に「平林荘(へいりんそう)」と名付ける別荘を作って、そこに隠居してからのことだ。50歳の頃である。その頃から、慶応元年(1865年)に84歳で死ぬまでの間に、彼は本当の仕事をしたのである。常人ならばすっかり老い込んで、これから楽に暮らそうという年になってから、生涯の大事業に取り掛かったところに、誠にこの人の偉大さがある。

彼は多数の門人に、常に「至誠居其業(誠心誠意、その業に専念せよ)」の言葉を示して戒めていたが、自身もそれを実践した。年老いてから勇気を奮い起こし、山野を歩き回り、何万種もの植物を採集し、平林荘に帰るやそれを整理し、分類し、さらに図を描き写し、解説を付け、昼夜を問わず精励(せいれい)して、ついに『草木図説』全30巻を完成させ、安政3年(1856年)にはその「草部」20巻を出版したのであった。

『草木図説』は江戸時代に出た植物学の書物の中では第一の価値を有するもので、草木約2000種をリンネの分類式に従って分類し、写生して解説したものである。明治以後になっても、田中芳男、小野職愨(おの もとよし)、マクシモヴィッチなどがこれを再三訂正し、最近でも日本の世界的な植物学者たる牧野富太郎博士が訂正増補して出版しているが、これは単に日本の植物界に初めて「純正科学の検索」を実施・適用した記念的な文献としてではなく、実際、現代においてもなお生命を有するもので、植物学上の重要な文献として、学者の座右に備えられているのである。

慾斎には学友が非常に多い。当時オランダの軍医官としてバタビアから来日したドイツの学者・シーボルトもその一人である。シーボルトは日本滞在中、日本の学界に非常な影響を与えた人で、伊藤圭介をはじめ多数の秀才が彼の門で学んでいる。
また、宇田川榕庵とは生涯親密な交際を続けていたが、榕庵には子供がいなかったので、自身の一子である興斎を養子にやった。興斎もまた実父・慾斎と養父・榕庵の業を継ぎ、その家風を落とさなかった。

慾斎の名声が非常に高かったので、幕府直属の学者として幕府から召し出そうという声があった。慾斎も、当時シーボルトが江戸にいたので、「江戸に行けばシーボルトと交際して大いに刺激を受けるところがあるだろう」と思って一時心を動かしたが、家庭の事情でその招きに応ずることができなかった。そして生涯一度も役所(官)に仕えることなく、在野の一学徒として、その偉大な一生を終わったのである。

 

飯沼慾斎の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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