斉明(さいめい)天皇四年(658年)、今からおよそ千三百年前のこと。古代の歴史書『日本書紀』は、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が粛慎(しゅくしん)を討った、と記しています。
この粛慎というのは、現在のシベリア北東部にあった国だったのだろうか。伝説の英雄・阿倍比羅夫は、勇敢な水軍を率いて海を渡り、北海道や樺太にまで進出し、さらにシベリアの奥地にまで足を踏み入れたのだろう——長いあいだ、そう考えられてきました。
その理由は、粛慎という名が古代中国の歴史書にも登場するからです。中国の史書に記された粛慎は、中国から見てはるか北方に住む人々と結びつけられてきました。そこから、日本の歴史書に登場する粛慎も、同じ地域の人々に違いないと考えられたのです。
しかしこの伝説は、底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』、昭和11年刊)が書かれた昭和初期の研究によって、くつがえされようとしていました。
阿倍比羅夫(あべの ひらふ)。伝説の英雄から、歴史上の偉人になった人でした。
伝説上の英雄から歴史上の偉人に
阿倍比羅夫は長いあいだ、粛慎を征伐した半ば神のような英雄として語られてきました。
しかし日本古代史の科学的な研究が進むにつれて、この英雄を包んでいた神話の光はしだいに薄れていきました。その代わりに見えてきたのは、日本の社会史・民族史の上で彼が果たした重要な役割と、いわゆる「粛慎征伐」の本当の意味です。
日本の古代の歴史書は、もっぱら中国の歴史書のかたちをまねて書かれた——歴史学の研究は、そのことを明らかにしました。だとすれば、阿倍比羅夫が討った「粛慎」も、実は日本の北の地方、つまり今の東北地方のことであって、当時の歴史家が中国の本にならって粛慎と呼んだにすぎない。そう考えられるようになったのです。阿倍臣は、シベリアはもちろん、樺太にも行きませんでした。北海道まで行ったかどうかさえ、実は疑わしいのです。
しかし、それと同時に、当時の重要な武人であり政治家であった阿倍臣の、本当の功績も明らかになってきました。つまり彼は、伝説の英雄から、歴史上の偉人になったのです。

蝦夷と日本民族の関係
阿倍臣の功績の意味を理解するには、当時の日本民族と蝦夷(えみし)との関係を知っておかなければなりません。
日本民族がこの国に移ってくる前に、いわゆる「先住民族」が住んでいたことは今日の定説です。ただ、それがどんな民族だったかはまだよくわかっていません。とにかく、日本民族が大和を中心に発展しはじめたころ、この国にはまだ日本民族以外の人々が住んでいました。蝦夷と隼人(はやと)がその代表で、とくに蝦夷は強大な種族だったのです。
蝦夷は今日のアイヌで、おそろしく強くすばやい戦士でした。戦いになると、日本民族はいつも大いに悩まされました。四十人の兵士でようやく一人の蝦夷に匹敵できた、と歴史書は伝えているほどです。
だから大和の朝廷は、蝦夷を従わせるのに武力ではなく、文化の力を使いました。農業を教え、工業を伝え、日本民族に慣れさせ、しだいに日本民族の中に溶け込ませていく。そういう政策をとったのです。そして蝦夷の害を防ぐとともに、従った勇猛な彼らを兵士として使い、国内の反乱を鎮めさせ、新羅(しらぎ)との戦いにも用いて、大きな効果をあげました。当時、新羅に対する守りの要であった九州を守る防人(さきもり)も、蝦夷か、あるいは蝦夷と大和民族が混じり合っていた東国の兵士でした。それに比べて、大和の兵士はずっと弱かったのです。
では当時、大和朝廷の勢力はどこまで及んでいたのでしょうか。おおよそ今の関東地方から信濃川のあたり、つまり羽前(うぜん:山形県)や越後(えちご:新潟県)までです。それより北は蝦夷の土地でした。したがって越(こし)の国は、大和民族と蝦夷がぶつかり合う境目にあたり、たえず争いが起きていましたが、その一方で、平和な行き来もさかんだったのです。安倍氏は、この越の国の国造(くにのみやつこ:地方の長官)でした。つまり阿倍比羅夫は、当時の大和朝廷でいちばんの「蝦夷通」だったのです。北の蝦夷を従わせる大仕事を成しとげたのが彼だったのは、決して偶然ではありません。
なお安倍氏は、本によっては阿陪、阿部などとも書かれますが、いずれも古い写本を書き写すときの誤りです。

いわゆる「粛慎への遠征」
阿倍比羅夫は、斉明天皇四年、五年、六年(658〜660年)の三度にわたって、いわゆる「蝦夷粛慎遠征」を行いました。
しかしこれは、伝説が語るような軍事遠征ではありません。実際はむしろ、外交の使節だったのです。大和朝廷の軍を担う物部(もののべ)・大伴(おおとも)の両家がどちらも関わらず、蝦夷通の安倍家がこれにあたった理由も、そこにあります。三度の遠征を通じて、比羅夫が蝦夷から何の抵抗も受けず、途中でも何ひとつ妨害されなかったのも、同じ事情によるものです。
比羅夫がどこから出発したかははっきりしませんが、今の新潟県のどこかの港です。三度とも三月の下旬か四月の上旬を選んでいます。この季節になると日本海の風や波がようやく静まり、航路が安全になるからです。そして彼が着いたのは、今の秋田県の秋田浦でした。
比羅夫が着くと、この地方の蝦夷の長がやって来て彼を迎えました。彼は長に姓名を与え、大和朝廷の高い官位を与え、大いに外交の手腕を発揮して帰順をうながします。こうして今の能代川と雄物川の流域の蝦夷の村々は、大和朝廷に従うことになりました。翌年の遠征では、岩木川の港から岩木川流域の平野にある村々の一部を、同じやり方で従わせています。そしてさらに岩木川の奥へ進みました。三度目には、いっそう遠く青森地方まで手を伸ばします。ただし、この地方の蝦夷とは平和な関係を結べたものの、完全に従わせることはできなかったようです。
要するに、比羅夫が彼らを「征伐して従えた」という説は、正しくないのです。当時の蝦夷には、どこからどこまでが領土だというような大きな政治組織はまだなく、あちこちに村を作っていただけでした。だから一つ一つの村の長と交渉して、順に手なずけていくほかなかったのです。

比羅夫の偉業
千三百年前、「水軍を率い、日本海の荒波を衝いて、遠く樺太からシベリアの奥地までも征服した英雄」比羅夫は、実は新潟県から船を出して秋田県の港に着き、そこの蝦夷の長と外交交渉をした平和の使節にすぎなかった。そのことが明らかになったのです。
けれども注意してください。もし比羅夫が伝説どおりの英雄だったとしたら、かえって彼の歴史上の意味は小さくなります。なぜなら、そうした冒険的な遠征なら、当時もそれ以前も、多くの海賊がやっていたことだからです。比羅夫の歴史的な意義は、むしろ彼が一人の平和の使節だったところにあるのです。
先に述べたとおり、蝦夷は日本民族をつねに脅かす強大な民族でした。彼らを従わせないかぎり、大和民族の発展はあり得ません。しかし武力で征服するのは非常に困難で、ほとんど不可能でした。だから平和的な手段で、文化の力で従わせることが、大和朝廷の根本の政策になっていたのです。この政策を進めるうえで、比羅夫は大きな功績をあげました。
大和民族は、蝦夷との平和交渉がうまくいった土地に人を移り住ませました。ふつうの民が移住することもあれば、政府が浮浪人や罪人を流すこともあり、貴族の召使いをその土地に移して解放することもありました。彼らは土地を開き、進んだ農業を蝦夷に伝え、布の織り方や工芸品の作り方を伝え、文化の施設ももたらしました。一方で、蝦夷を大和民族の住む「内地」に移し、貴族の屋敷や町の警備に用いたり、外敵への備えに使ったりしました。国内の治安を守る軍隊や、新羅との争いに動員された軍隊は、主に蝦夷から編成されていたのです。
こうするうちに、大和民族と蝦夷が完全に混じり合ったのは当然です。今日の日本人の中では、もはやその混じり合った様子を見分けることが難しいほどです。つまり大和民族は、いわゆる先住民族の蝦夷を追い払ってその土地を占領したのではなく、蝦夷は大和民族の中に完全に溶け込んでしまったのである——底本はそう結んでいます。この社会史上の大きな問題のなかに、阿倍比羅夫は実に大きな足跡を残した偉人なのです。





