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阿部豊後守の生涯|捨て子を育てた江戸幕府の優しき名老中

『阿部豊後守』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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二代の将軍に仕えた重臣

 

阿部豊後守忠秋(あべ ぶんごのかみ ただあき:1602年〜1675年)といえば、三代将軍・徳川家光が隅田川へ遊びに行った際、馬に乗ったまま川を泳いで渡り、その見事さで将軍の機嫌を直したという有名なエピソードがあります。しかし、彼の本当の偉大さはそんな武勇伝だけではありません。政治家として、立派な人格者として、そして弓や馬の武術の専門家として、非常に優れた人物だったのです。

幼い頃は小平治(こへいじ)と呼ばれていました。ある日、父親と一緒に徳川家の重臣である本多正信の屋敷へ行ったとき、正信はその気品と賢さに驚き、「トンビがタカを生むとはまさにこのことだ」と父親をからかいながら褒め称えたそうです。

わずか9歳で家光の付き人となり、その後はトントン拍子に出世を重ねます。そして老中(幕府の最高責任者)にまで上り詰め、実に30年以上にわたって政治のトップとして働き続けました。

 

阿部豊後守

浪人対策の識見

 

1651年(慶安4年)、由井正雪という人物が幕府を倒そうとする反乱未遂事件(慶安の変)が起きました。この事件の後、幕府のトップたちが集まって会議を開きました。

その席で、酒井忠勝という重臣が「最近、職を失った浪人たちが徒党を組んで反乱を企てた。江戸に日本中の浪人が集まっているからこんな問題が起きるのだ。浪人たちは全員、江戸から追放してしまうべきだ」と主張しました。他の重臣たちも皆、これに賛成しました。

しかし、忠秋だけは真っ向から反対しました。

「なるほど、もっともな意見に聞こえますが、それを実行すれば政治に大きな悪影響が出ます。今、天下の浪人たちが江戸に集まっているのは、新しい働き口を見つけるためです。江戸には全国の大名が交代でやって来るので、自分を雇ってくれる殿様を見つけるチャンスが多いからです。もし江戸から彼らを追い出してしまえば、生活の手段を失って困り果てる者が出てきます。行き場を失って盗賊になったり、強盗を働いたりして、村や町の人々を苦しめることになるでしょう。

浪人を追い出してホームレスにするのはかわいそうです。独身者でも生きていけないのに、妻子がいる者はなおさらです。天下(国)は万人のためのものです。反乱を恐れるあまり、一人の将軍の安全のために多くの人々を苦しめるようなことは、思いやりのある政治とはいえません。また、浪人を恐れて追い出したとあっては、世間から笑い者になります」

この見事な説得により、浪人の追放は中止となりました。

また、1657年の明暦の大火(江戸の大火事)の後、江戸の町には幕府の政治を批判する落書き(落首)がたくさん貼り出されました。

これを見た別の重臣が「こんな悪口を書くヤツらを放っておけば、ますます幕府の権威が落ちる。犯人を捕まえて厳しく罰するべきだ!」と怒りました。

しかしここでも忠秋は、「いや、落書きは政治に対する良いアドバイスです。上の立場の者は、下々の苦しみがわからないため、自然と間違った政治をして民衆を苦しませてしまうものです。どんな落書きであっても、それを読んで人々の批判に筋が通っているなら自分たちの間違いを改めればいいし、筋が通っていないならただ放っておけばいいだけのことです。立派な聖人ですら間違いを犯すのですから、ましてや愚かな我々なら間違いがあって当然でしょう」と諭し、犯人探しを止めさせました。

政治家としての心の広さと、思いやりの深さがよくわかるエピソードです。

 

廉直と仁愛

 

忠秋は非常に真面目で、不正を嫌う性格でした。誰からのワイロや贈り物も一切受け取らないことで有名でした。

ある時、同僚から「私も贈り物を受け取らないようにしようと思うのだが……」と相談された忠秋は、「それは良いことですが、そもそもあなたの元へは色々な人が贈り物をしに来るから断るのが大変なのでしょう。私のところへは、誰も最初から何も持ってきませんから断る苦労もありませんよ」と答え、同僚を大いに恥じ入らせました。

また、見栄っ張りな大名たちが派手な宴会を開いて無駄遣いをしているのを見ると、わざわざ呼びつけて厳しくお説教をしてやめさせることもありました。

ある時、幕府の命令で全国の大名の家系図をまとめる作業が行われました。担当者が忠秋のところへ来て、「阿部家は名門の『藤原氏』の出身ということにしておきましょうか?」とお世辞を言いました。

これを聞いた忠秋は激怒し、

「自分の先祖は三河国(愛知県)のただの農民だ。代々将軍家にお仕えしてきただけの家柄なのに、どうして藤原氏などと嘘をつく必要があるのだ。そんなお世辞を言うのは不愉快千万だ!」

とキッパリはねつけました。
このように非常に厳しく真っ直ぐな彼でしたが、一方でとても優しい心の持ち主でもありました。

忠秋が朝早く、上野や芝の神社仏閣へお参りに行く道中、よく捨て子を見つけました。彼はそのたびに捨て子を拾い上げ、自分の屋敷に連れ帰って乳母をつけて育ててやりました。その噂が広まり、「忠秋様の通り道に赤ちゃんを捨てておけば拾ってもらえる」と考えてわざと捨てる者まで現れました。

家来たちは「養育費がかかって大変ですから、もう拾うのはやめてください」と止めましたが、忠秋は、

「親子の愛情ほど深いものはないのに、子を捨てるというのはよほどの事情があるのだ。天下に捨て子がいるというのは、政治を任されている私自身の恥である。自分の給料を削ってでも育てるから、お前たちには迷惑をかけない」

と言って、家来の反対を押し切って拾い続けました。
そうして育った子どもたちは、やがて立派な働き手になったり、良い結婚をしたりして幸せになったといいます。

 

『阿部豊後守』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

弓馬の故実に精通

 

これほど立派な人物であったため、家光からの信頼も厚く、次の将軍・家綱の教育係(後見人)を任されました。

彼はただ政治ができるだけでなく、武術の伝統やマナー(故実)にも非常に詳しい達人でした。ある時、忠秋が若い将軍に弓と矢のセットをプレゼントしたことがありました。それを見た別の重臣が、弓の数や矢の本数、飾りの作法などが「冬の正式な武術のルール」に完璧に則って準備されていることに気づき、「忠秋殿はまさに武道の達人だ」と大いに感心したそうです。

この一世を風靡した名政治家も、やがて病には勝てず倒れてしまいます。

いよいよ臨終が近づいたとき、幕府のトップたちが揃ってお見舞いにやって来ました。忠秋は彼らに向かってこう言いました。

「私ももう起き上がることはできず、まもなく息絶えるだろう。しかし、私の魂は日光(家光が眠る場所)へ行き、亡き家光公の膝元から、お前たちのこれからの政治のやり方をずっと見張っているからな」

そう言い残し、数日後に74歳でこの世を去りました。最後まで幕府と国のことを思い続けた、真の忠臣でした。

 

阿部豊後守

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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