年の暮れも押しつまりました。けれども、扇の行商に出かけたせがれの又次郎(またじろう)は、なかなか帰ってきません。今日は帰るか、明日は帰るかと待つ身になると、気が気ではありません。とうとう待ちきれずに母親は、自分で掛け取り(かけとり:つけの代金を集めて回ること)に回るつもりで、帳場の大福帳(だいふくちょう:売り買いを記した帳面)を開いてみました。
すると、その大福帳は、むずかしい篆書(てんしょ:古い書体の一つ)で、しかも漢文で書いてあるのです。母親は途方に暮れました。しかたがないのでお寺へ行って和尚さまに読んでもらいましたが、和尚もそう簡単には読めません。老眼鏡をかけたりはずしたりしながら、これは扇一本の貸しだ、これは古い扇を売ったことが書いてあるのだと、苦心惨憺(くしんさんたん)して、ようやく訳してくれました。
少年大道画家・又次郎
話は変わって、せがれの又次郎はちょうどそのころ、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)の琵琶湖、瀬田の唐橋(からはし)の真ん中に突っ立ったまま、黙々と何事かを考えこんでいました。やがて突然、肩に背負っていた行李(こうり:荷物入れ)をはずすと、いきなりそれを開けて、中にいっぱい詰めこんであった扇を、「えいっ」とかけ声もろとも、惜しげもなく琵琶湖の中へざぶざぶと捨ててしまいました。そして、ようやくこれでさっぱりしたという顔つきで、さっさと歩き出したのです。
この少年は享保八年(1723年)五月の生まれですから、このときやっと十五歳になったばかりです。それでも父の死後はその家業を受けつぎ、京都の目ぬき通りの二条通に「待賈堂(たいかどう)」という書画と扇の店を出して、あっぱれ一軒の主人になっていました。父は小さな扇屋でしたが、せがれの教育には熱心で、まだ三、四歳のころから字を教え、絵を習わせ、やや大きくなるのを待って学問もうんと仕込みました。このせがれは何をやらせても人並み以上にできがよく、父の死後に待賈堂の店を出すころには、自分でももう一人前のつもりになっていたのです。

けれども、何といっても、この小せがれに一人前の商売はできません。父の死後は店の具合が悪くなるばかりで、なんとかこの年の暮れを都合よく越そうと思案したあげくに思い立ったのが、扇の行商でした。ところが、足にまめをこしらえながら近江一円を歩き回っても、一本も売れなかったのです。子どもとしては上手な彼の絵も、せっかくの白い扇を汚しているだけで、まだ売り物にはなりませんでした。又次郎は、得意の鼻柱をみごとに折られました。要するに、売りそこなった扇をきれいさっぱり瀬田の唐橋から投げ捨てて、十五歳の少年画家・又次郎は、もっと勉強しなければだめだという教訓だけを得て、待ちわびていた母親のもとへ、ぽかんと帰ってきたのです。
二十歳になると、又次郎は店を聖護院(しょうごいん)に移し、名も菱屋嘉左衛門(ひしや かざえもん)と改め、このころから大雅堂(たいがどう)、あるいは九霞(きゅうか)と号するようになりました。けれども、あいかわらず商売は繁盛しません。この時分の彼は路ばたで自作の書画を売っていて、これが主な収入でした。このころには、彼の書も絵もだいぶ上達していたのです。上達した理由はもちろんその生まれつきの才能にもより、たいへんな努力のおかげでもありましたが、当時の大家だった柳里恭(りゅう りきょう:柳沢淇園)の教えにあずかるところが大きいものでした。里恭は大和郡山(やまとこおりやま)藩の家老格の武士で、文武両道にすぐれた人、またたいへんな風流人でしたが、ことに彩色の方法については、だれにもまねのできない独自の境地を開いていました。この人がたまたまこの少年大道画家の才能に目をとめ、自分から進んで教え導いてくれたのです。それで彼の技術もいちじるしく進み、画家や文人の仲間との付き合いも開けてきました。

真葛ヶ原の風流な新婚生活
当時、祇園の「百合」といえば、一服一銭の茶屋のなかでも、女主人の百合がなかなかの風流人なので名が高いものでした。その娘のお町(まち)というのが、とって十九歳、丸顔の美人で、しかも母の教育がよかったので風流の心得もあり、これがまた評判でした。貧しい街の画家・大雅堂はこの娘と恋仲になり、はやらない扇の店もたたんで、都を少し離れた真葛ヶ原(まくずがはら:東山のふもと、円山公園のあたり)に愛の新居をかまえることになりました。大雅堂は二十四歳でした。
新居のようすは、友人に送った手紙の一節が物語っています。
「一昨日の大雨の節は、書斎ことごとく濡れ透りたる始末にこれあり候。しかしながら、雨止み候へば、青天白日、鳥雀のさえずり声、まことに一箇の別天地に候。一月ばかり前より三絃(さんげん:三味線)を少し手にいたしはじめ候」
――おとといの大雨のときは、書斎がすっかり雨漏りでぬれてしまいました。けれども雨がやめば、青空に鳥のさえずり、まことにひとつの別天地です。一か月ほど前から三味線を少し習いはじめました、というのです。玄関六畳と書斎四畳半の二間きりで、畳は足のひっかかるようなぼろぼろ、しかも描きかけの絵や書物で足の踏み場もなく散らかっていました。そのなかで夫婦は三味線を弾き、歌をうたいながら、芸術に打ちこんだのです。お町も夫に導かれて絵筆をにぎるようになり、のちには玉瀾(ぎょくらん)といえば、古今に並ぶ者のない女流画家の第一人者として、押しも押されもせぬ大家となりました。
では、夫婦はどうやって暮らしの費用を得ていたのかといえば、祇園の茶屋の掛け行灯(あんどん)や、芸妓のたばこ入れなどに、一つ百文ずつで絵を描いていたのです。

南画の本道に入る
寛延二年(1749年)、二十七歳のころ、大雅堂は写生帳を持って、一人ふらりと家を出ました。東海道を下って富士山のふもとで数十日を過ごし、それから頂上まで登ったのです。これが彼の最初の旅でしたが、翌年には越中(えっちゅう:現在の富山県)の立山に登り、その次の年には加賀(かが:現在の石川県)の白山に登っています。それ以後も折があれば山に登り、その足あとはほとんど日本全国にわたっています。しかも彼は、必ず一つの山に数十日を過ごして、その山の姿を四方八方からくわしく研究し、写生帳に写し取りました。この点が凡庸な画家とはまるで違っていて、この心がけがあったからこそ、彼の絵は古今に類のないものになったのです。
けれども、彼の芸術の進歩は、こうした写生による研究だけでもたらされたのではありませんでした。紀州藩の儒者で、当時、新井白石(あらい はくせき)や室鳩巣(むろ きゅうそう)に並ぶ大学者といわれた祇園南海(ぎおん なんかい)という人がいました。日本に南画(なんが:中国の文人画の流れをくむ、墨と淡い色で描く絵)を興した人です。大雅堂はこの人を訪ねました。路ばたで字を書いていたころから彼を親切に指導してくれた、柳里恭の紹介でした。大雅堂はこの南海から、南画の本道というものを教えられたのです。
南画は士大夫(したいふ:学問を身につけた教養人)の絵である。狩野派(かのうは)その他の画家は貴族や富豪の太鼓持ちであり、その絵はおもちゃにすぎない。絵を描くなら南画でなければならない。大雅堂は、南海のこの議論に心服しました。そこで、写生によって研究しみがかれた技術に、この精神が導き入れられ、大雅堂の芸術はいちだんと進歩を見せてきました。そしてまもなく、彼の名声は天下に鳴りひびくようになったのです。

のんきな夫婦
さて、大雅堂とはどんな人かというと、人柄はきわめてよく、どことなくおおらかなところがあり、人と話をするときは、その声は高くないけれども「高々しき調子あり」、そして興に乗ればしだいに高くなって、「放談、四隣を驚かす」に至ると、彼の友人は伝えています。物にいっこうにかまわない人で、着物なども、いつも薄ぎたないものをだらしなく着ていて、家の中などは散らかし放題でした。妻の玉瀾は、「気さく、のんき、しかして守ること堅く、従うこと柔らかなる」女性でしたが、この人もまた、身なりや家の中の整頓などはまったく問題にしなかったといいます。
二人は、お金には一生めぐまれませんでした。名声はますます高くなりましたが、貧乏は一生ついて回りました。それは、家の中の物をたたき売ってでも知人や友人の困っているのを救うようなことがいつもだったうえに、多少でもお金が入れば片っぱしから楽しみに使ってしまったからで、二人とも貧乏は少しも気にしませんでした。
当時は文芸復興の時代で、すぐれた芸術家がたくさん出ましたが、大雅堂夫婦はそうした人々の中心になっていました。
大松茸や喰ふにもおしくやるもおし
これは、与謝蕪村(よさ ぶそん)が大雅堂から松茸をもらった返礼の句ですが、当時の文人墨客(ぶんじんぼっかく:詩文や書画にたずさわる人々)のなかでも、与謝蕪村、高芙蓉(こう ふよう)、曾我蕭白(そが しょうはく)らとは深く交わっていたようです。

その晩年のこと
さて、安永元年(1772年)四月、大雅堂は五十歳になりました。その時分には、大雅堂の名声は最高潮に達していました。もちろん彼の芸術も、今ではその名声に値する、古今独歩の妙技に到達していたのです。そこで友人や門弟ら五十余名は相談して、祇園の相馬屋(そうまや)で盛大な知命(ちめい:五十歳のこと)の祝いの宴を催すことにしました。その宴に、彼は玉瀾とともに出席しました。生涯の芸術の上の苦しい努力や、貧しい暮らしの苦労が、このときことごとくなぐさめ去られたかのように、二人は感じました。そしてこれが二人の一生の思い出となり、まもなく安永五年(1776年)四月十三日、大雅堂は五十四歳で世を去りました。墓は浄光寺(じょうこうじ)にあり、戒名は秀賢義哲居士(しゅうけんぎてつこじ)といいます。
大雅堂の弟子としては、月峰上人(げっぽうしょうにん)、佐竹噌々(さたけ そうそう)、福原五岳(ふくはら ごがく)、僧の澄覚(ちょうかく)、青木夙夜(あおき しゅくや)、佐竹蓬平(さたけ ほうへい)、片山無知(かたやま むち)、桑山玉洲(くわやま ぎょくしゅう)らの人々が傑出しています。この人々が発起人となって七百両を出し、大雅堂のために大きな記念碑を建てる計画を立て、江戸の儒者・柴野栗山(しばの りつざん)にその碑文を頼みました。すると栗山は彼らを笑って、こう言いました。大雅堂ほどの人には、自分などの碑文は要らない。ただ大きな石に「大雅堂」と刻んで、人々が京都に入るときに街道から一目で見えるような山の頂に置け。それが偉大な大雅堂にもっともふさわしい記念碑である。そしてその七百両は貧しい人々に分け与えるがよい。故人はそれを何よりも喜ぶだろう、と。けれども栗山のこの忠告はついに実行されず、碑を建てる計画もそのまま立ち消えになってしまいました。


