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大谷刑部の生涯|関ヶ原に散った義将・大谷吉継の深謀と誇り

大谷刑部の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「勢いすでにここに至っては、いかんともする術はない。豊臣恩顧の臣として、貴殿と死をともにするだけだ!」

無謀だと詰り、諫めても聞かない友に、盲目の将はそう言って三成の挙兵の謀主となりました。内府に味方すれば越前半国を与えるという誘いを「侮辱もはなはだしい」と退け、関ヶ原では駕籠の上で軍を指揮し、裏切った松尾山に向かって見えない目で叫びました。大谷刑部(おおたに ぎょうぶ)、名は吉継の生涯です。

 

※ 大谷刑部の出自には諸説あります。底本の『日本英雄伝』は豊後の生まれとしていますが、近江の生まれとする説が有力で、生年にも永禄二年と永禄八年の両説があります。山内一豊との問答、井伊直政・本多忠勝からの誘い、平塚為広との辞世のやり取りなどは『関ヶ原軍記大成』などの軍記が伝える逸話で、底本はそれをもとに書いています。

 

深謀遠慮の政略家

慶長五年(1600年)六月十一日、徳川家康が諸将を会して会津攻略の議を決したとき、その席上には盲目の将大谷刑部も列していました。

 

※ 底本は「六月十一日」としていますが、家康が大坂城で会津攻めの軍議を開いたのは六月六日、大坂を出陣したのは六月十六日とするのが通説です。

 

席上には、たかが会津を伐つのに何を急ぐ必要があろう、来春でもいいではないかという説が出て議論沸騰しましたが、家康は意を枉げず、攻め入ることを決定しました。山内一豊もその延期主張者の一人でしたが、彼は帰途、大谷刑部を呼びとめて、家康はいったいなぜあんなに事を急ぐのだろうと尋ねました。

「国に乱臣あるとき、速やかに兵を発することは、敵軍の守備不完全の虚に乗じることである。来春などといっていたら、敵の城郭経営、糧食の貯蔵、兵士の収容はまったく完備するであろう。内府はそこを深慮しているのであろう」

刑部は見えぬ眼を瞬いてそう答えました。だが一豊は納得できず、重ねて尋ねました。

「しからば内府は、なぜその深慮のほどを我々諸将の前に披瀝しないのであろうか」

「もし万一この諸将のなかに上杉景勝と意を通じている者があったらどうであろう。謀を設け、辞を巧みにして発陣を遅らせ、そのあいだに会津の守備を完全に整えさせることができるであろう。諸将を会して軍議を凝らしたのも、その目的は単に攻略そのことにばかりあったのではなく、景勝と通じている者がもしあったならば、その人間を席上の顔色によって探り出さんとも考えたのである」

これが刑部の答えでした。家康の深謀もさることながら、その深謀の底を見極めうる刑部の敏感さ、聡明さは、おそらく一豊をして驚嘆せしめ、一言もなからしめたでしょう。このように彼は先見の明に徹し、一事が万事、奇略衆を超えた策略家でした。石田三成は何事につけてもこの大谷刑部から誠実な意見をされた男でしたが、あの関ヶ原の合戦の直前にも、彼は刑部に熱誠こめた意見を受けました。このときもし三成が刑部の意見を用いたならば、三成はあのような惨敗の結果は見なかったかもしれません。彼は武勇の将でもありましたが、その傑出したところは、戦国時代における兵機と政略に通暁し、遠謀をめぐらす点にありました。だからこそ彼は盲目の身でありながら秀吉の寵任を受け、家康にもまた注目されたのです。

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諫言空しく三成の謀主となる

大谷刑部は永禄二年(1559年)、大友家の遺臣盛治を父として豊後に生まれたと底本は書いています。初めの名は吉継、通称を平馬と呼びましたが、のちに吉隆と改めました。豊臣秀吉が姫路にいたとき、石田三成を通じて仕官を求め、みごと秀吉に召し抱えられました。そのとき彼はまだ十六歳の少年でしたが、その聡明機敏な才能にはすでに大器の相が彷彿としており、それがたちまち秀吉を魅了してしまったのです。秀吉の見込みはまったく的中しました。彼はいささかも勤労をいとわず、知行百五十石の分を越えた働きぶりを示し、ますます秀吉に寵愛され、その後しきりに登用されていきました。そしてついには越前敦賀六万石に封じられ、刑部少輔に叙任し、奉行となったのです。

 

※ 底本は敦賀を「六万石」としていますが、通説では五万石(五万七千石とも)です。

 

この奉行職にあるあいだも、彼はその天稟の聡敏さをもってよく事の正邪を弁じ、一点表裏のない公平な裁決をしたので、世上賢明の聞こえはますます高くなるのでした。だが、ああ、無情というか宿命というか、千軍の敵をも物ともしない深謀策略の将、大谷刑部も、病に抗し、それを退けることは不可能でした。しかも病は重く、やがて病毒は両眼を冒し、刑部はついに失明の身となったのです。

 

※ 底本はこの病を、ハンセン病を指す当時の言葉で書いています。刑部の病については諸説あり、実際の病名は分かっていません。

 

そこで彼は秀吉に奉行職の辞任を申し出ました。秀吉は刑部の才能を惜しんでそれを許しませんでした。だが刑部はあくまで辞意をひるがえさず、ついにその許可を得ました。たとえ盲目になったとはいえ、彼の才能でその職をまっとうすることは容易だったでしょうが、良心的な彼はそれをあえてしなかったのです。惜しむべき巨材は、こうして公職を去ったのでした。ところが不幸はまだ彼に続きました。秀吉の薨去。そして天下の権は徳川家康の掌握するところとなったのです。だが徳川家康の手に天下の支配権が握られたというものの、それはまだ完全とはいえませんでした。豊臣恩顧の遺臣あり、この動揺の際に乗じて家康を斃さんと狙う武臣あり、世は騒然として至るところが勃々たる野心の影に彩られていたのです。ここにおいて家康はもっともその勢力のみなぎる上杉景勝をまず滅ぼそうと決し、兵を会津に向けようと企図しました。大谷刑部はもちろん豊臣恩顧の遺臣であり、家康の利己的な執政ぶりに不満を抱く一人でしたが、深謀家の彼はこのような場合にも事を急がず、会津攻めの議が決定するや、一千余人の軍を率いて伏見を発しました。ところがその軍勢が垂井に至ったとき、刑部はそこで待ち受けていた石田三成の臣樫原彦右衛門に会い、三成の挙兵のことを聞きました。「うむ」とうめくような声を出して彼は首を傾けました。時機ではない、すでに機を逸した。そこで彼はすぐさま佐和山に駆けつけて三成に会見し、そして今は時機でないことを天下の情勢から論じて、思いとどまるように諫言し、その無謀を詰りました。

「貴殿の謀るところはまったく向こう見ずである。この謀を早く拙者に知らせたならば、内府が伏見を発するとき、兵を近江、伊勢のあいだに伏せ、拙者は内府を送ると見せて水口に至り、長束正家と兵を合わせて前後から挟撃したならば、必ず勝利を挙げえたであろう。だが内府はすでに江戸に行っている。あたかも虎を千里の野に放ったも同然なのだ」

三成はこれを肯きませんでした。刑部は見えない瞳をめぐらすようにして考えこんでいましたが、しかしやがて決然と面を上げて言いました。その悲壮な決意を浮かべた表情。

「勢いすでにここに至っては、いかんともする術はない。豊臣恩顧の臣として、貴殿と死をともにするだけだ!」

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高潔、節を枉げぬ回答

こうして彼は三成挙兵の謀主となりました。その刑部のもとへ、ある日井伊直政、本多忠勝の使者が書状を携えてやって来ました。それは刑部の翻意をうながそうとする諫言で、次のように書かれてありました。

「……太閤薨去ありてのち、四人の大老、五人の奉行、内府の権柄を嫉み、ややもすれば徒党をなすところに貴殿御同意なかりしこと、内府常々謝意あり。しかるにこのたび御志変わり、例の徒党に組せらる。これひとえに御滅亡を招き給うというものなり。貴殿その先非を改め給いて内府と御一味あるにおいては、越前半国を知らせ給うように両人計らい申すべく、この事御疑い候わば、連判の起請文を参らせ申すべきなり」

これを読み上げるのを聞いていた刑部は、みるみる額にしわを寄せ、怒りを帯びた声で言いました。

「太閤薨去ののち、四老五奉行相ともに内府の私曲を正さんためたびたび相談に及んだが、なるほど拙者はその密談に参画しなかった。しかしこれは内府をひいきしたためではない、病気のため立ち入らなかったのだ。内府もこの旨は御存じのはずなのに、常々謝意云々とは心得がたい話である。次にこのたび義兵に属して天下の存亡を一挙に争うことになったが、たとえ味方の謀において勝算の見通しは疑問とされても、拙者は降参不義の汚名に甘んじようとは考えぬ。しかるにみだりに拙者を誘引しようとするなどもってのほかである。また、内府に味方すれば越前半国を賜るよう両人にて云々とあるが、拙者は太閤御在世のとき、敦賀六万石の城主となったのさえ身に余りある官禄だと考えていたのだ。しかも難治の病のため強いて官を辞した拙者である。今さら何ゆえあって内府の加恩に預かれるか、侮辱もはなはだしいといえよう。拙者の心底も理解しえずに、一揆謀反人の扱いをするとは、御両人にも似合わしくない浅慮であろう! 不幸にして拙者は盲目となったが、また禄高のいかんによって節を売るほど精神は腐敗しておらんのだ」

使者はこの刑部の意気に圧倒され、一言の返す言葉もなく帰っていきました。刑部はそれを見えない眼で見送り、そして井伊直政、本多忠勝の顔を思い浮かべながら、悠然たる微笑に表情を崩すのでした。

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関ヶ原の合戦と刑部の最後

慶長五年(1600年)九月十五日、徳川家康、石田三成の両軍は関ヶ原を挟んで対峙し、天下分け目の合戦はここに暁の薄明を破って端を開きました。大谷刑部の推察どおり、三成の挙兵を知った家康はたちまち東征の旗を返し、軍を整備して西上すると、一挙に関ヶ原めがけて押し寄せたのです。だが戦闘たけなわとなるや、突如、松尾山にあった小早川秀秋が味方を裏切って家康の軍に加わり、続いて脇坂安治以下四将がまたもや味方を裏切りました。そしてこの寸刻前の同志は瞬間にして敵と変わり、刑部の陣営めがけて雲霞のごとくに押し寄せたのです。俄然事態は一変し、刑部の指揮する軍はみるみる苦戦に陥りました。だが刑部はあくまで屈せず、戦況の報告に一々肯き返し、駕籠を駆ってしきりに軍を指揮するのでした。彼の怒気満々たる形相はこうした瞬間にも絶えず松尾山に向けられて、見えない眼にもなお裏切者を睨み据えようとするのです。このとき平塚因幡守為広の使者が、敵の首に手紙を添えて刑部のもとに持参しました。

「この首自ら打ち取ったり、冥途の土産に参らせ候。日ごろの約束、ただ今討死いたし候わん。貴所にも疾く自害せられて人手に掛けられまじきよう」

とあり、そこに歌一首を書き添えてありました。

名のために捨つる命は惜しからじつひにとまらぬ浮世と思へば

刑部は使者に向かって自害する旨を答え、甥の祐玄という僧に即刻返書を書かせました。その返歌に、

契りあれば六つの衢に待てしばし後れさきだつことはありとも

同時に彼は松尾山に向かって叫びました。

「無道の人と事をともにしたことを悔ゆ。だが三年を出でずしてこの恨みは報ずるぞ!」

 

※ 小早川秀秋はこの二年後、慶長七年(1602年)十月に二十一歳で急死しました。死因は分かっていませんが、刑部の祟りと結びつけて語る伝えがあります。

 

そこへ湯浅五助が、裏切者のために味方の軍はますます崩壊し、平塚以下の将士過半が戦死したと戦況をもたらしました。刑部はそれを聞くと暗然として唇を噛みましたが、しかし落ち着いた声で言いました。

「もはや万策尽きた、これまでだ!」

そして決然たる態度で屠腹しました。湯浅五助の陣刀がひらめいて介錯が終わり、三浦喜太夫がその首を羽織に包み、ひそかに水田の泥中に埋め隠しました。ときに慶長五年(1600年)九月十五日。刑部、盲目なりとはいえ、その才を縦横に揮うにはこれからという四十二歳の若さでした。

勝てないと分かっていた戦に、友のために出て、負けました。越前半国の誘いを侮辱と呼び、見えない目で裏切者を睨み、首を敵に渡さぬように泥に埋めさせました。関ヶ原で勝った側の名は歴史の表に残りましたが、負けた側のこの人の名が四百年たっても「義将」と呼ばれているのは、その日の選び方のためです。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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