元治元年(1864年)七月十九日の夜。京の都は、蛤御門(はまぐりごもん)の戦いの硝煙に包まれていました。
長州藩の軍勢は敗れ、傷ついた敗兵十人ばかりが、追われながら西本願寺の堂内に逃げ込んできました。「しばらく匿ってくれ」——。
本願寺の僧たちは、幕府方の圧迫を恐れて、その処置に困りました。事の次第を若い新門跡に告げて、その裁決を請います。すると彼は、眉一つ動かさず、きっぱりと言い放ちました。
「窮鳥(きゅうちょう)懐に入るときは、猟夫もこれを殺さずという。彼らは勤王の志の厚い人々。我らとて僧俗の差こそあれ、君を思う真心に変わりはない。たとえ本願寺が焼き払われて焦土と化そうとも、必ず敗兵を匿ってとらせよ」
このとき、まだ十五歳でした。
大谷光尊(おおたに こうそん)。法号を明如(みょうにょ)といい、廃仏毀釈の嵐の中で西本願寺を守り抜き、信教の自由を勝ち取った、浄土真宗本願寺派の第二十一世宗主です。
西本願寺の法主
大谷光尊は法号を「明如」といい、真宗本願寺派(西派)の第二十一世の宗主です。
彼が世に出たのは、三百年にわたって天下を治めた徳川幕府が崩れ、明治の新政府がまさに生まれようとしていた夜明けの時代でした。志士は各地で立ち上がり、黒船が浦賀に来て通商と開国を迫り、彼が十一歳の年には桜田門外の事件が起こる。世の中はきわめて騒がしく、国内の心配事と外国からの災難がかわるがわる押し寄せていたのです。
しかも宗教の面では、儒者や国学者による仏教への攻撃が、猛烈な勢いで進んでいました。新政府が立つと、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教を排斥し、寺や仏像を壊す運動)はますます組織立ったものになり、仏教はまさに壊滅の危機に瀕していたのです。
では、光尊はこの時代にどう向き合ったのでしょうか。底本はこう説明しています。彼は「王法為本(おうぼういほん:国の法を根本とする)」という宗風を高く掲げる好機が来たと考え、勤王報国の旗をかざした。自ら進んで御所を護衛し、朝廷に献金し、戦乱のときには身をもって人々の救護にあたるなど、真心をもって奉公の誠を尽くした。さらに廃仏毀釈の嵐の中で猛然と立ち上がり、教えを広めることに努め、卵を積み重ねたように危うかった宗門のために、大いに気を吐いた——と。
まことに彼は、「英邁(えいまい:才知が優れていること)」という言葉にふさわしい宗主でした。宗教の面で優れていただけではありません。時代を見抜く鋭い目を持っていました。仏教が今日まで命脈を保ち、本願寺の教団が今日の隆盛を誇っているのは、明治維新のときに彼が身命を惜しまず奮闘したからだ——そう言っても言い過ぎではないでしょう。
真俗二諦(しんぞくにたい:仏法の真理と世俗の道理の二つ)を実践することは浄土真宗の教えの根本で、真宗の信徒が守るべき教則とされています。彼は身をもって「勤王護法」を実践に移したのでした。

窮鳥懐に入る
それは元治元年(1864年)七月十九日の夜のことでした。
尊王派だった長州藩の国司(くにし)・益田(ますだ)・福原(ふくはら)の三家老が、兵を挙げました。天皇のとがめを受けている三条実美(さんじょう さねとみ)以下五卿と、長州藩主・毛利父子の赦免を願い出るという名目です。本当の狙いは、佐幕派の会津・桑名などの諸藩を宮中から一掃してしまうこと。伏見・山崎・嵯峨の三方から攻め寄せました。
しかし蛤御門や中立売門(なかだちうりもん)で佐幕派の軍勢とぶつかった戦いは、長州軍に利がなく、さんざんな敗戦に終わります。十人ばかりの敗兵が、傷ついた身を追われながら本願寺の堂内に逃げ込み、「しばらく匿ってくれ」と頼んだのです。
本願寺の僧たちは、佐幕派の圧迫を恐れて処置に困り、事の次第を光尊に告げて裁きを求めました。そのとき彼は、眉一つ動かさず、きっぱりと言い放ちます。
「窮鳥懐に入るときは、猟夫もこれを殺さずという。禁門を護る会津・桑名に抗することは暴挙とはいえ、彼らは勤王の志の厚い人々。我らとて僧俗の差こそあれ、君を思う真心に変わりはない。たとえ本願寺が焼き払われて焦土と化そうとも、必ず敗兵を匿ってとらせよ」
「もし佐幕派の軍兵が探索に参りましたら?」
寺の僧が不安そうに尋ねると、彼は答えました。
「病身の父・広如(こうにょ)を大谷に移す手筈を整えている。彼らの頭を丸め、法衣をまとわせ、駕籠の供に加えて落ち延びさせるがよい」
はたして間もなく、佐幕派の軍勢が血刀を提げて本願寺に乗り込んできました。長州の敗兵が堂内に隠れているはずだ、引き渡せばよし、隠し立てするなら踏み込んで捜索する——という強談判です。
光尊は臆する色もなく彼らの前に出て、丁寧に挨拶しました。寺の中の捜索はご自由に。ただ、父・広如を一山の宝物とともに大谷へ移す手筈の最中なので、その行列が寺を出るまではお待ちいただきたい、と。「その位の猶予ならば」と彼らが気を許しているあいだに、行列は目の前を通り抜けていきます。敗兵はお供の僧たちにまぎれて、難なく大谷へ落ち延びることができたのです。

廃仏毀釈に抗して
大谷光尊は嘉永三年(1850年)二月五日、本願寺伝灯第二十世の宗主・広如上人の五男として生まれました。幼名は義君(がくん)。万延元年(1860年)、十一歳のとき、宗祖親鸞が得度したと伝えられる粟田口の青蓮院(しょうれんいん)で頭を剃って僧となります。次の法主となる新門跡(しんもんぜき)徳如(とくにょ)の弟なので「新々門跡」と呼ばれましたが、明治元年(1868年)に徳如が亡くなり、彼が法統の跡継ぎとなって、新門跡と呼ばれるようになりました。
続いて明治四年(1871年)、父・広如の遷化(せんげ:高僧が亡くなること)によって法統を継ぎ、十月十四日、本願寺第二十一世の法主となります。二十二歳でした。
彼の勤王の働きは、それ以前から父や兄とともに続けられていました。慶応三年(1867年)には五万両を費やして荒神橋(こうじんばし)を架けています。翌年の鳥羽伏見の戦いでは、兄・徳如とともに家臣や門徒を率いて「帰命隊(きみょうたい)」と名乗り、前後九十五日間、皇居の守護にあたりました。天皇が大阪へ行幸して津村別院を仮の御所と定めたときにも、彼は日々伺候して警護の任にあたっています。
こうして彼が法主の座を継いだころ、明治の新政府が立ち、天下の騒乱はようやく静まりました。ところが、そこで新たに頭をもたげたのが廃仏毀釈の運動です。
こうした仏教排撃は、このとき初めて起こったものではありません。すでに慶応年間、あるいはそれ以前から、儒者や国学者によって行われていました。しかし明治に入り、西欧の文化が奔流のように流れ込むにつれて、ますます激しさを増します。仏像を縄で縛って町中を引き回す。仏像の首を打ち落とす。仏像や経巻を足蹴にする。ひどい場合には汚物をかける。そんな狼藉を働く者が現れ、各地で騒ぎが起き、ついには血が流れる惨事にまで至ったのです。
仏教が日に日に衰えていくのを見て、光尊は深く嘆きました。島地黙雷(しまじ もくらい)・大洲鉄然(おおず てつねん)らを東京に上らせ、諸国の寺院を管理する寺院寮を設けるよう、政府の当局者に建議させます。政府はこれを受け入れ、明治三年(1870年)十月、寺院寮が設けられることになりました。

神仏の分離
こうして廃仏毀釈はようやく下火になりました。ところが次に起こったのが、神仏混淆(しんぶつこんこう:神道と仏教を混ぜ合わせること)の問題です。
明治五年(1872年)、仏教各宗合同の大教院(だいきょういん)が東京紀尾井町の紀州邸に置かれました。それがのちに増上寺へ移されたときの様子は、こうでした。山門の前に白木の大鳥居を立てる。本尊の阿弥陀如来像を取り除いて神鏡を祀る。伝教・弘法など各宗の祖師の像は、山門の楼上に置くことをかろうじて許される。各宗の管長は紫や緋の衣を着たまま神官の後ろに従って柏手を打ち、金襴の袈裟をかけたまま魚や鳥を神前に捧げる——そんなありさまだったのです。
政府は国民の思想を統一するために「三条の教則」を発布しました。(一)敬神愛国の旨を体すべきこと、(二)天理人道を明らかにすべきこと、(三)皇上を奉戴し朝旨を遵守すべきこと、の三か条です。神官であれ僧侶であれ、教派や宗派を問わず、この趣旨に沿って布教せよ、というものでした。
光尊はこうした宗教の混乱を深く憂えます。明治六年(1873年)十一月、東本願寺・専修寺・錦織寺(きんしょくじ)など真宗各本山の法主と相談し、真宗を大教院から分離することを教部省に願い出ました。一方で、ヨーロッパの宗教事情を調べて帰国したばかりの島地黙雷らに「信教の自由」を建言させます。神道も仏教も、それぞれの宗派がそれぞれの教えを説いて、自由に民衆を教え導くことが許されてよいはずだ、と。およそ三年間、寝食を忘れて努力した結果、ついに明治八年(1875年)、各宗が自由にその教えを広めることを許されたのです。
神仏が分離されるまでの彼の苦心は、並大抵ではありませんでした。心身の疲れは激しく、ついには神経衰弱と診断されて静養を告げられます。それでも一日も休むことなく、京都と東京のあいだを往復し、あるいは地方を回って教えを説くなど、席の温まる暇もなく動き続けました。

本願寺の内政
こつこつと苦労を重ねてようやく布教の自由を手に入れた彼は、それからはもっぱら教学の発展に心を注ぎました。巡教使の制度を設けて全国各地に布教を始め、大・中・小の三つの教校の制度を定め、明治十二年(1879年)には大教校を新築します。
さらに、一般の人々に仏教主義の教育を行うために、私財を投じて普通学校を設けました。これがのちに文学寮となり、高輪大学となり、仏教大学に併合され、現在の龍谷大学となっているものです。
宗門の政治の面にも、彼は深く心を配りました。寺法を定め、宗門の重要な議案を審議する集会を開き、教学の発展のために日々の暮らしの費用を切り詰め、道具を売り払ってまで護持財団をつくる。こうした内政面での貢献は、本願寺教団にとって忘れることのできないものです。
明治二十七、八年(1894〜95年)の戦役に際しては、本山に臨時部を設け、使僧を各地に派遣して恤兵(じゅっぺい:出征兵士を慰問し物資を送ること)の献金を奨励し、自らも各師団・鎮守府を慰問するなど、身を投げ出して活動しました。しかし明治三十六年(1903年)一月十八日、病を得て、ついに遷化します。五十四歳でした。諡(おくりな)して「信知院殿(しんちいんでん)」といいます。
十五歳で敗兵を匿い、二十二歳で法主となり、廃仏毀釈と大教院の嵐の中で寝食を忘れて走り、神経衰弱と診断されてもなお席の温まる暇もなく動き続けた人。
「窮鳥懐に入るときは、猟夫もこれを殺さず」。少年の日のその一言に、五十四年の生涯を貫いた気概のすべてが、すでに宿っていたのかもしれません。



