PR

岩倉具視の生涯|討幕を陰で操り近代日本を創った傑物公卿

岩倉具視の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
記事内に広告が含まれています

「今日の事、口舌をもって争うはもはや無益である。ただ一死を賭してこれに当たるのほかはあるまい」

安政五年(1858年)三月、一人の若い侍従が夜中に同志の邸を訪ね、そう言い切りました。日米条約の件を幕府に一任するという勅答案を、命がけで書き換えさせようというのです。翌日、八十八人の公卿が関白邸に押しかけました。先頭に立った侍従の名は、岩倉具視(いわくら ともみ)。のちに維新の大業を公卿の側から動かした人です。

 

幽居世相に砕心する

維新の大業は、野にあった西郷、木戸、大久保らの協力よろしきを得た結果であったことはもちろんですが、上に三条、岩倉のような明智の公卿があって画策し呼応するところがなかったなら、おそらくあの回天の洪業(こうぎょう:大事業)はそう易々と成就を見なかったでしょう。元来、公卿たちは幕府の武力に対して積年の反感を抱いていました。だから幕府の不振を見るに及んで、自らこれに取って代わろうという望みを抱くのは無理からぬことと言わなければなりません。だが、そうした考えは自然、時代錯誤な単純な復古思想におちいって、そのため変革を蹉跌(さてつ:つまずき)させる恐れは十分あったでしょう。しかし公卿岩倉具視は、この間に処してこうした勢力を巧みに誘導し、下層武士からなる薩長の新勢力と調和させつつ、ついに回天の偉業を成就させたのです。

だが彼にも逆境がありました。文久二年(1862年)、不測の禍に遭遇して免官され、落飾蟄居(らくしょくちっきょ:髪を下ろして家に閉じこもること)を命じられたのです。井伊直弼が大老となってから朝幕の乖離(かいり)がはなはだしく、その結果、公武合体説が台頭しましたが、具視もその熱心な主張者でした。これは討幕論者のいちじるしく嫌忌するところとなり、また朝廷もその後態度を一変して、ついに公武合体派は一律に排撃されなければなりませんでした。具視もまたその責を引いたのです。彼は洛外岩倉村に隠棲し、剃髪して友山(ゆうざん)と名乗りました。そしてここにあること、慶応三年(1867年)十二月まで五年と四か月。彼は静かに考え、時勢を凝視し、そしてやがて世にふたたび現れるころには、王政復古をめざす熱烈な討幕論者となっていました。

わすれては夢かとぞ思ふうつつにはあるにもあらぬ笹ふきの庵

ともすればふりさけ見つつ久方のくもゐばかりぞながめられける

これはその当時の彼の歌ですが、彼はこうして、天朝の上に、世相の上にその心を走らせ、わずかに風月に託して、はやる感懐を三十一文字に寄せていたのでした。

岩倉具視の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

非常傑出の器

岩倉具視は文政八年(1825年)、堀川前中納言康親(やすちか)の第二子に生まれ、幼名を周丸(かねまる)と呼びました。はじめ入道尊超親王の宮に入って稚児(ちご:寺や宮家に仕える少年)に上ることになっていましたが、十四歳のとき岩倉具慶(ともやす)の嗣子となりました。岩倉氏は村上天皇の第七子具平(ともひら)親王の第一子、右大臣源師房(もろふさ)から出た、いわゆる村上源氏の一つで、久我(こが)氏の分家にあたっています。

嘉永六年(1853年)正月、鷹司政通(たかつかさ まさみち)について歌道を学びましたが、当時は外国船がしばしばわが近海に出没し、内外きわめて多端な時代でした。それにもかかわらず堂上(とうしょう:公卿)たちは二百年来の泰平に慣れ、いたずらに花鳥風月を友とし、国事国防がいかなる場合にあるかをさえ知らない者が多かったのです。しかしこういうなかにあっても、岩倉具視は単なる歌道の心酔者ではありませんでした。ペリー渡来ののち、孝明天皇は鷹司、三条らに命じて、新年の月次(つきなみ)和歌御会を停止され、国家安穏祈祷のため和歌を諸神社に奉納すべき旨を諭されました。具視はこのとき、当時がいかに非常時に際会している秋(とき)であるかを説き、和歌や蹴鞠(けまり)などを奨励しているときでない、よろしく人材を養成して非常時に備えるべきであると、その心肝を披瀝(ひれき)して、鷹司に向かって学習院拡張の意見を進言しました。鷹司はのちに人に語って、「岩倉は眼光炯々(けいけい)として人を射、また懸河(けんが)の弁がある。まことに非常傑出の器である」と深くその才をほめたたえたといいます。彼が幼時すでに皇室の衰えを嘆じ、皇権回復の志に燃えていたことが、ここにうかがえるでしょう。

岩倉具視の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

勅答案事件

尊王攘夷主義の権化であった養祖父、前宰相中将岩倉具集(ともあい)の感化を受けた具視は、年少にしてすでに家の教えを奉じ、尊攘の大義を唱えて、隠然として重きをなしていました。しかし彼は決して無謀な急進的攘夷論者ではなく、また消極的な鎖国論者でもありませんでした。安政元年(1854年)正月、ペリーがふたたび来航したとき、かの十三か条の神奈川条約は締結され、日英、日露の条約もまた次いで調印されました。安政三年七月、アメリカ総領事ハリスが下田に来て、翌年十月には江戸城において将軍家定に謁し、国書を捧呈します。このときにあたって京都朝廷の議は攘夷論に傾き、久我、万里小路(までのこうじ)、広橋、東坊城らは堀田閣老を訪ねてアメリカの要求を容れることの不可なゆえんを論じましたが、堀田はこれに反対し、両者の意見は衝突しました。当時、天皇のお考えはいうまでもなく、朝議の多数は、堀田の奏上は許すべからず、という点に帰着していました。しかし勅答案について審議するため、九条、近衛、三条らの朝臣が参集して審議会が開かれ、その大意は、日米条約案は全件をあげて幕府に委任する、ということでした。九条関白はそのとき、表面は拒絶論に賛成しながら、裏面ではこの幕府委任案の通過を策動したというので、物議はすこぶる沸騰しました。

岩倉具視はまだこのころ侍従の職にすぎませんでしたが、この勅答案の内意を知ると大いに驚き、「国家の大事を誤るはこの勅答案である」と激憤し、大原重徳(おおはら しげとみ)と謀って夜中に久我邸を訪問し、勅答案改竄(かいざん:書き改めること)の意見を述べて、「今日の事、口舌をもって争うはもはや無益である。ただ一死を賭してこれに当たるのほかはあるまい」と断じました。安政五年三月のことです。彼はそして同時に、中山忠能(ただやす)、正親町(おおぎまち)、三条らの同志の人々の参集することを求め、極力、勅答案改竄上奏の意見を主張しました。その結果、具視ほか八十八卿の諫疏(かんそ:いさめの上書)となり、九条関白の参内を待ちましたが、関白は病気と称して参内せず、具視ら同志の面々は激憤して九条邸に殺到しました。そのとき信濃小路季重が出て伝えた九条の言葉はこうでした。

「すでに奏聞を経た以上、改竄は不可能である」

だが具視らは承服せず、押し問答の末、ついに「明日宮中において何分の沙汰に及ぶべし」との言質を得て退散しました。具視の抱く尊王の志がいかに激しかったか、推して知るべきです。

 

※ 八十八卿の列参(廷臣八十八卿列参事件)は安政五年三月十二日のことです。底本の『日本英雄伝』は「三月十八日」としています。

 

岩倉具視の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

王政復古

文久三年(1863年)三月以後、京都の形勢はにわかに激変しました。急進的な尊攘派の浪士たちもほとんどその影をひそめ、隠棲状態にある具視の身辺をねらう者もようやく跡を絶ちます。こうして歳月が過ぎ去り、王政復古の機は日を追って熟していきました。そして慶応三年(1867年)十月、ついに討幕の内勅は薩長両藩の上に降ったのです。

 

※ 討幕の密勅が薩摩・長州に下されたのは慶応三年十月十三日と十四日です。底本は「十月四日」としています。

 

これは岩倉具視の上にも、長いあいださえぎられていた春をもたらしました。明治天皇ご即位の大赦の命により、彼は洛中に帰り住むことを許され、ここにはじめて自由の身となったのです。明治元年戊辰(1868年)正月三日の夜半、朝議はまさに徳川氏に対して征討令を発しようとしましたが、山内容堂はこれに異議を唱えました。具視はこれに対し、深くそれが大義名分にもとることを難じました。結果は具視の意見どおりに決定を見、明くれば四日、嘉彰(よしあき)親王が征討の大将軍となり、薩長の兵を率いて戦地に向かったのです。そしてまもなく鳥羽伏見の戦闘は開始されました。新政府軍は勝利を博し、七日、征討の大号令は宣布され、具視はここに東征副総裁としてその趣旨を口演したのです。このときの彼はもちろん、王政復古の燃えるような志に変わりはありませんでしたが、同時に彼の眼光は新国家建設の前途に注がれ、烈々と燃えていました。維新前後における彼の企画とその功績は、まさに抜群であったといわなければなりません。

 

征韓論一蹴

維新政府の基礎はやがて廃藩置県によって確立されました。大納言から右大臣に任じられた具視は、太政大臣三条実美の内閣には外務卿を兼任しました。そして明治四年(1871年)十月、特命全権大使に任じられ、副使の大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳(なおよし)らを率いて、十一月、欧米各国視察の途に上ります。帰国したのは六年の九月でした。そのあいだに開けた彼の政治的識見の大きかったことはいうまでもありませんが、また国内における情勢も一変していました。彼の外遊中、西郷隆盛一派の征韓論が国内に沸騰し、朝議もその強要によってほぼ断行と決定していたのです。このため具視らは急いで帰国の途についたのでした。

具視は帰国と同時にその一党を率いて、西郷の征韓論に極力反対しました。欧米見聞に基づいて、内治整頓を説いてやまなかったのです。その結果、大久保は辞表を提出し、岩倉もまた辞意をもらし、三条が閣議で卒倒するという騒ぎを引き起こしました。具視は大命を奉じて三条に代わり、太政大臣の任に就きます。彼はこのとき、自分のような者の目の玉の黒いうちは断じて征韓は実行させるものか、と放言したといいます。西郷もまた、具視の太政大臣摂行の報に接すると、万事休すとあきらめたといいます。彼の平素の不屈の魂を熟知していたからでしょう。こうして西郷の征韓論は具視のために一蹴され、西郷一派の連袂(れんべい:そろっての)辞職を見るに至りましたが、具視は自分の自負する施政方針のためには、こうした俊傑によって勢力の一半を失われることもあえていといませんでした。

それだけにまたこのことは、血気にはやる青年たちの憤激を挑発しました。明治七年(1874年)一月十四日、彼は皇居から退出の途中、赤坂喰違坂(くいちがいざか)において四、五の壮士に襲撃され、重傷を負い、わずかに身をもってのがれました。明治十五年、功をもって大勲位に叙せられましたが、翌十六年(1883年)七月、五十九歳をもって、この明治の功臣は惜しくも逝きました。明治十八年、正一位を贈られています。

 

※ 底本は大勲位の叙勲と同じ「明治十五年」に亡くなったように書いていますが、岩倉具視が没したのは明治十六年七月二十日です。

 

歌会をやめて人材を育てよと言った公卿は、五年余りを岩倉村の小屋で過ごし、出てきたときには討幕の人になっていました。公家の復古の夢と武士の新しい力のあいだに立って、どちらにも流されずに国の形を決めた。襲われて血を流しても曲げなかったその強さが、明治という時代の骨になったのです。

岩倉具視の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

タイトルとURLをコピーしました