安政五年(1858年)六月二十四日。江戸城。
尾張の徳川慶恕(よしくみ)、水戸の徳川斉昭(なりあき)とその子・慶篤(よしあつ)、続いて越前の松平慶永(よしなが:春嶽)が、定められた日でもないのに、急いで登城してきました。前日の通商条約の調印を問いただすためです。
大老は「ただいま密談中」として、なかなか会おうとしません。正午を過ぎ、目付役の一人が「お待ちの四侯に昼食を差し上げましょうか」と伺うと、大老は語気を強めて言い放ちました。
「お召しもないのに登城されたのだから、弁当の御用意はあろう。心配いたすには及ばん」
彼が腹心の老中を従えて現れたのは、今の時間で午後三時。尾張侯も水戸の父子も、さぞ腹を減らしきっていたことでしょう。
彼の名は井伊直弼(いい なおすけ)。三十五年の「埋もれ木」の暮らしから彦根三十五万石の主となり、大老として独断で開国に踏み切り、安政の大獄を断行し、そして桜田門外の雪の中に倒れた男。その生涯に迫ります。
底の心を汲む人ぞなき
にぎわう横浜港を見下ろす掃部山(かもんやま)公園に、掃部頭(かもんのかみ)井伊直弼の銅像が建っています。横浜の——いや、日本全体の繁栄と開化を、彼は今日、どんな思いで眺めているでしょうか。
彼はかつて、こう詠みました。
春あさみ 野中の清水 氷りゐて 底の心を くむ人ぞなき
自分はこうして祖国の発展のために昼も夜も心を砕いているのに、とかく誤解されがちなのは、まことに残念だ——孤独な思いを漏らした歌です。
世をあげての非難と反撃を浴びながら、崩れかけた幕政をひたすら守り、文明日本を築くために一人進み、鉄血の政策を押し通して信念を曲げなかった大老・井伊直弼もまた、偉人と言わなければなりません。

埋れ木の生活三十余年
井伊直弼は、彦根城主・正四位上左近衛権中納言掃部頭直中(なおなか)の十四男です。文化十二年(1815年)十月二十九日、彦根城に生まれ、幼名を鉄之助、のちに鉄三郎と改めました。
権勢のある家に生まれた直弼は、生まれながらに幸せなはずでした。ところが、そうではなかったのです。
井伊家には厳しい家風がありました。跡継ぎ以外の子は、他家を継がせるか、家臣に養わせる。他家へも行かず、家臣にもならない者には、米三百俵だけを与えて、きわめて質素に暮らさせる。そういう決まりです。ですから十四男の直弼は、殿さまの子でありながら、城内の狭くむさくるしい一室に住み、召使いは女一人と男一人。寒々とした書生同然の暮らしを強いられました。
しかし直弼は、その住まいを自分で「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけ、不平も言わず、歌を詠んで暮らします。嘉永三年(1850年)、兄・直亮(なおあき)の跡を継いで掃部頭となるまで、三十五年間、風や月を友とする「埋もれ木」の暮らしが続いたのです。

けれども、この三十五年の孤独な暮らしのなかで、のちに大老として幕府の中枢に立ち、難題だらけの国難を背負うだけの力が養われていました。彼は決して、雪や月や花だけを友にして、国のことに目をつむり、風流にふけっていたのではありません。むしろ、あふれ出そうな器量と才知を、自分で抑えていたのだ——そう見るべきでしょう。
こうして直弼は埋木舎を出て、家督を継ぎ、掃部頭となりました。

風雲は直弼を呼ぶ
そのころ天下は、尊王、佐幕、攘夷、開港——蜂の巣をつついたような騒ぎでした。幕府の閣老は顔色を失ってうろたえるばかり。国論はますます沸き立ち、幕府の権威は地に落ち、命令は朝出して夕方には変わる。難題だらけの国難を前に、ただ手をこまねいて、どうしてよいか分からずにいたのです。時代は、もつれた麻を一刀で断ち切るような、英傑型の政治家を待ち望んでいました。
安政五年(1858年)四月、直弼は幕府の求めに応じて大老となり、幕府の首班に座ります。風雲がついに、直弼の手腕を呼んだのです。
外を見れば、あのペリーが浦賀の海の門を叩いてしつこく通商を迫り、長崎にはロシアの軍艦でプチャーチンがやって来て脅威を与えていました。内を見れば、開港・鎖港・攘夷の論が入り乱れ、鼎(かなえ)が沸くような騒ぎです。
大老の座に着くやいなや、直弼は天下の形勢を見、時代の流れを考えて、通商条約に調印するほかないと判断しました。そして勅許(ちょっきょ:天皇の許し)を待たずに、独断で条約に調印したのです。安政五年六月十九日のことでした。

たちまち、この独断は世をあげての非難を浴びました。尊王・攘夷派の憤りをかき立て、天下はますます騒然となり、混乱に油を注ぐ結果になったのです。
では、なぜ直弼はそこまでしたのでしょうか。理由がありました。そのころ、イギリス・フランスの艦隊が清国に勝った勢いに乗じて、日本を襲い、条約の締結を強要するという噂が流れていました。そこへアメリカ総領事ハリスが、いま日米条約に調印すれば、イギリス・フランスの鋭い矛先に対して仲介してやろう、と調印を迫ったのです。直弼は清国の二の舞を恐れ、朝廷に勅許を仰ぐ暇もなく、調印を済ませたのでした。
もう一つの難題が、将軍の跡継ぎでした。将軍家定は病気がちで子がなく、跡継ぎをめぐって二つの派が生まれ、互いに反目していました。一方は水戸斉昭の子・慶喜を推し、もう一方は紀州の慶福(よしとみ)を推して譲りません。家定の病が重くなると、直弼はここでも独断に出ます。慶喜を立てようと画策していた、いわゆる一橋派の老中・堀田正睦(ほった まさよし)と松平忠固(まつだいら ただかた)を免職し、紀州の慶福を迎えて跡継ぎとしたのです。
ここに至って、世論はますます直弼に背きました。憎み、嫌い、非難する声が、世の中を覆い尽くしたのです。

安政の大獄
将軍の跡継ぎが決まったという知らせが伝わると、尾張の慶恕、水戸の斉昭とその子・慶篤が、安政五年六月二十四日、急いで登城しました。定めの日ではない、不時登城です。直弼が眉をひそめる間もなく、続いて越前侯・松平慶永も登城してきました。
もともと大名が江戸城に出仕する日は決まっていて、それ以外の日に登城するには事前の届けが要ります。将軍家の一門とはいえ、決まりを無視した不時登城ですから、決断力があり意志の強い直弼は眉をひそめたのです。
案の定、彼は「ただいま密談中」として、なかなか会いません。正午を過ぎて目付役の一人が、お待ちの四侯に昼食を出すべきかと伺うと、直弼は語気を強めて言いました。
「お召しもないのに登城されたのだから、弁当の御用意はあろう。心配いたすには及ばん」
彼が久世大和守(くぜ やまとのかみ:久世広周)以下、腹心の老中を従えて現れたのは、今の時間で午後三時だったといいますから、尾張侯も水戸の斉昭父子も、さぞかし腹を減らしきっていたことでしょう。この一事だけでも、直弼の決意の固さがうかがえます。
この会談は激しい論戦が数刻にわたりました。しかし結局、四侯は直弼に言いくるめられます。勅命に背き権限を越えた罪を問うことも、跡継ぎの発表を引き延ばすことも失敗に終わり、すごすごと退出するほかありませんでした。
直弼は、ためらって時機を失うことを恐れました。翌二十五日、慶福すなわち家茂(いえもち)が将軍になることを天下に布告します。続いて七月五日、将軍家定が亡くなる直前に、先に不時登城して幕府の外交を責めた斉昭に謹慎を、尾張侯・越前侯に隠居と謹慎を命じ、水戸藩主慶篤と一橋慶喜の登城を止めました。
ここで水戸藩士と一橋派の志士たちは、井伊直弼を退けて崩れかけた形勢を立て直そうと試みます。幕府の外交を不満とする尊攘の勤王家たちも、東西で呼応して朝廷を動かし、ついに天皇の内々の意向が斉昭に下されるに至りました。
この形勢に直弼は驚き、反幕派の志士や勤王家に一斉に弾圧を加えました。数百人を捕らえ、あるいは牢に下し、あるいは小塚原の刑場に引き出して斬ったのです。世にいう、安政の大獄です。
しかし、これほどの弾圧をもってしても、時代の流れは変えられませんでした。直弼を呪う怨嗟(えんさ:うらみ嘆くこと)の声は、巷(ちまた)に満ちていたのです。

桜田異変
万延元年(1860年)三月三日、雪の朝。大老・井伊直弼は、将軍に上巳(じょうし:三月三日)の節句の祝いを申し上げるため、外桜田の屋敷を出ました。
直弼は駕籠に乗り、警固の供は五十数名。みな笠をかぶり合羽を羽織り、刀には柄袋(つかぶくろ:柄を雪や雨から守る袋)をかぶせて、行列は降りしきる雪のなかを静かに進みます。
一方、愛宕山に集まった水戸藩の浪士は、佐野竹之介(さの たけのすけ)以下十六名。これに薩摩藩の浪士・有村次左衛門(ありむら じざえもん)が加わって十七名。彼らは三手に分かれて行列の先回りをし、桜田門の外の雪の中で待ち構えていました。
ある一群は、大老の登城を見物する田舎武士のふりをして立っています。別の数名は雪の上に土下座して、何か訴えるふりをしていました。行列の先頭が近づき、供頭(ともがしら)と供目付(ともめつけ)の二人の武士がこれを見てつかつかと近寄り、声をかけようとした瞬間——がばと躍り上がった浪士が、抜き打ちに二人に斬りつけたのです。

それより早く、別の一隊は駕籠の先の槍持ちを襲って槍を奪おうとし、駕籠脇の徒士(かち)の一隊と斬り合いになりました。彦根側は刀を抜き合わせる暇もありません。笠を脱ぎ、合羽を捨て、柄袋をかぶせたままの刀を鞘ごと抜いて防ぎましたが、血気の浪士の真剣にかなうはずもありません。純白の雪を朱に染めて、斬りまくられました。
直弼にとっては、よくよく運の尽きた日でした。銃声が一発。これが合図です。後ろに控えていた第三陣がどっと駕籠をめがけて突っ込み、防戦に大わらわの供目付・河西忠左衛門(かさい ちゅうざえもん)を斬り捨て、簾越しに駕籠の中を三度、四度と突き貫きました。

十分な手応えを確かめてから戸をはねて引き出すと、大老・井伊直弼はすでに、鮮血に染まって息絶えていました。享年四十六歳。遺骸は世田谷の豪徳寺に葬られました。
幕府の中枢に入ってから十年に満たずして凶刃に倒れ、幕末の夜はまだ深く、文明開化の夜明けの光も見ずに死んでいった直弼は、不幸でした。その胸には、これから大いに成すべきことへの覚悟と見通しがあったでしょう。しかし乱世の激しい揺れは、彼に多くの時間を貸してはくれなかったのです。





