妻は病床に臥し 児は飢えに叫ぶ
身を挺して直ちに戎夷(じゅうい)に当たらん
今朝、死別と生別と
ただ皇天后土(こうてんこうど:天地の神々)の知る有るのみ
安政元年(1854年)、ロシアの軍艦が大阪湾に入ったと聞いて、十津川の郷士を率いて撃ち払おうと出陣する朝、一人の浪人儒者がこの詩を詠みました。家には肺を病む妻と、飢えて泣く子がいます。梅田雲浜(うめだ うんぴん)。藩を追われ、二畳の間借りで一日一食の暮らしをしながら国事に奔走し、安政の大獄で最初に捕らえられた人です。
苦学力行の時代
梅田雲浜は文化十二年(1815年)六月七日、若狭国小浜藩士・矢部重助の二男として生まれましたが、生後まもなく祖父の生家である梅田姓を名乗りました。矢部家は父祖ともに他家から養子に入った人だったので、雲浜が一家を立てて祖父の生家を継いだのです。名は定明、通称源次郎、雲浜とも、また湖南とも号しました。彼は世の偉人傑士の例にもれず、幼少のころから向学の志が厚く、十六歳のときには早くも江戸に出て、叔父の家に寄食しながら、当時小浜藩儒だった山口菅山(かんざん)のもとに通学して和漢の学を修めました。もとより天資穎敏(えいびん:生まれつき賢いこと)であったうえに刻苦勉励したかいあって、たちまち同輩をしのいで菅山門下の俊才とうたわれました。あるとき、林大学頭の門で『近思録(きんしろく)』という中国の哲学書の講義を命じられましたが、それを立派に講義してのけたので、林大学頭に舌を巻かせたという逸話もあります。
だが雲浜は祖父の生家を継いだとはいえ名義だけのもので、どこまでも貧乏藩士の二男坊に変わりがないので、叔父がしきりに良縁を求めて他家へ養子に行くことを勧めました。雲浜はそれがいやで叔父の機嫌を損ない、ついに学業半ばで若狭へ追い返されてしまいました。しかし向学心の厚い彼は、そんな障害くらいで志望を捨てるような薄志弱行の徒ではありません。十八歳のとき、ふたたび単衣一枚に小倉の袴をつけたまま、わずか二銭の金を懐にして京都へ出奔しました。そして薩摩藩邸の山田某の家僕となり、あるいは典薬某の学僕となって、あらゆる艱難辛苦と闘いながら大いに苦学したのです。
そのころ、大津に上原立斎という儒者がありました。雲浜と同じく山崎闇斎の流れをくむ学者です。雲浜は立斎の名声を聞き、大津に行って教えを乞おうとしましたが、立斎は「足下(そっか)の学問はすでにできている。教えるに及ばん」と言って弟子扱いにしませんでした。それで客分となって立斎のところにとどまることになりました。彼が湖南と号したのはこのときです。その後、彼は京都に出て木屋町に住み、望楠軒(ぼうなんけん)の講主となって、国事に奔走しつつ子弟の教育に没頭しました。また立斎の懇切な頼みを容れて、立斎の娘信子をめとって一家を構えました。

身は屈するも道に屈せず
天保十四年(1843年)、若州小浜の藩主酒井若狭守忠義が、所司代となって入洛してきました。藩主は雲浜の学者としての声望が日に日に高まるのを伝え聞いて、あるとき使いをやって雲浜を呼び、書を講じさせようとしました。そのときの使いの口上がはなはだ横柄だったので、彼は使者の非礼をなじって、
「たとえ藩侯であっても、聖賢の道を聞かれようとなさるならば、それ相応の礼というものがあろう。拙者は身を屈しても、道には屈しない」
と言って、即座に藩主の招聘を拒絶してしまいました。使者は狼狽して再三再四往復しましたが、雲浜はがんとして応じませんでした。
その彼が、かつて九州に遊説に行こうとして、その出発前に門人を集めて、「今日自分は諸君に一生の心得になる道を講じようと思う。諸君はこれをよく守っていただきたい」と言って、容を正しました。門人たちは、これは先生の得意の『大学』か『近思録』であろうと思っていると、『春秋』の首章開巻の六字、「元年春王正月」という一句を講じはじめたのですが、和漢の書を参酌し、古今の歴史を引証して、政治の得失、人物の正邪を説いて、熱講数日にわたったけれども、一座の門人は謹聴して倦むことを知らなかったといわれます。雲浜の講義の態度の熱烈さと、幕府に対する憎悪の熾烈さを思わせる逸話です。

妻は病床に臥し、児は飢に叫ぶ
雲浜が藩籍を削られて一介の浪人儒者となったのは、嘉永五年(1852年)七月、三十八歳のときです。藩主酒井侯に藩政改革を迫って容れられず、嘉永三年には外寇防御に関する意見を呈して藩主の忌諱(きい)にふれ、不遜過激なる危険人物として藩籍を剥奪され、永のお暇が出たのでした。嘉永六年六月には、アメリカの使節ペリーが浦賀に来て通商を迫りました。七月にはロシアの軍艦が長崎に渡来しました。幕府の重臣は周章狼狽するのみで、国論は大いに沸騰します。このとき雲浜は慷慨悲憤して、これ男子坐視するときにあらずと言って江戸に行き、志士鳥山新三郎の家で吉田松陰に会って、深く相謀るところがありました。すなわち松陰はアメリカ船に搭乗して外国に渡り、異国の事情を探ろうとし、雲浜は水戸に行って武田耕雲斎、金子孫二郎らの藩士から賛成を得ることに努めたのです。雲浜の意見は、水戸の斉昭を起用して幕府を改革し、この国難を排除しようというのでした。
一方、彼の憂慮したのは朝廷のことでした。江戸には幕府を護衛するために常に旗本八万騎を備えていますが、京都には親兵というものがさらにありません。こういう状態ですから、万一外国と戦端を開けば、第一に心配なのは京都です。しかも京都に近い摂州沿岸には何らの防備がありません。雲浜はこの点を深く心配して、第一に着眼したのが十津川(とつかわ)郷士です。十津川郷士は元弘・建武の昔、南朝を奉じて忠勤を励んだ忠臣の子孫です。交通は不便ですが、これを鼓舞訓練すれば緩急の場合に大いに役立つと考えて、郷士と気脈を通じ、志士を募る計画を立てました。のちに郷士が朝廷守護に任じ、中山忠光および鷲尾隆聚の挙兵に参加し、戊辰の役には第一御親兵として北越に出征したのは、雲浜の指導にまつものが多かったのです。
雲浜は水戸から京都に帰るとすぐに福井に遊説し、次にはロシア帝国の軍艦が大阪湾に闖入してきたのを見て、十津川郷士を率いて自らその謀主となり、撃ち払おうと企てました。雲浜の有名な「生別死別」の吟は、このときに成ったのです。
妻臥病牀児叫飢 挺身直欲当戎夷
今朝死別与生別 唯有皇天后土知
雲浜の企ては事成らずして破れましたが、このあいだに彼の岳父上原立斎が没し、妻信子と長男繁太郎が極度の貧困のうちに病臥していたのです。信子の歌に、
樵り置きし軒のつま木も焚き果てて拾ふ木の葉もつもる間ぞなき
というのがありますが、このころの雲浜の生活がいかに窮迫をきわめていたかがうかがわれます。雲浜は植民地化されようとする遅れた国情を心配して東奔西走し、席の暖まる暇も、家庭を顧みる暇もなかったのです。病床に倒れた妻子を抱えて、雲浜が医者のまねをしたり、筆耕をして米塩の資を稼いだのも、この時期です。あるときは二畳の部屋に間借りして、一日に一食のこともしばしばでした。妻の病気は肺でした。雲浜は貧困のうちにできるだけの手当てを加えましたが、ついに安政二年(1855年)二月、信子は二十九歳で長逝しました。

安政の大獄と就縛
安政五年(1858年)九月三日、酒井若狭守は所司代として再度上洛しました。これより先、井伊大老の謀臣長野主膳は彦根から桑名に密行して、入洛の途中にある若狭守に向かい、険悪な京都の情勢を伝えて、着京の上は速やかに勤王派に一大鉄槌を下すべき大老の密令を与えました。世にいわゆる安政の大獄です。当時雲浜は四十四歳の働き盛り、彼らの運動がようやく功を奏して、朝廷の内旨が水戸斉昭に下ろうとする情勢に立ち至りました。大老井伊直弼は大いに驚いて、にわかに徳川家茂を擁立し、全国の勤王志士に苛烈な一斉弾圧を下したのです。
そのころ、雲浜は烏丸御池上るところの小宅に住んでいました。九月七日の夜、町役人が来て表戸をたたき、「寝ておられるのに気の毒だが、ちょっと先生にお目にかかりたい」と言いました。
雲浜は寝巻きのまま起き上がって勝手口の戸を開けると、不意に十人ばかりの、いずれも白鉢巻きに十手捕縄の下役人が「御上意」と叫んで躍りこみ、雲浜を取り巻いてしまいました。彼はそのまま乗り物に入れられて、西の奉行所へ引き立てられました。その翌日、役人が家宅捜索にやって来ましたが、乱雑にかき乱された座敷には『新和歌集』『左伝』が五、六冊転がっているだけでした。町役人の一人が、「梅田は大学者だと聞いたが、家に書物のないのが不思議だ」と言いました。すると一人が、「偉い学者は腹のなかに書物をしまっているから、そんな必要がないんだろう」と言ってひどく感心していたそうです。
雲浜捕縛後、幕府はさらに峻烈な検挙を継続断行し、所司代酒井若狭守に命じて鷹司、近衛、三条の諸卿を幽閉させ、頼三樹三郎ら三十余人を捕らえて、網乗物または唐丸籠に乗せて江戸に送りました。雲浜は江戸の小倉藩邸に幽閉され、しばしば苛酷な糾問を受けましたが屈せず、源次郎はただ大義を知るのみと言って、そのほかは言わず、
君が代を思ふ心の一すぢに我が身ありとは思はざりけり
の辞世を残して、安政六年(1859年)九月十四日、獄中に病死しました。
二銭を懐に京へ出奔した少年は、藩主の呼び出しを「道には屈しない」と断り、藩を追われ、妻を貧しさのなかで亡くし、家に書物も残さずに捕らえられました。我が身ありとは思わざりけり、という辞世のとおりの一生です。安政の大獄で最初に捕らえられたこの人の名は、十年後の維新の、いちばん早い礎のひとつでした。


