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井原西鶴の生涯|『好色一代男』で元禄文化を牽引した天才作家

井原西鶴の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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貞享元年(1684年)六月五日から六日にかけて、大坂の住吉明神の境内で、一人の俳諧師が二十四時間ぶっ通しで句を吟じ続けました。その数、二万三千五百句。四秒に一句の勘定です。絵馬堂から社前まで潮のように詰めかけた老若男女は、武士も町人も百姓も舌を巻きました。

「さすがは松寿軒井原西鶴先生、えらいもんだすなあ」

井原西鶴(いはら さいかく)、四十三歳。その二年前に『好色一代男』を世に出した人です。

 

放埓(ほうらつ)抜群

元禄文壇において松尾芭蕉、近松門左衛門とともに三文豪と呼ばれる井原西鶴は、寛永十九年(1642年)、大坂に生まれました。その幼少期は、彼の出世作『好色一代男』の主人公世之介になぞらえられるほどの早熟児で、やや度を過ごした結果、十九歳で勘当されるというような耽溺(たんでき)生活を送ったものといわれています。また彼の独壇場たる芸術方面においてもその天稟(てんぴん:生まれつきの才能)は早くから現れ、十四、五歳のころから談林派の総帥・西山宗因(にしやま そういん)について口ずさみはじめた俳諧においても、二十一歳で早くも点者(てんじゃ:句の優劣を判定する師匠)になるほどの上達ぶりを示していました。

当時、寛永の末ごろから松永貞徳(まつなが ていとく)の貞門風に統一された俳壇にも、ようやく動揺が生じてきていました。一方、純粋な貞門の人々さえ依然として古風を墨守(ぼくしゅ:古いやり方を固く守ること)することを嫌い、実はすでに千篇一律な句風に倦怠をもよおしてきており、また連歌から俳諧へ進んできた西山宗因に率いられる人々も、いつまでも貞徳の糟粕(そうはく:酒かす、転じて先人の残りかす)をなめることを潔しとしませんでした。こうした機運は必然的に新風渇望の声となり、延宝年代に入っては滔々(とうとう)として宗因の当流が全俳壇を圧するに至ったのです。ここに宗因門下中の最先鋒をなして戦った闘士が西鶴でした。保守派の人々からはひとしきり「放埓抜群」「オランダ西鶴」などの罵言を浴びながらも、彼は俳諧の様式にとらわれず、伝統にこだわらず、彼の前に彼なく彼の後に彼なしといわれるほどの抜群の手腕をもって、世相や人間生活を自由奔放に描き出しつつ、常に新風の先端を行きました。

囂々(ごうごう)たる論戦の乱れ飛ぶ嵐のなかで、西鶴は冷然として前代未聞の「矢数俳諧」なるものをやって、敵味方をあっと言わせました。これは弓道の大矢数から思いついたもので、武士が弓道の腕前を試すために用いた手段を、俳諧師の句作に適用したものです。西鶴は三十六歳の延宝五年(1677年)五月二十四日の夕暮れから翌二十五日の午後までに、生玉(いくたま)の本覚寺で独吟一千六百句の矢数俳諧を興行しました。これを手始めに延宝八年五月七日から八日にかけて四千句の大矢数をやり、さらに四年後の貞享元年六月五日から六日まで、住吉明神の境内で二十四時間をぶっ通しに不眠不休で句作し、二万三千五百句を吟じて超人的な新記録を作りました。実に四秒ごとに一句ずつ吐いた勘定になるので、立会人や記録係はいうまでもなく、絵馬堂、拝殿から社前まで潮のように詰めかけた老若男女は、武士も町人も百姓も舌を巻いて目を見張ったのです。

「さすがは松寿軒井原西鶴先生、えらいもんだすなあ」

まったく、延宝年間を通じての彼の活動はめざましく、とくに延宝六年および七年は、彼の俳諧生活においてもっとも油の乗りきった時代で、この二年間には彼の自ら選び、あるいは直接編集に関係した俳書が十五、その作品を入集したものが六、七種に及んでいます。

井原西鶴の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

洒脱淡々

自然の趣をそなえたささやかな庭に面して、黄と白の菊を簡素に生けた床の間の近くに、つやつやと拭きこんだ机を据えて、眉の太い、洒々(しゃしゃ)たる面持ちの人が静かに書見しています。大坂鑓屋町(やりやまち)の西鶴の住まいです。

「頼み申します」

「よう」

話し相手がほしいと思う折から、竹の組戸をたたいて飄然(ひょうぜん)と訪れたのは、江戸の俳人・其角(きかく)でした。二人は友達の消息などを語り合いながら一日を過ごしましたが、たがいに俳諧の「は」の字も口にしませんでした。西鶴はこれを「洒落たること」だといって満悦していたといいます。

彼は延宝三年(1675年)、鶴永という名を西鶴と改めると同時に剃髪しましたが、それは俳諧師としての一般の風習にしたがったというよりも、むしろ遁世(とんせい:俗世を離れること)の気持ちから出たものでした。

浮世の月見過しにけり末二年

という彼の辞世にも現れているような心境から来たものであり、また西鶴とした改名のなかにも、西方浄土を願う心持ちが含まれていたのです。彼の書いた『一代男』『二代男』『一代女』などが、みな絢爛(けんらん)な色彩のなかに躍りながらも、吉田兼好の『徒然草』から流れをひいた「物のあわれ」に対する詠嘆を帯び、華やかな男女のたわむれのなかにも一抹のやるせない哀韻がただよっているのは、決して偶然ではありませんでした。妻を失い、娘に先立たれ、家業を手代に譲った西鶴は、ぶらりと笠と杖を持ち、頭陀袋(ずだぶくろ)をかけて旅に出て、半年も一年も家に帰らないことがしばしばでした。こうして彼は浮世からのがれ、浮世に入り、つぶさに世態人情の機微を観照しつつ、黙々淡々と諸方をめぐり歩いていたのです。

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浮世草子の創始

小説家としての西鶴の処女作『好色一代男』が、大坂思案橋筋の書肆(しょし:本屋)荒砥屋から刊行されたのは、彼の師匠・西山宗因が没した天和二年(1682年)の十一月で、西鶴四十一歳の当時でした。これはあえて俳諧と絶縁して小説に逃避したのではなく、彼の芸術的素質に基づく創作欲の展開でした。『好色一代男』はその自由な構想、奇抜な描写、斬新な筆致によって、従来の陳腐な小説に倦怠を感じていた読者層に大々的な反響を呼び、彼の矢数興行における大記録の名声も手伝って、たちまち嵐のような売れ行きを示したのです。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は、二万三千五百句の矢数興行の名声が『好色一代男』の売れ行きを助けたように書いていますが、その興行は貞享元年で、『好色一代男』の刊行(天和二年)より二年あとのことです。

 

徳川幕府は徳川万年の政策のもとに、士民のあらゆる飛躍を権力をもって圧殺していた。しかしむらむらと盛り上がる国民の生の力は、決してその鎮圧のもとに長くじっとしてはいなかった。しかも久しく打ち続く泰平にようやく武が衰えるに及んで、一方で財力的にしだいに台頭してきた町人階級は、内部に圧縮されてきた生の力を何らかの形で解放し発現しようとする要求を燃えるように感じてきた。ある者は男伊達(おとこだて)、町奴(まちやっこ)となって武士に対抗し、ある者は巨万の富を散じて歓楽に豪華を誇った。底本はこう説明しています。こうした時代風潮の一つの現れとして世に躍り出たのが西鶴の『好色一代男』であり、また以下に続く彼の諸著作ならびに、彼を創始者として一時期を風靡(ふうび)した「浮世草子」でした。

七歳のときに腰元に恋をしたのが始まりで、十一で遊所に通い、十九で親に勘当され、諸国に流浪の旅を続け、奥羽の果てまで遊所という遊所をめぐり歩き、歩き巫女(みこ)から奥女中まで女という女を遺憾なく試み、勘当を許されるやたちまち大尽(だいじん)となり、金のあるにまかせて三十五から六十まで色里に遊び、歓楽を味わい尽くした末、さらに新しい享楽を求めつつ、寝床の売り道具を積みこんで女護島(にょごのしま)に船出する。この『好色一代男』の主人公世之介の姿は、単なるエロティシズムではなく、圧迫された町人階級が心ゆくばかり自己を解放し、奔放に自分たちの人間意欲を展開させた大パノラマであり、当時の町人階級の輝かしい理想生活の体現でした。ここに『好色一代男』の世に喧伝(けんでん)されたゆえんがあり、また浮世草子の創始者としての西鶴の、偉大な作家的価値ならびに重要な歴史的地位があるのです。

彼は大尽などに連れられてよく遊里に遊びました。けれども彼は酒を飲まず、持ち前の才気縦横な軽快さで酒席に座興を添えながらも、心は常に澄み冴えて、酔いほうけた人々の痴態や、手練手管を弄する遊女の姿を冷静に見つめ、鋭く、余すところなく観察していたのです。

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偉大なる芸術的業績

彼はいかなる物事に直面しても、少しも動揺することなく、陶酔することなく、感傷におちいることなく、自若として現実の人生を直視し、鋭敏な感覚を縦横に働かせ、澄んだ芸術的な心眼をもって、幾多の芸術作品を書きました。西鶴は一般に煽情的な作家のように考えられがちですが、それは皮相な見方です。その作品には、当時ようやく頭をもたげてきた新しい町人階級の気持ちが反映していて、ものの見方が唯物的であったと底本は評しています。そうした傾向のよく現れているものは、いわゆる「町人物」で、『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』はその代表的なものです。『世間胸算用(せけんむねさんよう)』は大晦日における町人を種々の角度から観察したもの。ほかに町人を語るものとしては『織留(おりどめ)』および『本朝町人鑑』などがあります。

庶民階級の現実生活のうち、愛欲の相を対象とした「好色物」には、『好色一代男』のほか、一人の淪落(りんらく:落ちぶれること)の女の懺悔をつづった深刻な『好色一代女』、短編の形式をとって哀しい愛欲の女の様相を浮き彫りにした『好色五人女』があり、また『好色二代男』『好色盛衰記』『好色旅日記』などもあります。転じて「武家物」としては、節義を描いた『武家義理物語』や仇討ちを書いた『武道伝来記』、それらの交錯した題材を扱った『新可笑記(しんかしょうき)』があります。さらに「説話物」としては、奇談を集めた『西鶴諸国咄(ばなし)』や裁判小説の『本朝桜陰比事(ほんちょうおういんひじ)』などがあります。

こうして西鶴は、諸国を巡遊し、江戸にも長期滞在し、人とも交わり、世も眺めして得た鋭い観察と豊かな体験の上に立ち、天来の霊筆を振るいつつ、明滅浮動する人間心理や社会相の葛藤、矛盾、錯綜を鮮明溌剌(はつらつ)と描き出し、元禄の世に燦然(さんぜん)として偉大な芸術の金字塔を築きました。そして元禄六年(1693年)八月十日、五十二歳で逝きました。

四秒に一句を吐いた人は、酒席で一人だけ酒を飲まず、酔った人々を見ていました。浮世をのがれて旅をし、浮世に入って書く。その目が写し取った町人たちの姿は、三百年たった今も、元禄の大坂をそのまま私たちの前に立ち上がらせます。

井原西鶴の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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