「俺はあくまでも防長主義だ」
同郷の後輩から「この時勢に超然内閣など時代錯誤だ」と言われた元老山県有朋は、至極正直にそう答えたといいます。防長は周防・長門、今の山口県。その山県から口もきかれなくなり、寺内正毅からは一生恨まれても、この後輩は自分の信じる政党政治を曲げませんでした。三度の内閣書記官長、四度の大臣。「智慧江木」と呼ばれた江木翼(えぎ たすく)の生涯です。
平凡な秀才
明治三十年(1897年)、羽村翼(のちに江木翼)は東京帝国大学英法科を卒業しました。秀才の聞こえは高かったのですが、あまりぱっとしない平凡な法学士でした。彼はすぐ内務省関係の官吏となりました。彼の志望は政治家でしたが、議会政治家としては適しそうもないので、まず官僚政治家として打って出よう、実力さえ持っていれば議会政治家だろうと官僚政治家だろうと国家有用の材たるに変わりはない。これが彼の若いころの信念でした。彼は事務官として地方に出たこともありますが、まもなく内務本省に移って法制局参事官となるなど、順序よく昇進していきました。
彼が神奈川県事務官だったときのことです。明治三十三年でしたが、当時海岸埋め立ての名目で県の許可を得たものが百二十人もいましたが、これらの連中は盛んに砂利を取引していて、これがとかく市場を攪乱させるので、彼は断然埋め立ての許可を取り消してしまいました。突然の取り消しで、うまい汁を吸っていた利権屋も県の有力者連中もびっくりしました。そして盛んに彼を脅迫したり、彼のご機嫌を取りに来たりしましたが、二十八歳の参事官はなかなか承知しないのです。とうとう政界の大御所星亨までが彼に会見を申しこむという騒ぎになりました。しかし彼は、誰が来ようが、いったん言い出した以上断じて退きませんでした。この度胸と信念とは、子どもらしい片意地からではなく彼の澄んだ頭脳から来るもので、彼の一生を通じて変わらないものでした。

桂太郎を助けつつ
彼が一転して政党政治家となったのは、桂太郎にその才幹を見いだされたことに始まります。明治四十三年(1910年)四月のある日、突然彼は時の宰相桂太郎に呼ばれました。そして朝鮮併合の準備のための実際上の事務を執ってくれるようにと頼まれました。彼は調査や法令草案の起草などに不眠不休の努力をしました。同じ年の八月に朝鮮併合が成り、桂はほとんど仕事らしい仕事をせずに、拓殖局に彼の綿密な仕事によって済んだのでした。桂はこれですっかり彼に惚れこんで、大正元年(1912年)十二月、首相の印綬を帯びたとき、一も二もなく彼を書記官長に抜擢したのです。
このとき桂はすでに時勢の変転はとうてい官僚内閣の存続を許さないことを見て取って、欧州各国の政党政治の現状を見て政党を組織しようとの考えを抱いていました。桂は欧州へ向けて出発する前に明治大帝に拝謁して政党組織のことを奏上したのですが、彼がシベリア鉄道によってモスクワに着いたとき大帝崩御の電報が届いて、彼はただちに帰国しました。すると、内大臣兼侍従長として新帝陛下に仕えるよう任命されました。それは桂の先輩の山県有朋が桂の政党組織の意向を知って、それを妨害する策だったらしい。このころよく桂は江木に苦衷をもらしていました。やがて時が来ました。西園寺内閣がつぶれ、松方正義、平田東助、山本権兵衛らがいずれも後継内閣の組織を引き受けないので、元老会議の頭目である山県が、自分が出ようと言い出しました。桂は、今さら老公をわずらわしてはというので、それでは自分が引き受けると言いました。老公が、この難局を切り抜ける成算ありやと質問したのに、桂は、今までと違った新方針でいくからきっと切り抜けられると思うと言った。今までと違った新方針とは、いうまでもなく政党組織についての暗々裏の表明だったのです。そこで江木が呼ばれ、書記官長となり、内閣の人選が行われました。桂は名参謀の江木を得て、組閣後、新政党結成の声明を発し、国民党の五領袖と会い、内閣辞職とともに同志会を組織して国民党を二つに割りました。この背後に「智慧江木」の頭脳があったのは自明のことです。彼はこうして、官僚生活から離れていきました。

三度勤めた書記官長
彼は大臣となるまでに、三度書記官長を勤めています。政治家で三度も書記官長を勤めたものは、まずほかにはないでしょう。書記官長なるものは内閣の中枢機関といってよく、高等政治はここで行われ、一切の政治的局面と接触して政治の実際を実習する最上の学校です。彼が書記官長をやったのは第三次桂内閣、大隈内閣、加藤高明内閣のときですが、加藤高明がこう言ったことがあります。
「江木君は書記官長として法制と慣例に通暁しているから、首相たるものはまったく委せっきりで安心していられる。こんな有能な男だから、誰も江木君を書記官長にしたがるのだ。したがって君が大臣になるのが遅れたのは、頭がよすぎたためである」
彼はいわゆる苦節十年ののち、加藤高明の憲政会内閣の大正十四年(1925年)八月の改造で、はじめて司法大臣となりました。ときに五十三歳。若槻内閣のときにも同じく司法大臣となり、浜口内閣の成立するや鉄道大臣となり、さらに浜口なきあとの若槻内閣のときにも、四度目の大臣を勤めたのです。

政党組織に尽す
彼は明治六年(1873年)四月二十四日、山口県玖珂郡御庄、羽村氏の三男に生まれましたが、明治三十年、帝大英法科を出ると、同郷の先輩江木千之(かずゆき)に見こまれてその女婿となりました。千之は岩国藩士で幕軍と戦った維新の先駆者の一人です。原田一道について銃砲製造を学び、工部省修技校、工部大学などで工学を学びましたが、のち明治十五年に内務省に入って諸県知事を歴任したのち、貴族院議員に勅選され、文部大臣、枢密顧問官に任じられました。文政審議会、日本赤十字社、皇典講究所などの事業に尽くし、昭和七年(1932年)八月、八十歳で倒れています。
江木翼が桂の意見にしたがって(というより、むしろ桂が彼の意見を重んじて)政党組織をしたころ、義父の江木も、同郷の先輩山県有朋も、寺内正毅も彼の政党入りに反対しました。しかし大正二年(1913年)二月の立憲同志会の結成には、それを振り切って、官僚独裁政治に反対して自分の信じる政党に入って活動しました。寺内はその内閣の成立したとき江木に鉄道院総裁の椅子を与えようとしましたが、江木はそれを断っています。そして寺内内閣下の総選挙に際しては、山口県下に寺内超然内閣反対の候補者を立てて盛んに演説して回りました。また江木はその前後に元老山県を訪問して、この時勢に超然内閣など許すのははなはだしい時代錯誤だと言いました。山県はこれに答えて、俺はあくまでも「防長主義」だと、至極正直に地金を出したものだといいます。防長はいうまでもなく周防・長門で、今の山口県です。こうして一生寺内から恨まれ、山県からはまったく口もきかれなくなってしまったけれど、江木たる者、老朽政治家にくみして安きにつくには、あまりに明敏すぎたのです。しかし同郷の先輩とまったく離反するということは、政界においてはただ事ではありません。若槻礼次郎が、江木が死んだときに書いているとおりです。
「郷里の先輩と政見を異にすることがいかに苦しいことであるか、長いあいだその苦痛に堪えてこられた君の堅い信念と高い見識にただ尊敬の念が胸に浮かんだのである。ただに君は消極的に苦しかったばかりでなく、貴族院において、あらゆる地方、あらゆる場合において、政見を異にする人々の意見を批判し論難し、党の政見の正しきを強調した点に至ると、政治家としての君の面目は実に絶大なもので、その信念の堅きとその努力とは、実に敬服の至りであった」
日本の議会政治は、急激な資本主義の発達を反映するデモクラシーの未発達のなかに置かれていたから、いちおうの形態はきわめてデモクラチックにできてはいるが、実際においては必ずしもそうでなかった。その一つの表れとして議会において低級な暴力が用いられ、ついに国民の信望を失って政党が信用を失墜していったのも当然であった。底本はこう説明しています。こうしたなかにあって、江木は立憲政治家らしい政治家で、刻苦勉励、法学博士の学位をかちえた彼は、法制に精通し儀礼に明るく、節を持して屈せず、しかも実行力がありました。

惜まるる死
こうした彼の面目は事ごとに現れましたが、たとえば減俸問題が天下の耳目を動かしたとき、鉄道省がもっとも困難をきわめた立場にあって、鉄道大臣としての彼は激しい非難の矢面に立ったことがあります。彼は行政整理の主唱者として、潔く鉄道大臣を辞職して、自分自身の行政整理を行って範を示しました。彼は所信のためには、おのれの利益などまったく眼中にないという強い責任観を持っていたのです。彼は一言の不平をもらさず、あくまでも自己の所信に向かって邁進しました。浜口が凶漢の刃に倒れたとき、浜口は安達を呼んで後事を託すべきが順序だったにもかかわらず、江木を呼んで彼に辞表を渡し、内閣と与党との後事を託しました。江木は浜口の志を継いで若槻を擁立して、浜口の遺志を十二分に伸べさせました。浜口の江木を信じることのいかにも深かった理由、江木の信じられるに足る人物であった理由は、のちに至って分明したのです。
江木は浜口なきあと、しだいに健康を害し、大手術直後にもかかわらず、総選挙(昭和七年)に臨みました。そして選挙資金の調達、選挙対策、策戦などに自らあたって日もこれ足らぬ有様でした。二月七日、井上準之助が凶漢に射たれて死んだとき、その失望落胆と連日の過労とによってついに大吐血をしました。彼がふたたび起つことができなくなったのは、この総選挙の過重な活動の結果だったのです。日本においてきわめて得がたいこの近代的政治家江木翼は、その将来を惜しまれながら、ついに昭和七年(1932年)九月十八日、静かに永眠しました。享年六十。
同郷の元老に口をきいてもらえなくなっても、自分の信じる政党で働き続けた人。三度書記官長を務め、首相に「頭がよすぎて大臣が遅れた」と言われ、減俸問題では自分から大臣を辞めて範を示しました。暴力が議会に入りこんでいく昭和の初めに、こういう議会人が吐血して倒れたことを、底本は「きわめて得がたい」と惜しんでいます。





