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大浦兼武の生涯|質実剛健を貫いた薩摩隼人と「大浦事件」の真相

大浦兼武の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「いや、今の邸でさえ大きすぎると思っている」

国務大臣の邸なら千坪はなくてはと隣地の安売りを持ちかけた地主に、その大臣はそう答えました。大臣になっても母から「柿の木に縛りつけられたことを忘れるな」と手紙が来る人。三等船室で赤毛布をかぶって眠る警部長。娼妓の自由廃業を許し、書類を二日以上とどめるなと命じ、そして自分の責任で政界を去った大浦兼武(おおうら かねたけ)の生涯です。

 

国士的風格の政治家

大浦兼武の政治家として活躍した時期は、明治の後期から大正の初期へかけての約十五、六年間ですが、彼はそのあいだを、幼時からの苦闘によって築き上げた百錬の快腕を振るい、波乱の政界に国士の風格を躍如たらしめた傑物でした。封建時代、薩摩武士の典型とするもっとも厳格なスパルタ的教育を受けたためでしょう。彼の日常生活には、公私を問わず常に誠実の二字が基礎とされており、そしてそこには剛健な意志と絶大な勇気があふれていて、まさに古武士の面影をほうふつさせるものがありました。それにもかかわらず、彼の晩年はほとんど誤解をもって満たされ、その熱誠愛国の信条は彼の藩閥擁護の方便とさえ邪推されるに至りました。しかし彼は決して私心や邪心のために国家の事を処するような精神の腐敗した男ではなく、きわめて清廉な人格者だったのです。彼の残した多くの逸話のなかには、その高潔な人格を裏書きするものを十分にうかがうことができます。

かつて彼の私邸に隣接した地所の所有者が彼を訪れて来て、こう言ったことがあります。

「失礼ですが閣下のお邸は少し狭すぎはしませんか。いやしくも国務大臣の邸であれば、少なくとも一千坪以上はなくては……閣下のためならば隣地をお安くお譲りいたしますが、いかがでしょう」

このときの兼武の答えはこうでした。

「いや、今の邸でさえ大きすぎると思っている」

この簡単な答えひとつのなかにも、質実剛健な彼の国士的高風は潜んでいるのです。しかも彼はひとたび意を決して断じた場合、疾風迅雷の勢いをもって邁進し、何物も粉砕せずにはおかない不屈の精神に燃えていた男でした。古来英雄豪傑の所信はともすると世の誤解を招きやすいところを持っているものですが、大浦兼武の晩年のごときも、まさにその例にもれなかったものといえましょう。

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努力の経歴

大浦兼武は嘉永三年(1850年)五月六日、鹿児島県薩摩郡宮之城に生まれました。大浦家は代々、宮之城の城主島津公の臣で、鹿児島士臣のいわゆる陪臣でした。その陪臣大浦兼友の二男です。当時鹿児島人の尚武の風は厳格をもって世界に聞こえるスパルタ以上のものであったといわれますが、そうした環境に育った彼は、したがって少年時代、非常な腕白者でした。そのため彼の母の訓育の仕方もまた並大抵ではありませんでした。賢母をもって聞こえた彼女は、兼武の腕白があまりに度を越えたときは、彼を裏の柿の木の根元に縛りつけて戒めるのでした。こうした賢母の訓育があったからこそ、彼の生涯もあれほどに傑出したものとして築き上げることができたのでしょう。彼女は後年、兼武が大臣になったときにもまだ、手紙を寄せてこう言いました。

「人間は誠実を忘れてはならぬ。お前は今大臣であるというものの、その昔柿の木に縛りつけられたことを決して忘れてはならない」

そして毎年、彼のもとに柿の実を送り届けたといいます。兼武自身が英邁であったことはもちろんですが、その母の訓育がいかによろしきを得ていたかもしのべましょう。

彼は八歳から十四歳まで、厳翼館に通って武技を習い、盈進館で学を修めました。また剣客大磯彦兵衛について天真流の剣法を修め、儒者相良修補、川越五太夫のもとで漢学を学びました。やがて戊辰の役が起こると、彼はしいて征軍に志願して出征し、明治二年(1869年)、鹿児島軍務局から宮之城に常備隊を置くことになると二番小隊の小頭(今の軍曹に相当)に任じ、翌三年から四年十月まで鹿児島藩校に学びました。そして同じ年の廃藩置県と同時に、当時の警察機関であった東京取締組の徴募に応じて上京し、邏卒(らそつ)小頭となりました。これが彼の中央政府に出仕した初めで、ときに彼は二十二歳でした。翌年六月には権小区長に任じ、牛込区を管して司法省小警部となりました。だが明治六年の征韓論の余波で、薩州出身の警官はほとんど退隠してしまうような状態となり、彼もまた七年一月に依願免となって宮之城に帰りました。東京府の警察事務が統一されて警視庁が設置されたのはこのころです。兼武はその年の四月、台湾出兵に義勇兵となって参加しましたが、上層部との意見の疎隔から十月には宮之城に帰ってしまい、翌八年、上京すると警視庁警部補に任じました。そしてこれが彼の出世の端緒であったといえましょう。十五年一月、大阪府警部長に、二十六年、四十四歳で島根県知事に、三十一年、警視総監に、三十六年、五十四歳で逓信大臣となり、以来農商務大臣に親任すること二回、さらに第三次桂内閣と第二次大隈内閣で内務大臣に親任するに至りましたが、このめざましい昇進の過程は、ただ彼のひたむきな努力によって築かれたものです。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は島根県知事になったのを「四十歳」としていますが、嘉永三年生まれの兼武は明治二十六年には数え四十四歳です。

 

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逸話の語る人格

兼武の大阪警部長時代のあるとき、高知県警部長が警部長会議に出席するため、大阪から横浜へ向かう船に乗りました。彼は、三等船室の荷物にもたれて赤毛布をかぶって眠っている者の顔が、どこかで見たことのある顔のような気がしたので、そのそばへ行ってみました。ところがこの男は大浦兼武でした。当時彼は天下の三警部長とうたわれていたほどの人でした。高知県警部長はこれを見て、その質素な態度に驚嘆したといいます。

「大浦は警視総監であると同時に一個の平巡査でもある」

彼は民衆のための警察ということをモットーにして、民衆に対してはきわめて親切丁寧であるようにとしばしば訓令しました。また明治十八年に制定された街路取締規則中の左側通行令は、一般の警察規則令となりましたが、実際は空文に等しかったため、彼はこれを励行させようと非常に骨を折ったことがありました。ところがたまたま児玉中将が、それは陸軍の右側通行と矛盾することを理由に、その改変をうながしました。だがこのときの彼の答えは、軍隊のような一部分の者のために一般民衆の通行規則を改めることはできぬ、というものでした。また彼は当時の業者間に起こった反対の波を押し切り、英断をもって娼妓の任意廃業を許可しました。これは人道上の見地から見てまさに大事業であったといいえましょう。逓信大臣に親任したときには、事務の簡捷をはかるため、書類を二日以上各局課に停滞させておくことを許さず、その必要のある場合は大臣の許可を得なければならないと定めました。これは民間から提出された書類が下僚の机上に放置されていたずらに日を費やす悪弊を打破するためでした。このように彼は、国家の事に関しては微細な点まで気を配ったのです。

明治四十一年(1908年)、彼が第二次桂内閣の農商務大臣に親任して行政整理を行ったときでした。山林局長が部下二十余人の高等官を罷免することとなりました。ところがそのなかに兼武ととくに関係のある者が三人あって、彼らはその留任運動をし、まず次官の同意を得て彼に決裁を求めてきました。そのとき彼は眉をしかめて、ただ「お気の毒ながら」と言っただけでした。そしてすぐ書類に捺印してしまい、罷免者の氏名さえ見ようとはしなかったといいます。このように彼は公平を旨として職務を遂行したのです。

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失脚の晩年

彼が大隈内閣の内務大臣に親任したのは大正四年(1915年)一月で、辞表を提出したのは同年七月の末でした。わずかに半年余です。だがこの期間はおそらく彼の公生涯においての得意の最高潮に達したときであったでしょう。しかも彼は急転直下、忽然として政界を隠退しなければならないことになったのでした。五月十七日に召集された臨時議会は六月一日をもって追加予算の全部を通過させ、ことに前議会で解散の根源となった増師案は、反対百三十一に対する二百三十一をもって可決されました。

 

※ 底本は「反対三十一」としていますが、二個師団増設案の採決は賛成二百三十一、反対百三十一でした。

 

ここにおいて、年来増師案に反対してきた政友会は外交弾劾案を提出するに至り、敗れるとさらに、内務大臣大浦兼武に対する弾劾案を提出しました。なぜか議員白川友一の選挙違反予審調書のなかに、一万円を大浦兼武に贈る、という一節があり、これが弾劾の理由でした。だが政友会はこれにも敗れ、さらに議長不信任案を提出して否決されると、ここには大浦内務大臣の策略があるものとみなし、ついに告発の挙に出たのでした。高松地方裁判所の調査の結果、大浦兼武の選挙違反および一万円収受事件は何ら根拠のないものと判明しましたが、しかしここにその調査の余波として、前議会における増師問題に関して、兼武が政友会の一部に手をつけた事実が摘発されるに至ったのです。だが彼のこの行為は、当時欧州戦争の最中であり、増師問題を国家の急務と信じた彼が、たとえ法禁にふれようとも所信を貫徹させるために努力した行為であって、彼にとってはまさに千慮の一失であったといえましょう。

この結果、彼は七月三十日をもって依願免となりました。このとき閣僚のあいだには総辞職の説も提案されましたが、彼はそれに対してこう述べました。

「予が一身の故をもって他の閣僚が総辞職の挙に出ることは、予の忍びないところである。責任はすべて予の一身にあるのだ。予を犬死にさせてくれるな」

しかも彼は深く責任を感じ、内閣を退くとともに貴族院議員を辞し、大日本武徳会その他一切の職から身を退いて鎌倉に隠遁し、まったく世間と隔絶して、その進退を武士道的に行動したのです。鎌倉に退いてからは、政治には一切耳を傾けず、口を開かず、また彼の清貧を懸念して資財あるいは山林などの寄贈を申し出る者も少なくありませんでしたが、それも彼は一切断ってしまいました。そして大正七年(1918年)九月三十日、電撃性脳溢血のため、その国士的高潔の生涯を終えました。享年六十九。

 

※ 底本は没日を「十月一日」としていますが、通説では大正七年九月三十日です。

 

柿の木に縛られた腕白は、邏卒から内務大臣まで上がり、国家の急務と信じて法を踏み越え、一切の職を捨てて鎌倉に消えました。法を破ったことは消えません。けれども、総辞職をとどめて「予を犬死にさせてくれるな」と言い、寄付を全部断って貧しく死んだ人の進退は、底本が言うとおり、たしかに武士のものでした。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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