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荒木寛畝の生涯|幕末の絵師から帝室技芸員へ

荒木寛畝の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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幕末の江戸、土佐藩の屋敷。

世の中は日に日に物騒になり、浪人が乱入するという噂がしきりに飛び、人々はこぞって砲術や剣術に身を鍛えていました。そんな時代に、一人の絵師が屋敷に閉じこもり、来る日も来る日も、一枚の巨大な絵に向かっていました。

「おい、どうしたい阿房宮(あぼうきゅう)。ちっとは竹刀(しない)でも持つ稽古をしたらどうだ」

心ない友人たちは、時勢を知らぬ「阿房宮野郎」だと笑いました。彼はそのたびに、まじめにこう答えるのでした。

「いや、ごもっとも。しかし俺は恥ずかしながら剣術もできぬ、砲術も知らぬ。それでもよいから何でも絵を描けと仰せつけられ、絵所(えどころ)として扶持(ふち:主君から支給される給与)をいただいている。絵を描きながら死のうとも殺されようとも、もとより覚悟の上のことじゃ」

彼の名は荒木寛畝(あらき かんぽ)。増上寺の役人の子に生まれ、土佐の山内容堂に召し抱えられ、明治には油絵に打ち込み、そしてふたたび日本画に戻って帝室技芸員となった画家。動乱の時代を絵筆一本で生き抜いた、一人の絵師の歩みに迫ります。

その生い立ち

 

のちに帝室技芸員(ていしつぎげいいん:宮内省が任命した、美術・工芸の最高の栄誉職)となる荒木寛畝は、天保二年(1831年)六月、増上寺(ぞうじょうじ:東京・芝にある浄土宗の大寺)に仕える俗人の役人・田中永周(たなか えいしゅう)の三男として生まれました。生まれた場所は芝の赤羽河岸(あかばねがし)。俗に「御被官町(ごひかんちょう)」と呼ばれ、あの「お竹大日如来(おたけだいにちにょらい)」で有名な心光院(しんこういん)の近くの屋敷です。先祖の田中民部太夫(たなか みんぶだゆう)が大坂落城と同時に徳川氏から家を没収され、それ以来、増上寺に身を寄せていたのだといいます。

 

※注:「お竹大日如来」は、江戸の大伝馬町の商家に仕えた「お竹」という下女が、じつは大日如来の化身であったという伝説で、その像が心光院に祀られています。

 

九歳のとき、絵師の荒木寛快(あらき かんかい)の門に入れられました。ところが読み書きや算術といった正規の科目が嫌いで、絵ばかり描いて遊んでいます。何度叱っても、好きな道に凝り出したら人の言うことなど聞きません。とうとう親たちも、この子の将来はこれだと決め、絵の道に専念させることにしました。

ただ、師匠から見ると、色をつける絵を描かせるにはまだ少し早すぎました。蘭・竹・菊・梅の四君子(しくんし:東洋画で基本とされる四つの画題)の描き方から順を追って学ばなければ、器用さが災いして、せっかくの腕を小さくまとめてしまう。そんな心配があったのです。けれども光三郎(みつさぶろう:寛畝の幼名)は、ひたむきに自分の描きたいものを描きました。そして、その技の非凡さで師匠を感服させてしまいます。

 

荒木寛畝の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

こうして腕を磨いた彼は、十六歳の春、「琴棋書画(きんきしょが:琴・碁・書・絵という文人のたしなみを描いた画題)」の細密な絵八枚を写しました。これで師匠の寛快はすっかり腕を見込み、跡継ぎとして養子に欲しい、ということになったのです。

話が決まった翌年、実父・永周が亡くなります。十八歳の彼は増上寺に入り、冠誉大僧正(かんよだいそうじょう)の随身(ずいじん:身の回りに仕える者)となりました。大僧正もまた彼の優れた技に感じ入り、「三老日拝(さんろうにっぱい)」の古い絵を写させます。そしてその出来栄えを激賞し、特別に金襴(きんらん:金糸を織り込んだ豪華な織物)で表装して居間に掛け、光三郎をその前に呼んで言いました。

「これぞ汝(なんじ)が一生の守り。必ずこの道を勉強して、後世に名を残せ」

この言葉は、生涯忘れられない感銘として、寛畝の胸に焼きつきました。

 

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容堂公御召抱

 

養家の荒木氏も徳川以前からの旧家で、先祖は荒木山城守(あらき やましろのかみ)といいます。三代将軍家光のとき、主家の秋田城介(あきた じょうのすけ)百万石が所領を没収され、奥州三春(みはる:現在の福島県田村郡三春町)に五万石の新しい領地を与えられたため、暇を願い出て江戸に住むようになりました。たまたま安政の大地震(安政二年・1855年)に遭い、一時はひどく困窮したといいます。

寛畝には寛一(かんいち)という義兄がいました。その主人の黒田甲斐守(くろだ かいのかみ)は山内容堂(やまうち ようどう:土佐藩主)の伯父にあたる人で、荒木家と同じ町内に住んでいました。

安政三年(1856年)、寛畝二十六歳のとき。黒田邸を訪れた容堂の前で、兄・寛一とともに席画(せきが:人々の前でその場で描く絵)を描くよう求められます。かねて彼の才を伝え聞いていた容堂が、この機会に腕前を自分の目で試そうとしたのです。

「お前の得意なものは何だ」

「はい、人物、花鳥などでございます」

寛畝は臆する様子もなく、即座に答えました。

「よろしい。では今ここで、美人四人をさまざまに描き分けてごらん」

用意された尺八(一尺八寸、およそ五十五センチ)の絵絹(えぎぬ:絵を描くための絹)が四枚、持ち出されます。寛畝は静かに筆を執り、次々に描き上げました。楊・西・張・王の四美人を墨で描いた、四幅対(よんぷくつい:四枚で一組の掛け軸)でした。

容堂はさらに、七日の期限でこの絵に色をつけよと命じます。一週間後、みごとな極彩色の美人画四幅が差し出されました。重ねて容堂は、蓮の絵十二枚を一枚ずつ違う図柄で描いてみよと命じます。これもまた短い日数のうちに差し出されました。人物も花も、いずれも容堂の気に入ったことは言うまでもありません。彼が山内家の絵所(えどころ:藩お抱えの絵師)に召し抱えられることになったのは、いわばこの採用試験に合格した結果でした。

 

※注:底本(もとにした本:菊池寛監修『日本英雄伝』、昭和11年刊)は四美人を「楊・西・張・王」とだけ記しています。楊貴妃・西施・王昭君など、中国の代表的な美女を指すものと思われます。

 

しかし、世の中は落ち着きを失っていました。浪人が乱入するという噂がしきりに飛び、人々はおおむね砲術や剣術に身を鍛え、のどかな絵の仕事を顧みる余裕などありません。容堂もまた、朝廷の命を受けて京都へ赴かなければならなくなりました。

 

 

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阿房宮大画幅

 

寛畝は留守居の一人として江戸屋敷に残りましたが、世の中はますます物騒になります。こうなると絵師などというものは、まるで値打ちを認められない時世でした。

もとより奉公の身です。いったん事が起これば、絵筆を投げ捨てて主君の馬前に命を捧げなければなりません。かといって、むざむざここで一命を捨てるのは、彼には無念でした。せっかく志した絵の道も、たちまち水の泡になってしまうからです。

そこで彼は考えました。同じ死なねばならない身なら、せめてこの世の思い出に、一生一代の命を賭けた大作を後の世に残しておこう。それこそ、絵所である自分に与えられた務めでもあろう、と。

構想を練ること三日三晩。「阿房宮図(あぼうきゅうず)」の大作の計画が、胸の内にできあがりました。

 

※注:阿房宮は、秦の始皇帝が築いたとされる壮大な宮殿で、東洋画の画題としてしばしば描かれました。

 

それから一年、昼も夜も、この大望に心血を注ぎます。あるときは、佐藤一斎(さとう いっさい:幕末の儒学者)門下で彼の漢学の師であった河野魯助(こうの ろすけ)を訪ね、古い制度や風俗の資料調べに没頭しました。顔色までやつれるほどの熱中ぶりです。

心ない友人たちは、このただならぬ様子を見て、時勢を知らぬ「阿房宮野郎」だと罵りました。

「おい、どうしたい阿房宮、ちっとは竹刀でも持つ稽古をしたらどうだ」

そうあざける者ばかりです。そのたびに彼は、まじめに答えました。

「いや、ごもっとも。しかし俺は恥ずかしながら剣術もできぬ、砲術も知らぬ。それでもよいから何でも絵を描けと仰せつけられ、絵所として扶持をいただいている。絵を描きながら死のうとも殺されようとも、もとより覚悟の上のことじゃ」

そう言って、ただ一筋に大作の完成に打ち込みました。しまいには友人や浪人たちがあれこれ言って押しかけてくるのを煩わしがり、門を固く閉ざして、最後の仕上げに精魂を注いだのです。

こうして大作がほぼできあがったのは、ちょうど薩摩屋敷に討手(うって)が向かったのと同じ日でした。

 

※注:慶応三年十二月二十五日(1868年1月19日)、幕府側が江戸三田の薩摩藩邸を焼き討ちした事件を指します。これが戊辰戦争の引き金の一つとなりました。

 

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洋画への希望

 

明治元年(1868年)、彼も容堂の召集に応じて京都へ向かうことになりました。しかし時は鳥羽伏見の戦いの直後です。京の内外は血なまぐさい空気に覆われ、絵筆を執る暇もなく、あわただしく雑用に追い回されました。そして容堂が、天皇の東京行幸に先立ってふたたび江戸へ帰るとき、彼も一行に従って、懐かしい「新東京」の土を踏んだのです。

東京はすっかり変わっていました。京浜間に電線が通じ、郵便が始まるというありさまです。明治五年(1872年)には湯島の聖堂跡で博覧会が開かれ、フランスの名家の油絵が三枚出品されました。

油絵はすでに数年前、容堂が二枚を買い入れたときに内々に見て、その描写の巧みさに魅せられていました。いま改めて油絵を目にして、彼はもう矢も盾もたまらず、これを学ぼうと心を決めます。幸い知人に川上冬崖(かわかみ とうがい)という人がいました。日本画の心得があるうえ、かつて開成所(かいせいじょ:幕府の洋学研究機関)で油絵を教えたこともある人です。さっそく頼み込んで手ほどきを受けました。けれどもこの先生は、洋書を拾い読みして油絵の描き方をかじった程度にすぎません。

そのころ、横浜にイギリス人のワーグマンという人がいると聞いて出かけましたが、なかなか入門を許してくれません。仕方なく、ヨーロッパから帰ってきたばかりの国沢新九郎(くにさわ しんくろう)という人について教えを受けました。

 

※注:ワーグマンはイギリス人の画家・漫画家チャールズ・ワーグマンで、横浜に住んで高橋由一や五姓田義松らに油絵を教えました。国沢新九郎は土佐藩出身の洋画家で、ロンドンで油絵を学んで明治七年に帰国し、画塾「彰技堂」を開いた人です。

 

しかし一方で、藩の扶持を離れた身です。暮らしの糧を得なければなりません。明治七年(1874年)、月給二十円で正院(せいいん:当時の政府の最高機関)の地誌課に勤め、かたわら油絵の研究を続けました。けれども勤めの片手間では、どうにも修業になりません。ついに意を決して職を辞し、貧しさと闘いながら油絵の技を磨きました。その努力の結果、当時の油絵の画家として、五姓田義松(ごせだ よしまつ)、高橋由一(たかはし ゆいち)、荒木寛畝と、三本の指に数えられるまでになったのです。

 

※注:底本は「五姓田芳松、高田由一」と印刷していますが、明治初期を代表する洋画家の五姓田義松と高橋由一のことです。

 

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再び日本画へ

 

油絵の研究に注いだ努力と苦心は、並大抵ではありませんでした。もともと寛畝は、片桐桐隠(かたぎり どうおん)の日本画の流れを受け継いだ人です。油絵さえ学ばなければ、ここまで身を削らずにすんだだろうに——そう悔やまれることさえありました。

そこへ、内田正雄(うちだ まさお:幕臣出身の官僚・洋学者)という人から伝言があり、まじめな忠告が届きます。近ごろたいへん油絵に苦心しておられるそうだが、幼いころから丹精してきた日本画のために力を尽くし、なぜ一筋に日本の芸術本来の姿を見極めてくださらないのか——という趣旨でした。

寛畝の心も、すでにそちらへ十分に動いていた矢先でした。こうして明治十三年(1880年)、第二回絵画共進会(かいがきょうしんかい)の開催を機に、彼は日本画家としての旗色をはっきりさせます。その画風には、和漢古今の筆法に洋画の味を加えた独自の境地が、からりと開けたのです。

 

※注:農商務省が主催した内国絵画共進会は、第一回が明治十五年(1882年)、第二回が明治十七年(1884年)で、底本の「明治十三年」とは年が合いません。

 

宮内省からは何度も御用を命じられ、三条実美(さんじょう さねとみ)公の知遇も得て、数多くの大作を残しました。金屏風に桜と紅葉の絵を頼まれたときには、完成を待たずに三条公が薨去(こうきょ:身分の高い人が亡くなること)します。寛畝は公の墓前に行って泣いたそうです。画塾「読画会(どくがかい)」の名も、三条公の揮毫(きごう:書を書くこと)にちなんで選ばれたものでした。

こうして多くの門下を育てるかたわら、華族女学校や女子師範学校などで日本画を教え、日本画の普及と美術の考えを広めることに力を注ぎました。明治三十一年(1898年)には東京美術学校の教授に任じられ、帝室技芸員にも挙げられています。大正四年(1915年)六月二日に亡くなりました。八十五歳でした。

 

※注:底本は帝室技芸員を「同二十三年」と記していますが、寛畝が帝室技芸員に任命されたのは明治三十三年(1900年)です。また、東京美術学校の教授には明治三十一年に就任しました。門下からは荒木十畝(あらき じっぽ)らが出ています。

 

 

荒木寛畝の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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