PR

大杉栄の生涯|権力に抗い、自由を求めたアナーキズムの巨頭

大杉栄の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
記事内に広告が含まれています

「僕は監獄で出来上がった人間だ」

三十九年の短い生涯に八回牢に入り、入るたびに一つの外国語を独習して、仏、英、スペイン、イタリア、ロシア、ドイツ語とエスペラントを自由に読み書きできるようになった人。「鬼大杉」と呼ばれた陸軍少佐の子で、幼年学校を「放恣、乱暴にして規律に服せず」と退校になり、日露戦争の最中に非戦論の平民社の玄関に金ボタンの制服で現れた青年。大杉栄(おおすぎ さかえ)の生涯です。

 

※ 底本の『日本英雄伝』では、大杉の思想を指す語が二か所とも空白になっています。当時の伏字とみられ、この記事では「アナーキズム(無政府主義)」と補っています。

 

不肖の子

大杉栄は誰でも知っているように、明治大正にわたって存在していたアナーキズムの巨頭です。元来アナーキズムそのものは一種の過渡的な思想であって、世界観としても方法論としてもはなはだ科学的な緻密さを欠いたものであるが、しかし一つの思想が生まれるためには必ず社会的な要因があり、そしてそれは何らかの意味をもたらすものである、と底本は説明しています。大杉栄(1885〜1923年)の存在の意義も、人類の正しい発展のための何らかの示唆を歴史のなかに求めようとする態度によってはじめてよくくみ取ることができるでしょう。したがってここでは冷静に、ただ歴史的事実を追っていくことにします。

日露開戦の危機が迫ってきた明治三十六年(1903年)のころから、西川光二郎、堺利彦らの組織した平民社一派の社会主義者は、盛んに非戦論を唱えはじめました。当時、日本国民の戦争熱は最高潮に達した時期で、「討て、懲らせや」の国民的感情が沸騰している最中でしたから、この際における非戦論は実に大きな刺激を国民に与えました。当時日本は維新後すでに四半世紀を経過し、そのあいだにおける政府のあらゆる産業奨励はようやく産業の躍進的発達をうながし、各種の企業は盛んに行われるに至りましたが、しかしながら日本の産業の発達はその一段階ごとに常に大きな障害にぶつかった。それは工業原料と商品販売の市場がこの国内にないことである。銅と生糸のほかには日本には十分の原料が一つもない。だから産業が発展すればするほど原料に窮し、同時にまた日本人口の大部分を占める農民の貧困のために商品の売れ口に困難してくるわけである。それだからこの障害の克服のためには、工業原料とともに工業生産品の販売市場が獲得されねばならなかった。ここに日露戦争は誘発された。底本はこう説明しています。だがまたこの産業の発達とともに農民は続々と工場労働者として都市に集中し来り、物価は騰貴し、その必然の結果として各種の労働争議が勃発し、社会主義思想もしだいに台頭してきたので、ここにまた非戦論を唱える人々も出現したわけです。いよいよ戦争となると、三十七年三月十三日の『平民新聞』紙上には「露国社会党に与うる書」が掲載され、これに応じてロシアではその巨頭が『イスクラ』紙上で答える。また八月十四日のアムステルダムの国際社会党大会では日本代表とロシア代表プレハーノフが握手するなど、彼らの活動もますます活発になりました。

そのころ平民社に出入りしはじめた一青年がありました。彼は東京外国語学校の学生で、まだ二十歳くらいでしたが、毎日学校の帰り道に金ボタンの制服のままやって来ては、いろいろと雑務を手伝っていきました。彼は当時、後備歩兵第十六連隊の大隊長として旅順攻囲軍において奮戦していた陸軍少佐大杉東の息子、栄でした。大杉少佐は豪勇無双をもって聞こえ、そのころ「鬼大杉」の勇名がしきりにうたわれている最中でしたから、その息子ともあろう者がなぜ全国にみなぎる主戦論、軍国主義思想のなかにあって孤立無援の非戦論の陣営に身を投じたのか、彼はたちまち人々に注目されました。だが背高く、立派な体格をしたこの青年は、その大きな印象的な眼にいかにも自信ありげな微笑を漂わせながら、軍隊式のしっかりした歩調で毎日平民社の玄関に現れました。

大杉栄の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

流れに抗して

彼はつい最近まで名古屋幼年学校にいたのでした。だが父の鬼少佐から豪胆勝ち気な気象を受け継いだ彼は、学術においてもクラスの首位を占めていましたが、同時に腕白なことにおいてもクラスのトップで、「放恣、乱暴にして、規律に服せず」常に上官に反抗するというので、退校処分を受けたのです。しかし退校処分には彼は大いに閉口しました。陸軍大将の夢が一挙に破れてしまいました。そこで彼はさんざん考えた揚げ句、外国語学校に入学したのです。なぜなら、そこを卒業する時分に同期生の連中はようやく士官学校に入ってくることになる。そこで陸軍の教官になったなら、たとえ陸軍大将にならなくても同期の連中に「教官殿!」と言わせて大いに威張ってやることができると思いついたからです。だが幸か不幸か、彼は中途からその考えを変更してしまいました。それは有名な足尾鉱毒事件の大示威運動を目撃して、社会問題に対して興味を持ちはじめたからです。それ以来彼は手に入るかぎりの社会問題の書物を読みふけり、ついに平民社に出入りするようになったのです。平民社の連中はまもなく彼のフランス語が非常に確かなことや、英語も相当なものであることを知りました。そして明治三十九年に外国語学校を卒業するころには、まだ二十二歳の若さで、すでに有名な活動家の一人になっていました。幸徳秋水は常に彼の学才を賞賛して、「大杉君と話していると、まるで同年輩の友人と話しているような気がする」と言っていました。それほど彼は若くして成熟していたのでした。

大杉は「僕は監獄で出来上がった人間だ」と言っていました。三十九年の短い生涯に彼は八回も入獄しました。そして一回入獄するたびに獄中で一か国語を自修し、最後には仏、英、スペイン、イタリア、ロシア、ドイツ、およびエスペラントを自由に読み、書き、語りうるようになったといいます。だが彼が「僕は監獄で出来上がった人間だ」と言ったのは、語学のことを言っているのではありません。それは彼の人間がそこで練磨されたという意味です。彼の幾回もの入獄はいずれも、事件そのものとしては取るに足りない小事件であって、官憲に対する反抗とか街頭における騒擾とかが主で、外見から見れば街の暴漢の検挙される場合と大した変わりはありませんでした。だが彼に言わせれば、このことが大いに意義があったのです。なぜなら、過去数百年来わが国民の心身を身動きすることもできないほどに圧迫し、「泣く子と地頭には勝たれないのだ」というような卑屈な官尊民卑の思想を深く植えつけた封建的抑圧に対する、それは個人の自由の主張としてなされたものだったからです。明治になってからも官僚政府が続き、この官尊民卑の思想は依然としてわが国民の日常生活を支配してきました。それゆえ大杉栄は「権力に対する一個人の反抗」を強調し、日常的に、かかる直接間接の圧迫に対して即座にちゅうちょなく反抗したのでした。彼はこの反抗を一般の風俗に対してまで押し進め、筒袖の着物を着、トルコ帽をかぶり、この異様な姿で演壇に立って卓に腰かけ、煙草をすぱすぱやりながら演説するというようなこともやりました。児戯に類するようですが、これも「個人的反抗」の生きた見本であり、つまり宣伝だったのです。政治的自由を要求する大衆運動がいまだ形成されなかった当時ですから、鬼少佐の子、幼年学校の不良児大杉栄の、このように「放恣、乱暴にして、規律に服せぬ」ところの個人の絶対自由の主張も一つの意義を持たないでもありませんでした。

大杉栄の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

労働運動に乗り出してから

大杉はこの極端な個人主義の主張を労働運動と結びつけ、それによって個人主義をも労働運動をも強化させようとしました。だがこれは一つの矛盾でした。明治四十四年(1911年)、いわゆる「大逆事件」が起こってから社会主義運動は一時まったく跡を絶ちましたが、当時「赤旗事件」で入獄中であった大杉はそのためにこの事件からのがれ、出獄すると彼はただちに『近代思想』と題する一雑誌を発刊しました。

 

※ 底本は出獄を「大正元年」としていますが、大杉が赤旗事件の刑を終えて出獄したのは明治四十三年(1910年)十一月で、『近代思想』の創刊は大正元年(1912年)十月です。

 

かかる圧迫の激しい時代にあえてこの雑誌を発刊したということも、彼の反抗的性格の一つの表れでした。その後『近代思想』を廃刊し、彼はいよいよ労働運動に乗り出し、月刊『労働運動』を発行して、日本の左翼的労働運動を指導しました。左翼の労働運動はしだいに発展するとともに二派に分かれ、一方は依然として彼の指導下にあって個人主義的左翼主義の傾向をたどりましたが、一方はマルクス主義の傾向を帯びるに至りました。やがてこの両派はたがいに猛烈な論陣を敷いて激しく闘争しましたが、大杉は、結局この両派は共同して右翼の労働運動に対立しつつ発展していくべきだとの見解から、『労働運動』の同人に伊井敬、高津正道らのマルクス主義者を加え、これを週刊新聞に発展させました。大正九年(1920年)に国際的団体の招きに応じ、極東社会主義者の国際的連盟を組織するため上海に渡ったのも、かかる見解からでした。だがまもなくこの二派は完全に分裂せざるをえませんでした。そして彼は日に日に凋落していく自派の陣営に、最後まで立っていました。

彼がベルリンに開かれるはずであった国際アナーキスト大会に参加しようとひそかに日本を脱出したのは、大正十一年(1922年)十二月でした。

 

※ 底本は「大正十一年二月」としていますが、大杉が偽名の旅券で日本を発ったのは大正十一年十二月で、翌年二月にフランスに着いています。

 

だが十二年、パリ郊外で開催されたメーデーの集会で演説したためにフランス官憲に捕らえられ、日本に追放されて、この大会にはついに出席できませんでした。そして日本に帰るとまもなく大震災となり、妻の伊藤野枝、甥橘宗一とともに、九月十六日、悲壮な最期をとげたことは、人のよく知るところです。

 

※ 底本は死の経緯にふれていませんが、大杉と伊藤野枝、当時六歳の甥橘宗一は関東大震災の混乱のなか、憲兵大尉甘粕正彦らに連行されて殺害されました(甘粕事件)。大杉は三十八歳でした。

 

彼の死後、『大杉栄全集』が刊行されました。彼には労働問題、思想問題に関する論文、時評のほか、小説、随筆も少なくありません。また無数の翻訳があります。翻訳としてはダーウィンの『種の起原』、ファーブルの『昆虫記』その他自然科学書が多く、これらはわが国における科学思想普及のためには大きな貢献をしました。彼はまたその人間的な深さと性格的な線の太さ、そしてその鋭い理智と情熱とをもって人々を畏怖させ、また愛敬されていて、彼を知るほどの者は彼から受ける圧倒的な印象を忘れませんでした。

鬼大杉の子は、陸軍大将の夢を捨てて、権力に逆らうことを一生の仕事にしました。トルコ帽で演説し、牢で七つの言葉を覚え、『昆虫記』を訳し、震災の闇のなかで妻と六歳の甥とともに殺されました。底本はその思想を伏字にしています。伏字にしなければならなかったことのなかに、この人の生涯の意味があるのかもしれません。

 

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

タイトルとURLをコピーしました