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大塩平八郎の生涯|飢饉に苦しむ民衆のために決起した天満与力の正義

大塩平八郎の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「しかしながら民あっての将軍家で、将軍家あっての民ではござりますまい。今、目の前に民は飢え……」

「ぶ、無礼きわまる今の一言、二度と申さば、捨て置かんぞ!」

天保の大飢饉のさなか、幕府の米蔵を開けと迫った元与力は、奉行にそう追い返されました。最後の策として富豪に六万両の借り入れを頼んでも、奉行の干渉で蹴られました。蔵書をすべて売って窮民に分け、天保八年(1837年)二月、彼は「救民」の旗を掲げて大坂の町に火を放ちます。大塩平八郎(おおしお へいはちろう)の生涯です。

 

暗黒世界

徳川幕府の政治は乱れに乱れ、財政は窮迫し、官吏の私曲、武士の堕落ははなはだしく、窮乏した農民は各地に蜂起し、封建制度の矛盾は極点に達していました。武士階級は内部から腐れ朽ちはじめ、町人階級がようやく跋扈しようとしてきた転換期。そうしたただなかの文化三年(1806年)、大塩平八郎ははじめて大坂天満与力見習として役所に出仕しました。寛政五年(1793年)一月二十二日に生まれた平八郎は、そのころはまだ十四歳にすぎませんでしたが、父平八郎敬高が七歳のときに亡くなったので、代々天満与力で表高二百石を領していた関係上、早くから見習に出仕したのでした。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は生まれた日を「二月二十二日」としていますが、通説では寛政五年一月二十二日です。

 

出仕してまもなく、彼の若い純な胸をむしばみはじめたものは、一つの暗い疑惑でした。「これでいいのかしら」。周囲に見る諸役人たちは、寄れば出世の手づるつかみか金儲けの話、できうるかぎり狡く利口に立ち回る方策ばかりを練っていました。しかも彼らは傲然と反り返りつつ、恐怖に度を失っている庶民たちを裁くのです。はたして彼らに人を裁く資格があるだろうか。そう考えると、平八郎自身限りない不安に襲われるのでした。そこで彼は深く自ら戒めて、勉学と真理の探求と人格完成にひたすら励むようになりました。こうして二十五、六歳に達したころには、中島流の砲術をよくし、佐分利流の槍術をきわめ、ことに学は陽明学をきわめ、人物見識ともに抜群の風格に大成していました。さればこそ文政三年(1820年)、近藤重蔵が大坂の弓奉行に赴任してくるとただちに平八郎と親交を結び、ついで高井山城守が東町奉行の任に就くと、一目で平八郎の人物を見こんで吟味役という枢要の地位に抜擢したのです。ときに平八郎二十八歳でした。

 

※ 底本は高井の就任を近藤の「翌年」としていますが、高井実徳が大坂東町奉行となったのは文政三年で、平八郎二十八歳という年齢ともそれで合います。

 

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辣腕

山城守の知遇にしばし気を静めていた平八郎も、不当な権勢、情実の圧迫を座視するに堪えず、当時の暗黒社会に巣くう邪悪不正に対して、断固として辣腕を振るうことになりました。文政十年(1827年)、京都の八坂に豊国神なる祈祷所を設けて怪しげな女弟子、医者、還俗坊主、浪人者などを配下として、京阪から播州地方に奇怪な邪宗を広めていた豊田貢という女が、平八郎の網に引っかかりました。これは貴族や大官にも関係あるところから、京都町奉行所で容易に手出しできないでいたものでした。平八郎は三か月のあいだにその一味を根こそぎ捕らえ、さしもの邪教もついえ去りました。またそのころ、西組与力に弓削新右衛門という奸物がいて、時の奉行の内藤隼人正に取り入り、吟味役の職権を悪用し、配下の無頼漢と気脈を通じつつ、新町遊廓の楼主らと結託して、良民を苦しめ私腹を肥やしていました。この暴状を見て平八郎は、奉行所にわだかまる罪悪の巣窟に十手を突きこみました。その検察まさに疾風迅雷のごとく、無頼の役人どもは磔刑に処せられ、弓削は切腹となりました。平八郎の各方面における功績は、市民の大きな感謝となり、また高井山城守からの破格の待遇となりました。けれども彼は絶えず辞意を抱いていました。彼の身には年久しく病む肺患があり、権力と情実との絡み合った煩瑣な公職にあることは彼の鋭い良心が許さず、またじっと世相を眺め渡していた心には、ほかになすべきことがありました。天保元年(1830年)、彼は山城守が老齢のため幕府に辞職願を出した際、自らも迫ってすっぱり辞職してしまいました。これより彼は在野の高士として、おのれの塾たる洗心洞に隠れ、もっぱら育英の事業に心身を傾注することになったのです。

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天保の大飢饉

しかし三十八歳をもって官を退いた平八郎には、決して安閑たる月日は許されていませんでした。彼の塾に集まる塾生ならびに通学生、そしてこのあいだ精魂こめてなしていた著述の仕事があり、加えるに、このころ大坂へ転じてきた奉行矢部駿河守の招聘にも時を割かなければなりませんでした。駿河守は早くから平八郎の名声を耳にしていたので、大坂に赴任してくるとまずその子を洗心洞に入門させ、平八郎を客分に待遇して何かと政治上の意見を聴いたのでした。当時、文政末からの不作続きに加えて、そのころまたもや暴風雨の襲来があり、米価は十五、六倍にも騰貴し、飢えを訴える声がようやく四方に満ちはじめました。が、駿河守が幕府に建言して八方奔走の結果、窮民への賑恤(しんじゅつ:施し)をはかったので、大坂は比較的平穏を保ち、平八郎もやっと胸をさすりつつ、このあいだ『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』などの著作に従事することができました。しかるに天保七年(1836年)、二月のころから霖雨しとしとと降り続き、五、六月ごろというに冬の冷気を帯び、さらに七月に入って全国的大暴風雨となりました。稲も麦・稗も生い立たず、田園は荒涼として濡れ腐り、ついにかの天保の大飢饉となったのです。折も折、名奉行矢部駿河守は勘定奉行として江戸に去ってしまい、その代わりに来たのが、底本が「愚昧劣悪な政治屋」と呼ぶ跡部山城守でした。

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天下の苦悩は我が苦悩

「治国平天下の道は、王陽明先生のいわゆる、人は天地の心、天地万物はみな我と一体なりという真の理を悟り、ただちにそれを行うことだ。天地万物、すでに我と一体なれば、天下の人民の苦しみ悩みは、すなわち我が身内の疼きだ、痛みだ。しかるに見よ、現時当路の役人輩を。民の患いをおのれの患いとせねばならぬ身が、利欲に迷い、町人どもから賄賂をむさぼっては彼らの暴利をほしいままにするを見逃し、正直な民百姓の苦悩はまるでどこに風が吹くかとの顔つきではないか。今や天災打ち続き、前代未聞の大飢饉となって、飢えて死したる者の屍、累々と道に横たわる。この悲惨な状態を前にして、彼らはそも何をしているか!」

洗心洞講堂で多くの門下生に対して時世を憤り、窮民をあわれむ熱情を炎のごとくほとばしらせているのは、新奉行跡部山城守の失政に対して悲憤慷慨やるかたない平八郎でした。彼はおのれの跡を継いで奉行所に出仕している養子格之助を通じ、再三奉行に献策しましたが、用いられるところとならないのみか、奉行は極端な積み出し制限令を発して京・伏見行きの米を阻止させ、あまつさえ餓鬼のごとくよろめきながら大坂に米を求めて忍びこんだ京・伏見の民を片端から捕縛し、そのうえ袖の下に丸められて、奸商どもが米を買い占め米価を釣り上げることを黙許していました。ために餓死するもの十幾万と底本は記しています。この惨状を眼前に眺めつつも、幕府の鼻息をうかがい、おのれの利害のみに汲々たる奉行は、なお江戸へはどしどし廻米していたのです。ついにこらえきれなくなった平八郎は、自ら奉行宅に乗りこんでいき、

「お上の米蔵の開放をお願いいたしたい」

と迫りました。が、奉行は冷笑して突っぱねるのでした。

「与力の隠居のその方が申し出る幕とは違うわい」

「しかし幾十万の者が飢え凍えて死のうとしているこの場合、御邸内の米蔵には米俵が山と積まれておりますのに……」

「黙れ。あれこそは明春、御代替わりに際し、西の丸様の将軍家にお立ちあそばす御式典あるにつき、その準備御用金充当としてお蓄えあるものなるぞ」

「しかしながら民あっての将軍家で、将軍家あっての民ではござりますまい。今、目の前に民は飢え……」

「ぶ、無礼きわまる今の一言、二度と申さば、捨て置かんぞ!」

無念の涙に頬を満たしながら奉行宅を出た平八郎は、最後の一策として、おのれ自身および同志、門弟らの俸禄を担保として、鴻池その他の富豪に対し救恤金六万両の借り入れを申しこみました。彼がこの用件で鴻池家を訪れたときも、さすがに平八郎らしく、自ら握り飯を持っていっていて、先方のご馳走を断ったといいます。しかしこの最後の一策もまたもや跡部山城守の干渉によって、むなしく蹴飛ばされるところとなったのです。

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刀をとって蹶起

こうして平八郎は、たくさんあったおのれの蔵書の全部を売却してその代金六百五十両を三十三か町村の窮民に分け与え、天保八年(1837年)二月十八日、檄を近畿の地に伝え、同志を糾合して奮い起ちました。

「不義の俗吏を誅戮し、不正の遊民を打ち懲らすのだ。財宝はすべてこれ天下のものだ。今こそ我らが天の奉行! 一同用意せい!」

こうして十九日未明、東照公を祀った建国寺砲撃にはじまり、天満一帯に火を放った大塩勢は、追々集まって彼らを助ける民衆とともに船場のほうに進んで、鴻池家をはじめ三井、島屋などを襲いました。跡部山城守らはひそかに天神橋を切って落として城を防いだまま傍観の体でしたが、城兵の出動とともにようやく接戦しはじめました。夜に入るころ、大塩勢も衆寡敵せずしてついに潰散し、平八郎父子は行方を不明にしました。それより一か月後の三月二十七日、彼らは油掛町美吉屋五郎兵衛方にひそんでいましたが、捕吏の囲むところとなり、平八郎は格之助とともに自ら命を絶ち、四十五歳をもって散りました。

 

※ 底本は「格之助を刺して自刃し」と書いていますが、通説では隠れ家に火を放ち、火薬を用いて父子ともに自決したとされます。

 

「これでいいのか」と十四歳で疑った与力の子は、邪教と奸吏を疾風のように裁き、四十五歳で蔵書を売り、米蔵を開けと言って追い返され、町に火をつけました。乱は一日で潰れました。けれども「天下の人民の苦しみは我が身の痛みだ」と言った人の名は、飢えた人々のあいだに百年残ったのです。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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