明治九年(1876年)、東京の教部省(きょうぶしょう:明治初年に宗教をつかさどった役所)。一人の僧が、大輔(たいふ:次官)の宍戸璣(ししど たまき)と大丞の三島通庸(みちつね)に会って、こう言い切りました。
「われらの奉ずるところは、宗祖・日蓮の正統である。水の源のようなものだ。それを『一致派』などと呼ぶべきではない。『日蓮宗』の名をきちんと立てるべきである」
法華の流派を一つにまとめ、「日蓮宗」という大きな看板を公認させたい。この願いに対して、世の中は賛否で騒然としていました。流派のなかには反対する者もあり、教部省の役人もそれに引きずられて、なかなか決まりません。しかし僧は一歩も譲りませんでした。役人が譲らないなら太政大臣に直接申し上げる、と腹の内を明かしたのです。二人はついに、これを許可しました。
新居日薩(あらい にっさつ)。明治の日蓮宗の第一世管長となった人でした。
明治日蓮宗の鼻祖
新居日薩は明治の日蓮宗の鼻祖(びそ:始祖)である——そう言っても言い過ぎではありません。生涯をかけた数えきれない宗門の仕事のなかでも、とりわけ彼の名を不朽にしたものがあります。宗門のなかで派閥がしのぎを削っていた時代に、その大多数をまとめ上げ、宗祖・日蓮の名にちなんで初めて「日蓮宗」という看板を掲げ、みずからその第一世管長になったことです。これは誰にも奪えない事実でしょう。
しかも彼は、自分の流派のなかで傑出していただけではありません。他の宗派とよく交わりました。浄土宗の福田行誡(ふくだ ぎょうかい)、曹洞宗の大内青巒(おおうち せいらん)、律宗の釈雲照(しゃく うんしょう)らと親しく、彼らと力を合わせて明治維新の廃仏毀釈の嵐に立ち向かい、仏の教えを長く世に留めるための大きな方策を立てた、明治仏教再建の中心人物だったのです。明治初年、宗派を超えた仏教の運動で、彼の名が出てこないものはありません。内をまとめ、外と手を結ぶ。どこへ向けても役に立つ、まことに得がたい人でした。

出家の動機
日薩は天保五年(1834年)、上野国桐生(現在の群馬県桐生市)に生まれました。幼名は林之助。父は宗右衛門、母は「せい」といいます。家は代々、幟(のぼり)を作る幟屋で、宗旨は浄土宗の慈恩寺に属していました。そんな他宗の家から法華経の傑出した僧・日薩が出るには、不思議な縁があったのです。
桐生という土地は、もともと法華にはまったく縁がありませんでした。「四方三、四里のあいだに、法会を営める寺は一つもない」と言われたほどです。そんな土地に、どうやって仏の種が植えられたのでしょうか。新居家の門を初めて訪れた妙法蓮華経は、越路(こしじ:北陸)の山を越えてやって来た「千箇寺(せんがじ)」という行者だったといいます。林之助の祖父・善右衛門は、子や孫が次々に病で亡くなる不幸に遭い、悲しみに沈んでいました。その寂しい心と、気高い力への憧れとが、この風のような旅の行者と、解きがたい縁を結んだのです。ただし当時、改宗は法度(はっと:禁止)でした。そこで次の孫・吉兵衛の代になってから、家は法華に変わります。日薩はその五番目の弟にあたります。善右衛門の長男・宗右衛門——日薩の父——が亡くなると同時に、彼は先祖の遺志を継いで法華の僧になりました。林之助九歳、嘉永元年(1848年)のことです。
さて、そうはいっても四方三、四里に寺は一つもありません。どこへ身を寄せたものかと思い悩んでいるところへ、秩父の山を越えて、大車院日軌(にっき)の教えが遠くこの地まで届きました。日軌は林之助を弟子として迎えます。林之助は文嘉という法号を授かり、十一歳のころ、師の日軌とともに江戸牛込の善国寺に移り住みました。

修学と化導期
そのころ、法華の僧の修行の道筋といえば、所属の檀林(だんりん:宗門の学問所)をめぐるだけでした。そこで宗門の学閥は、彼を下総の飯高や中村の学林に学ばせます。しかし当時の宗門の学風はゆるみきっていて、学僧・文嘉を感心させるものは何もありませんでした。ただ一人、加賀の優陀那院日輝(にっき)の新しい宗学だけが、彼の学ぶ心を刺激します。彼は遠く北陸の加賀の城下へ出向き、日輝の開く塾に入って学びました。塾の仲間には、三村日修、吉川日鑑、林日昇など、のちに日蓮教団の中核となる人物がいます。そのなかで文嘉は、その才を塾頭に愛され、二十二歳のころには早くも師の代わりに講義をしていました。
のちに公職で忙しいさなかにも学業を離れず、宗学を講じ、容月と号して詩文を作り、学と徳を兼ね備えた風格をたたえたのも、日輝の感化でした。とりわけ彼は、師の教えを後世に伝えることを第一とし、あえて自分の説を立てようとしないのを信条とします。著述がほとんど無いのは、多くはこの師への謙虚さのためでした。しかも一篇の文章を書くときでさえ、必ず「和上曰く」と師の言葉を添えることを忘れません。この塾を終え、名高い別れの詩「首を回らせば加陽の城、春天風雨急なり」を吟じながら江戸へ帰ったのは、安政三年(1856年)、二十五歳のときでした。
それから彼が見出され、抜きん出て、宗門と仏門の浮沈を一身に背負うまでには、あちこちを転々としながら人々を教え導く時期がありました。あるときは越後柏崎の本行寺の住職に。あるときは新しい都・東京の小石川白山にある蓮久寺の住職に。あるいは牛込の善国寺で師・日軌の跡を継ぐ、というふうに。しかしどこへ行っても、僧俗を問わず広く教学を講じることを忘れませんでした。遠く飯高檀林に請われて能化(のうけ:学頭)となったこともあれば、善国寺を辞して池上の南新谷檀林で教えるために妙教庵の主となったこともあります。行いも学問も教え導く力も高かったので、東京での彼の存在は、しだいに世の注目を集めるようになりました。
池上にいたころ、西洋人のフルベッキが『夢醒新論』を著して仏教を打ち破ろうとしました。彼は立ち上がり、各宗の先覚者たちと芝の増上寺に集まって、反論の先陣を引き受けます。彼が新しい都の中央の舞台に姿を見せ始めたのは、まさに明治四年(1871年)のころ。明けて五年、教部省が彼に出仕を促した、その前の年でした。

大教院時代と宗門統一
明治の宗教行政は、廃仏毀釈のあとを受けて、教部省が仏教の各派を統制するものになっていました。しかもそれは、神道の精神による宗門支配です。日薩自身がのちに振り返って書いています。明治五年、政府は教部省を開いて教則三条を立て、これを教え導くうえの決まりとし、教導職を設けて広く神官・僧侶を募ったが、みな尻込みして進んで応じる者がなかった、と。宗門の僧侶がどれほど官僚の顔色におびえていたか、想像に難くありません。
その教則三条とは、一、敬神愛国の旨を体すべきこと。二、天理人道を明らかにすべきこと。三、皇上を奉戴し朝旨を遵守せしむべきこと。教導職である以上、これが常の決まりでなければなりませんでした。どんな法門・教義も、すべてこの物差しで測られたのです。御一新の政治は「神ながらの大道に帰する」ことにありました。仏法が国体と相容れるかどうかを口頭で問いただす試験場が芝の増上寺に設けられ、日薩も一度は、学友の日鑑とともに身延山の法主・日健に従って、宗義改めの壇上に立たされたことがあります。
ここまで来て、彼は一宗の期待を背負って教部省に出仕することになりました。すると彼は、むしろ教部省の重役——大輔の宍戸璣、大丞の三島通庸、藤村紫朗ら——と手を組む策に出ます。みずから進んで神仏合同の大教院を設立することを役所に申し出て認められ、浄土宗の福田行誡とともにその教頭になりました。外の学問が内の道を補うのはよいことだ、と考えていたのです。このころ、僧の増隆が著した『中臣祓撮要(なかとみのはらえさつよう)』に序文を書くなど、神道の研究にも励みました。同門の観照院日慈や玉沢の日喜らも、次々に教導職の試験場で弁舌をふるうようになります。日薩の誠意と勤勉さは、省の当局を動かすのに十分でした。彼の志はここで通り、以後、公職も聖職も追い風に帆をあげた船のように順調に進みます。明治七年(1874年)五月、わずか四十五歳で宗門最高の聖職、身延山久遠寺第七十三世の法燈を継いだのも、教部省大輔以下の推薦によるものでした。
では、その前の「日蓮宗」の宗号をめぐる争いは、どうだったのでしょうか。彼が率いる法華の諸派をまとめて「日蓮宗」という大旗のもとに公認させようと図ったとき、冒頭に記したとおり、世の中は賛否で騒然としていました。諸派のなかには本勝迹劣(ほんしょうしゃくれつ)を唱える人々や富士門流の一部など、容易に従わない者がいます。とりわけ妙満寺派の児玉日容は、この宗号に異議を唱えて教部省に陳情しました。役人もそれに引きずられ、なかなか決まりません。しかし日薩が教部省に乗り込んで一歩も譲らなかったことで、宍戸と三島の二人は、ついにこれを許可したのです。日薩が明治の日蓮宗を創業する、劇的な場面でした。宗門統一の糸口は、ここに開かれます。明治九年、彼が新しい日蓮宗の初代管長であることが、いよいよはっきりしたのです。

管長の忙しい職に就くと、彼は身延の法を継ぐことを学友の吉川日鑑に委ね、いよいよ宗門の内を固める仕事に打ち込みました。教団をまとめるにあたっては、諸本山が封建的にばらばらに割拠している弊害を一掃し、腹心の同輩を中央から派遣します。本国寺の日修、本門寺の日昇、妙顕寺の日済、身延の日鑑らです。いずれも旧来の法縁や学閥の関係を断ち切り、中央集権の実をあげました。したがって古い檀林制度は廃し、明治八年五月、芝二本榎の宗教院を改めて大教院とし、一宗の最高学府としてみずからその長になります。これが宗教大学の始まりです。諸国には中教院・小教院を設けて、教学の普及を図りました。明治十七年、二度目の管長のときには、大教院を大檀林と改称して人材の育成に努めています。
門内の教育を改めただけではありません。彼は広く時代の情勢を見て、「外の学が内の道を補う」という立場から、広く仏教界と相談して高等普通学校を起こしました。当代の名だたる学者を招いて、現代的な学園を開き、全国十二区の中教院から秀才を一名ずつ選んでここへ送り、宗門の費用で近代の学問を学ばせる道を開いたのです。明治十八年、島田蕃根らに『縮刷一切経』を編ませたことも、彼がいかに明治仏教の柱であったかを物語っています。
さらに彼は、性格は剛毅でしたが、温かい人でもありました。白山の蓮久寺にいたころ、上野の彰義隊の一人の勇士の遺児を引き取って育て上げ、のちに新聞の主筆となる人を世に送り出しています。この心はさらに晩年に熟しました。明治十二年(1879年)一月、今川貞山、大内青巒ら他宗の人々や広く名の知れた人々と相談して、福田会(ふくでんかい)育児院を創立します。初代と三代の会長に推され、本郷切通しの麟祥院に孤児四十名を初めて収容して以来、その事業は今日まで続いています。彼はまた、明治仏教の社会事業の鼻祖と呼ぶべき人でもあるのです。晩年は池上本門寺に住み、そこで倒れました。まだ惜しまれる五十九歳。明治二十一年(1888年)八月二十九日でした。文明院日薩聖人の墓は、今、本門寺の境内に苔むしています。



