明治日蓮宗の鼻祖
新居日薩(あらい にっさつ)は、明治時代における日蓮宗の「鼻祖(びそ:最初の創始者)」と言っても過言ではありません。
彼が生涯をかけて成し遂げた数え切れないほどの宗教的功績の中でも、特に彼の名前を永遠のものにしているのは、「日蓮宗」という大きな看板を初めて掲げ、自らその初代管長(トップ)になったという歴史的な大事業です。当時は、宗派内の派閥争いや学閥が激しい時代でしたが、彼は見事にその絶対多数をまとめ上げました。これは誰にも奪うことのできない偉大な事実でしょう。
彼は自分の宗派の傑物であっただけでなく、他の宗派の優れた人物たちとも積極的に交流しました。例えば、浄土宗の福田行誠(ふくだ ぎょうじょう)、曹洞宗の大内青巒(おおうち せいらん)、律宗の釈雲照(しゃく うんしょう)などと親しく交わりました。彼らと協力し合い、明治維新直後に起きた「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏教を弾圧し寺を破壊する運動)」に対抗し、仏教を守り抜くための大きな計画を立てた、明治仏教再建の中心人物でした。明治初年の仏教統一運動において、彼の名前を外すことは絶対にできません。
内には自分の宗派を統一し、外には他の宗派と協力して仏教界をまとめるという、まさにどこにおいても力を発揮する最高の逸材でした。

出家の動機
彼は1834年(天保5年)、上野国桐生(現在の群馬県桐生市)で生まれました。幼名は林之助(りんのすけ)といい、父は宗右衛門、母はせいという名前でした。家は代々「幟屋(のぼりや:のぼり旗を作る仕事)」を営んでおり、代々浄土宗の慈恩寺というお寺に属していました。
そんな法華経(日蓮宗)とは違う宗派の家から、のちに法華経の偉大な僧侶である日薩が誕生したのには、不思議な縁があったのです。
当時の桐生という土地は、法華経には全く縁がなく「四方三、四里の間(周囲十数キロ)に、法華経のお経をあげるお寺や道場が一つもない」と言われていました。
そんな土地に、どうして仏の種が植え付けられたのでしょうか? 新居家の門を初めて叩いた「南無妙法蓮華経」は、遠く越後(新潟県)の山を越えてやって来た、ある旅の行者(千箇寺某)だったといいます。
林之助の祖父である善右衛門は、その頃、子孫が次々と病気で亡くなるという不幸に見舞われ、深い悲しみと憂鬱の中にいました。彼の寂しい心境と、目に見えない尊い力への憧れが、風のように現れたこの旅の行者と固い縁を結んだのでした。
しかし、当時は「改宗」が法律で固く禁じられていたため、孫の吉兵衛の代になってからようやく法華経に改宗することができました。日薩は、その吉兵衛の五番目の弟にあたります。
林之助が9歳だった1848年(嘉永元年)、当主であった父の宗右衛門が亡くなったのと同時に、彼は先祖の遺志を継いで法華経の僧侶となりました。
しかし、周囲には頼れる法華経のお寺が一つもありません。「どこに身を寄せればいいのか」と悩んでいたところへ、秩父の山脈を越えて大車院日軌(だいやいん にっき)という僧侶が遠くから布教にやって来て、林之助を弟子として迎えてくれました。林之助は「文嘉(ぶんか)」という僧侶の名前(法号)を授かり、11歳の頃になって師匠の日軌と共に江戸の牛込にある善国寺に移り住みました。

修学と化導期(けどうき)
その頃の法華経の僧侶の修行といえば、ただ決められた学校(檀林)を巡るだけでした。学閥の決まりに従って、彼も総州(千葉県)の飯高や中村にある学校へ通わされました。当時の宗派の学風はすっかりたるみきっており、真面目な学生である文嘉を感心させるようなものは何もありませんでした。
ただ一人、遠く加賀(石川県)の優隆那院日輝(日輝)が始めた新しい宗派の勉強会だけが彼の向上心を刺激しました。彼は遠く北陸の加賀の城下町まで行き、日輝の開く塾を訪ねて塾生となり、修行に励みました。
当時の同級生には、三村日修、吉川日鑑、林日昇など、のちに日蓮宗の中心となって活躍する偉大な才能が揃っていました。その中にあっても文嘉の優秀さは塾のリーダー(塾頭)である日陣にも愛され、22歳の頃には早くも先生の代わりに講義を行うほどでした。
後年、彼が公的な仕事で忙しい時でも決して学問から離れず、「容月(ようげつ)」と名乗って詩や文章を作り、学問と道徳を兼ね備えた立派な風格を持っていたのも、この日輝の教えのおかげです。特に彼は「師匠の教えを後世に伝えること」を大切にし、あえて自分自身の新しい学説を立てようとしないことを信条としていました。彼に独自の著書が少ないのは、師匠に遠慮していたためです。もし文章を書く場合でも、必ず「和上(師匠)いわく」と添えることを忘れませんでした。
そしてこの塾を卒業し、有名な別れの詩を詠みながら江戸に帰ってきたのは、1856年(安政3年)、25歳の時でした。
それ以後、彼がその才能を見出され、大抜擢されて宗派と仏教界の運命を一身に背負うようになるまでには、様々な場所で教えを説きながら飛び回る日々(化導期:人々を教化(きょうけ)し、仏道へと導き救済すること)がありました。
ある時は越後(新潟県)の本行寺の住職になり、またある時は新しく首都となった東京・小石川の蓮久寺の住職になり、あるいは牛込の善国寺で師匠の日軌の跡を継ぎました。しかし、彼はどこへ行っても必ず、一般の人々や僧侶のために広く仏教の講義を行うことを忘れませんでした。遠くの学校に請われて先生になったり、また別の学校で教えるために住職を辞めたりと、彼の修行と教えは非常にレベルが高く、東京での彼の存在は次第に世間の注目を集めるようになりました。
彼が東京の池上にいた頃、フルベッキという外国人が『夢醒新論(むせいしんろん)』という本を書いて仏教を批判・破壊しようとしました。すると彼はすぐに立ち上がり、各宗派のリーダーたちと共に芝の寺に集まり、その批判に対抗する先頭に立ったのです。
彼が新首都・東京の表舞台の中心に現れ始めたのは、まさに1871年(明治4年)の頃であり、翌年に新政府の「教部省(宗教を管理する役所)」が彼に役人として働くよう求める前年のことでした。

大教院時代と宗門統一
明治時代の宗教行政は、廃仏毀釈の嵐のあと、教部省による「仏教各派のコントロール」へと変わりました。しかもそれは、「神道」の精神に基づいて仏教を支配しようというものでした。
日薩自身が後になって当時のことを振り返り、「明治5年に教部省が開かれ、3つの規則が作られて指導の基準となった。そして神官や僧侶が役人に任命され、誰もこれに逆らうことはできなかった」と書き残しています。当時の仏教の僧侶たちが、どれほど役人の顔色をうかがって怯えていたかが想像できます。
その「3つの規則」とは、以下のようなものでした。
一、神を敬い、国を愛する心を持つこと。
二、天の理(ことわり)と人の道を明らかにすること。
三、天皇を尊び、朝廷の命令を守ること。
これが宗教を指導する者の絶対ルールでした。どんな仏教の教えであっても、すべてこの基準に当てはめられなければなりませんでした。「明治維新の政治は神道の大道に基づくものである。仏教は国の体制と相容れるのか?」と役人から直接尋問される試験場が設けられ、日薩も一度は学友たちと共に、身延山のトップに従ってその試験の場に立たされたことがあります。
事ここに至り、彼が宗派の期待を一身に背負って役人として働くことになった際、彼はむしろ教部省のトップである大輔(たいふ:官職名)の宍戸璣(ししど たまき)や三島通庸(みしま みちつね)たちと「協力する」という作戦に出ました。
自ら進んで神道と仏教を合わせた「大教院」を設立することを政府に提案して認められ、浄土宗の福田行誠と共にそのリーダーになりました。また、「仏教の足りない部分を神道で補う」という考えのもと、神道の研究にも熱心に取り組みました。彼の誠意と真面目な働きぶりは、役人たちを動かすのに十分でした。そして、彼は役人たちの信頼を勝ち取り、それ以降の彼の公的・宗教的な仕事は、まるで追い風を受けて進む帆船のようにスムーズにいきました。
わずか45歳という若さで、宗派の最高位である「身延山久遠寺 第73世」のトップに就任できたのも、教部省のトップたちが彼を強く推薦したからでした。
しかしこれより前、彼が率いる法華経の様々な流派を一つにまとめ、「日蓮宗」という大きな看板のもとに国から公認させようと計画した時のことです。
世間からも宗派内からも大反対の声が上がり、特に「勝劣(しょうれつ:経典の優劣)」をめぐって対立するグループなどが簡単には承諾しませんでした。中でも岡山の妙満寺派の児玉日容(こだま にちよう)は、「日蓮宗」という名前に反対して教部省に抗議したため、役人たちもそれに流されて簡単には決定を下しませんでした。
そこで日薩は直接役所へ乗り込み、宍戸や三島に面会してこう言い放ちました。
「私たちが信じているのは、宗祖である日蓮の正統な教えです。まるで川の源流のようなものです。ですから『一致派』などと呼ぶべきではなく、堂々と『日蓮宗』という名前を名乗るべきです」
そう言って一歩も譲らず、「もし役人が認めないなら、総理大臣(太政大臣)に直接申し上げる!」とその決意を示しました。その熱意に押され、二人の役人はついにこれを許可したといいます。
これこそが、日薩が「明治日蓮宗」を創り上げる劇的な場面であり、彼が宗派統一の第一歩を踏み出した瞬間でした。時は1876年(明治9年)、彼が新しい日蓮宗の「第一世管長」になったことが、ここに明確になったのです。
彼は管長という忙しい役職に就くと、身延山の後継ぎを学友に任せ、いよいよ宗派内の改革に突き進みました。
宗派の統治においては、各地の大きなお寺が勝手に権力を持っていた古い悪習を打ち捨て、自らの信頼する仲間たちを中央から派遣しました。これにより、昔からの学閥や人間関係を一掃し、中央集権(一つの大きな組織としてまとめること)の力を示しました。
古い学校の制度を廃止し、1875年(明治8年)には芝の宗学院を改めて「大教院」とし、宗派の最高学府として自らその長になりました。これが現在の立正大学の始まりです。また、全国に中教院や小教院を設けて教育の普及を図りました。
彼は単に宗派内の教育制度を新しくしただけでなく、広く時代の情勢を観察し、「全国の学校から優秀な生徒を一人ずつ集め、宗派のお金で近代的な学問(英語や数学など)を学ばせる」という道を開きました。1885年(明治18年)に『縮刷大蔵経(仏教の経典のまとめ)』を編集させたことも、彼がどれほど明治の仏教発展の柱であったかを物語っています。
さらに、彼は剛毅(ごうき:意志が強く度胸があって何事にも屈しない気性や様子のこと)な性格でありながらも、非常に温かい心の持ち主でした。
彼が蓮久寺にいた頃、上野彰義隊(戊辰戦争の旧幕府軍)の生き残りの孤児を拾って立派に育て上げ、のちに毎日新聞の主筆となる吉岡育(よしおか いく)を世に送り出しました。この弱者を救う思いは晩年になってさらに強くなり、1879年(明治12年)には他の仏教宗派の代表や有名人たちと相談して「福田会育児院(ふくでんかい いくじいん)」という孤児院を創立しました。彼はその初代および三代目の会長に推され、まずは孤児40名を引き取って保護し、それが今日まで続く児童福祉施設の先駆けとなりました。この功績から、彼は「明治における仏教社会事業の鼻祖(創始者)」とも呼ぶべき人物です。
晩年は池上本門寺に住み、1888年(明治21年)8月29日、59歳で惜しまれながらこの世を去りました。文明院日薩聖人の立派なお墓は、今も本門寺の境内に苔むして静かに佇んでいます。

