継子弥太郎
「百姓の子に学問なんぞ無駄なこった。そんなことよりや、さアさ、仙六の守りでもしろ。畑打ちの手伝いでもせんか!」
継母のさつに怒鳴られて、小さな弥太郎は異母弟・仙六の抱守りに、春の日長にも鼻汁や涎(よだれ)に悩まされ、暮れるに早い秋の日にも、いばり(小便)で肌の乾く時もないような、辛い月日を送った。
俳諧道において芭蕉・蕪村に相対して「別途の芸術」を開拓し、後世に詩聖と仰がれるに至った一茶も、やはり偉大なる芸術家の誰もが通過せねばならぬ茨の道を、既に物心つく頃から辿るべく運命づけられていた。
一茶は宝暦13年(1763年)5月5日、野尻湖に近い奥信州は水内郡柏原村に生まれた。幼名を弥太郎と言い、さほども貧しからぬ農家に生をうけた彼は、六歳の頃から居村の本陣・中村氏に就いて手習をはじめ、当時そこに寄宿していた長月兼若翁に作句の道をも教わりなして、順当に行けば、幸せな少年として大きくなろうとしていた。ところが、明和7年に継母のさつが来、それに仙六が生まれてからは、八つや九つの頑是(がんぜ:あどけなくて無邪気)もない年頃で、酷い苦労をせねばならなくなった。
「われと来て遊べや親のない雀」
これは一茶が八歳の時の句である。人が涼んでいる時分にも涼み仕事に藁を打てと言いつけられ、飯も食わされずに仙六の守りをさせられ、仙六がむずかる時はわざとむずからすごとくに疑われて杖でぶたれること日に百度、月に千度、一年三百六十五日、目の腫れない日はなかった――と後年一茶が自ら書いているような生活が十四の年まで続いた。
この間、蔭になり日向になりして彼を愛しかばってくれたのは彼の祖母だった。その祖母も彼が十四になった時、突然なくなってしまった。

江戸へ
十四の春の暁に、しおしおと家を出て江戸へ向かう弥太郎を、父・弥五兵衛は牟礼(むれ)まで送って行って言った。
「お前は三つの時に本当のお母アに死に別れ、それから貰った継母ともどうも仲が悪く、明け暮れいがみ合って、儂もほとほと困り抜いた。お婆さんの居てくれた間はまだよかったが、このまま放っておいたらどうなるか。いっそ今のうちに江戸へ奉公にでも行けば、また互いに心の解け合うこともあるかも知れないで……なあ、江戸へ行ったら、他人ばかりだで、喧嘩をするなよ。毒なものは食うなよ。」
一茶は江戸へ出た。しかし、別にはっきりした行先もなかった彼は、そこの軒下に露をしのぎ、かしこの家蔭に霜を防ぎ、山に入って木葉を敷いて夢を結んだり、浜辺の砂にまどろんだりしつつ、食うために種々の辛酸をなめた。こうした生活を続けつつ、彼は柏日庵立砂や知足庵一瓢にも学び、また『五色墨』の一人であり葛飾派の重鎮であった二六庵竹阿の門に入って俳諧を修め、天明7年(1787年)25歳当時、彼は連歌の秘書『白砂人集』を二六庵において「地橋」と号して手写した。
それから二年後の寛政2年に竹阿が没した。一茶は二六庵を襲名して「菊明」と号した。その翌年久しぶりに故郷の父を訪ねた後、剃髪して『立つ泡の消えやすき意』より「一茶」と号した。
寛政4年の春、一茶は飄然と西国への旅に出た。
「通し給え蚊蠅の如き僧一人」(箱根)
「うたかたや淡の波間の平家蟹」(屋島)
「和睦せよ石山ほたる瀬田ほたる」(石山)
この六、七年間を、彼は奥羽、関東、北越方面にも杖を曳きつつ、旅で日をおくった。寛政7年に彼の最初の著作『旅拾遺』が京都で出版された。

俳交
一茶が生まれた宝暦13年は芭蕉の七十回忌にあたる年であったが、彼が江戸に出た安永5年頃は、芭蕉以来ようやく衰退を見せていた俳壇に、鬱勃(うつぼつ)として正風復帰の新運動が起こされ、天明の五俳客と称せられた暁台・白雄・闌更・麦水・蝶夢の活躍が目覚ましい時期であった。
一茶が西国紀行の途次、大坂にあった寛政7年(彼の33歳の年)は蕪村の十三回忌に当たり、彼が江戸に帰来した同11年には五俳客のごときも皆世を去っていた。
こうした中にあって、一茶は天明末より寛政始めの頃には蓼太や白雄のごとき中興大家ならびに江戸俳壇の中心勢力にも接近し、諸国行脚の旅に出るに及んでは、名古屋の士朗、三河の秋挙、伊勢の椿堂、京都の闌更、蒼虬、樗室、月居、大坂の大江丸、二柳、升六、松山の樗堂、奥州の白居、乙二、平角、冥々、五明、長翠、素丸等々の、高名の人々と交友を結んで、俳道を語り、自己を磨いた。
ことに、浅草蔵前の札差(ふださし:江戸時代に幕府から給料を受け取る旗本や御家人に代わり、米の受け取りや売却・現金化を代行した商人のこと)であった随斎成美(夏目成美)とは最も親しく、朝っぱらから押しかけて行って、
「朝めしと昼飯の御馳走になったり、文化五年に信州へ帰っている間に、江戸に住んでいた家が売り払われて無くなってけつかる」
とて、成美の家で正月を迎えたりした。そして二人はよく打ち解けて俳諧を談じ、互いに句を見合って、忌憚(きたん:遠慮せずに率直に)なき批判を交わしていた。

信濃の雪
享和元年、一茶が39歳の時、父は帰郷した彼に看病されつつ死んだ。父は一茶に田地家屋を半分分け、女房を迎えて故郷にとどまるようにと遺言したが、継母や仙六が聞かぬふりをして鼻であしらった為めに、成らず、
「父ありてあけぼのみたし青田原」
悲憤の涙を呑んで再び江戸に上った。そして江戸市中や上総・下総などを数年にわたって流転しつつ、その間、亡父の遺言通り家を立てようとの切願(せつがん)を抱いて、二、三度帰省して遺言の実行を強請(きょうせい)したが、整わなかった。
「故郷やよるもさわるも茨(ばら)の花」
ごたごたと紛争が続いて、文化11年、一茶がついに公儀に出訴(しゅっそ)せんとしたために、菩提寺の住職その他の調停により、父の死後十三年に及んでようやく半分に仕切った家と僅かの遺産を与えられて、ここにやっと一茶は漂泊流離の生活を終わり、生国に安住して俳道に精進するに至った。
同年の春、一茶は水内郡赤川村の又右衛門の娘・きくを娶(めと)って、新しい生活をはじめた。時に一茶は52歳、きくは28歳であった。一茶は機嫌のよい日など、髪が乱れておるぞと若い妻の髪を梳(す)いて結ってやりなどする華やいだ気分にもなっていたが、彼の前途はそれ程幸福ではなかった。得た三男一女もみな夭折(ようせつ)し、きくも病んで世を去った。その間九年にして、彼はまた独りぽっちの一茶になった。
「露の世は露の世ながらさりながら」
その後、文政7年に雪という27歳の女を迎えたが、すぐ三ヶ月足らずで離縁し、翌8年・やを、という46歳の女を妻とした。このやをから生まれた娘が一茶の血統を継承したようであった。それから二年後の文政10年(1827年)6月、火事のために類焼し、一茶はわずかに焼け残ったささやかな土蔵内に寝起きしながら、住宅の再建を目論んでいるうちに中風(ちゅうぶ:現代医学でいう脳卒中)が再発し、11月19日、没した。
「これがまあついの栖(すみか)か雪五尺」

一茶の詩境
悶え抜き苦しみぬいた一茶の人間的生活は、必然的に彼の芸術に反映した。辛酸と懊悩(おうのう:心の奥底で悩みもだえること)にさいなまれた彼の生は、彼の生来の熾烈(しれつ:勢いがきわめて盛んで激しい様子)な感情性をますます先鋭化し神経質化し、ひいてはその芸術上の表現形式にも、極度に鋭角的な直線的なものを与えた。
一茶は自己の内部に発酵する感情の熾烈さのあまり、表現意欲の旺盛の余り、敢えて表現手段を選ぶ暇がなく、ありのままの感情をありのままに投げ出した。
ここに彼の芸術における他の俳人には見出し得ぬ人間味があり、野性味があり、迫力があり、激越な香気がある。生の大半を近親達の奸計や周囲の迫害と闘い、人の世の愛情に飢えていた一茶は、あたたかき涙と愛の詩人であった。
「朝霜やしかも子供のお花売り」
「痩せがえる負けるな一茶ここにあり」
そうした感情はまた富者や強者に向けられると、鋭い諷刺(ふうし)や皮肉となって現れた。
「金もうけ上手な寺のぼたんかな」
「ずぶ濡れの大名を見るこたつかな」
また、文化の江戸を遁(のが)れて、土の中に眠るべく信濃に帰った一茶は、やはり農民であった。彼の詩には、働く者への共感があり、髣髴(ほうふつ)たる農民の姿がある。
「二百十日田中の旭拝みけり」
「大根引き大根で道を教えけり」
更に一茶を深く覗(のぞ)けば、幕末の大政変を前にして、外船の渡来ようやく繁く、社会の根底的動揺を孕(はら)んでいた天明・文政時代のどよめきが其処(そこ)に見える。
「雁(かり)鳴や村の人数きょうもへる」
生活に追われて村を捨て、あてどもなく都市に流れ行こうとする当時の農民の姿が、この一句に浮き上がっている。一茶の著作の主なるものには『一茶発句集』『一茶句帳』『おらが春』等がある。


