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足利義満の生涯|金閣寺を建てた室町幕府「最強の三代目」の偉業

『足利義満』の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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日本を一つにまとめた「最強の三代目」

 

日本の歴史において、最も心が痛む時代の一つが「南北朝時代」でしょう。天皇が二人(南朝と北朝)に分かれ、全国を統一する権力が失われ、英雄や豪傑たちが各地に自分の領地を持ってバラバラに戦っていた時代です。

室町幕府の三代将軍・足利義満(あしかがよしみつ)は、そんな大乱世の時代に生まれました。おじいさんの足利尊氏(たかうじ)が立ち上げた幕府の権力はまだ全国に行き届いておらず、各地の有力な大名たちも「あわよくば足利を倒して自分がトップに立ってやろう」と虎視眈々(こしたんたん)と狙っているような物騒な時代でした。

足利幕府が歴史の上に確固たる存在として残るかどうかは、この「三代目に生まれてきた義満が、本物の大物かどうか」にかかっていました。そして結果から言えば、義満はその期待に完璧に応えた歴史上の超大物だったのです。

正平十六年(一三六一)、義満がまだ四歳の時のことです。京都は再び南朝方の軍勢(楠木正儀(くすのきまさのり)や細川清氏ら)に攻め込まれました。二代将軍であった父・義詮(よしあきら)は京都を捨てて近江国(滋賀県)へ逃げ、幼い義満も赤松則祐(あかまつのりすけ)のお城(播磨国(兵庫県相生市・上郡町)白旗城(しらはたじょう))へ避難しました。幕府の将軍が簡単に京都を捨てて逃げ出さなければならないほど、まだまだ足利家の権力は弱かったのです。

やがて戦乱がおさまり、義満は白旗城から京都へ帰ることになりました。その途中、兵庫県の琵琶塚(びわづか)の近くを通りかかった時のことです。周りの美しい景色に見とれていた幼い義満は、お供の者に向かって突然こう言いました。

「おい、お前たち。この土地を京都にそっくりそのまま持ってこい!」

わずか四歳の子供が、なんというスケールのデカいことを考えるのかと、お供の家臣たちは心の底から驚き、感嘆したそうです。恐らく、彼が生まれながらに持っていた「日本を治めるトップとしての巨大な器」が、こんな驚くべきセリフを吐かせたのでしょう。

義満は生まれながらにして、底知れない巨大なスケールの性格を持っていました。そして、その性格こそが、当時の時代が最も必要としていたものだったのです。義満という大物が現れてはじめて、足利幕府は天下に号令する(全国を従わせる)本物の実力を手に入れました。

 

足利義満

強すぎる大名を次々と潰す天才的戦略

 

もともと巨大な器を持っていた義満ですが、それに加えて細川頼之(ほそかわよりゆき)という非常に賢い家臣のサポートもありました。義満は、足利幕府の地位を名実ともに確固たるものにするために、「力が強くなりすぎた大名(守護大名)のパワーを削り取る」という恐ろしい政策を実行します。

その最初のターゲットにされたのが、山名(やまな)氏でした。山名氏はなんと「全国の六分の一」という広大な領土を持つ、最強レベルの大名でした。

ちょうど義満の時代に、この山名一族の中で「誰が跡継ぎになるか」という内輪揉め(兄弟ゲンカ)が起きました。義満はこれを大チャンスと見ました。一族の中の不満を持っていた者(山名満幸など)をそそのかして「今のトップを討ち取れ」と命令し、身内同士で争わせたのです。こうして一族同士の争いを利用し、自らは手を汚さずに最強の大名を弱体化させ、幕府の勢力を一気に拡大しました。

また、九州には少弐(しょうに)、大友、島津といった強力な大名たちがいました。幕府は彼らを監視するために、今川了俊(いまがわりょうしゅん)という優秀な人物を九州探題(室町幕府が九州地方を統治・軍事統率するために置いた出先機関、およびその長官の役職)として派遣しました。
了俊は西日本の大物・大内義弘(おおうちよしひろ)をバックにつけて見事に九州をまとめ上げましたが、のちにこの大内義弘が「自分がもっと力を持ちたい」と野心を抱き、ジャマになった了俊の悪口を幕府に吹き込みました。しかし、やがて大内の裏切りがバレると、義満は容赦なくこの大内義弘も討伐して滅ぼしてしまいます。

こうして義満は、賢い家臣たちの力と、自分自身の圧倒的な頭の良さ(時には冷酷なほどの戦略)を使って、ライバルになりそうな強すぎる大名を次々と潰し、室町幕府の絶対的な基礎を築き上げたのです。

 

足利義満

 

五十年続いた「南北朝の争い」を終わらせる

 

義満がやった最も偉大な功績は「南北朝の統一」です。

北朝をサポートしていた足利氏がどんどん勢力を拡大し、誰も逆らえない「天下のトップ」としての実力を身につけたのに対し、南朝は日に日に力が弱まっていきました。南朝の最後の強力なサポーターだった楠木正儀も「もはや大勢は決した。争いをやめて一つにまとまるしかない」と考えるようになっていました。

日本のなかに二つの朝廷が同時に存在し、五十年以上も争い続けているという異常な状態は、当時の知識人たちも「なんとかしなければ」と痛感していました。何度も和解の提案はありましたが、「うちの天皇こそが正式なトップだ!」とお互いに譲らず、なかなか成立しませんでした。

しかし、ついに元中九年(1392年)、義満は圧倒的な力と巧みな交渉術で南朝の後亀山(ごかめやま)天皇に和解を承諾させます。「これからは両方の血統から順番に天皇を出しましょう」という条件で、後亀山天皇は京都へ戻り、正式な宝物(三種の神器)を北朝へ引き渡しました。こうして、半世紀以上も続いた泥沼の南北朝時代は、ついに義満の代で一つに合体したのです。

これは当時の状況からして避けられない歴史の流れでしたが、それでも相手の面子(めんつ:プライド)を保ちつつ、見事に一つの国家としてまとめ上げた義満の交渉力とスケールの大きさは称賛されるべきでしょう。この統一によって、「下克上(げこくじょう:下の者が上の者を実力で倒す)」の風潮でバラバラになりかけていた日本の秩序は守られ、足利幕府の権力は絶対的なものとなりました。天下のすべての大名が、義満のパワーの前にひれ伏したのです。

 

足利義満

金閣寺と「日本国王」の栄華

 

天下を完全に統一した義満の権力は、もはや「天皇の臣下」というレベルをはるかに超えていました。

彼は、武士としては異例中の異例である「太政大臣(だじょうだいじん:朝廷のトップの役職)」にまで上り詰めます。人臣(天皇の家臣)としてこの地位まで出世したことは、彼の権力が完全に全国を支配していることの証明でした。

その翌年、彼は頭を丸めてお坊さんになり「天山(てんざん)」と名乗りますが、それは単なるポーズにすぎず、政治の実権はがっちりと握ったままでした。

そして、彼は京都の北山に巨大で豪華な別荘、「金閣寺(きんかくじ)」の造営を始めます。この別荘の建築費用には、なんと現在の価値で約「四百億円」以上という途方もない大金がつぎ込まれました。そのぜいたくぶりは常識外れで、どこへ旅行に行くにも大勢の豪華な行列を引き連れ、地方の人々の度肝を抜きました。

彼のこうしたぜいたくや浪費を非難するのは簡単です。しかし、バラバラだった日本に平和をもたらした義満が、文化の発展にどれほど巨大な貢献をしたかは見逃せません。現在私たちが知る「室町文化(能や狂言、水墨画や美しい庭園など)」の華やかな発展を今日に伝えている最大のシンボルこそが、彼が建てた金閣寺なのです。また、彼は中国(明)との貿易(勘合貿易)もスタートさせ、「日本国王」として莫大な富を日本にもたらしました。

こうして、絶大な権力と富を握り、日本の歴史上トップクラスの栄華を極めた足利義満は、応永十五年(一四〇八)、五十一歳という働き盛りでこの世を去りました。良くも悪くも、日本全体を自分の庭のようにデザインし尽くした、桁外れのスケールを持った「最強の三代目」でした。

 

『足利義満』の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

 

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