「上様だと。それはだれのことだ」
「徳川殿だ。江戸の」
縄をかけられ、刑場へ引かれていく途中の男は、これを聞くと、大声でからからと笑いました。
「なに、上様とは太閤殿以外にはないはず。太閤亡きあと、まだいくらもたたないのに、内府(ないふ:家康)はもう天下をわが物顔にしているのか」
石田三成(いしだ みつなり)。関ヶ原に敗れてなお、最後まで節を曲げなかった人です。
大志大略の遠謀
三成の祖先は、江州(ごうしゅう:近江国、現在の滋賀県)の豪族・京極氏の家臣でした。主家が没落したあと、父の隠岐守正継(おきのかみ まさつぐ)は浅井家の祐筆(ゆうひつ:文書を書く役)をつとめていました。三成はこの正継を父として、永禄三年(1560年)、江州坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市石田町)に生まれました。幼名を佐吉(さきち)といい、長じて三成を名乗ります。
彼がかつて江州の観音寺にいて学問に励んでいたとき、秀吉が鷹狩りの帰りにその寺に立ち寄って、茶を求めたことがあります。そのとき三成は機転をきかせて、はじめ大きな湯のみにぬるい茶を出し、次に湯のみに半分ほど少し温かい茶を出し、最後に熱い薄茶を小さな茶わんに注いで差し出しました。秀吉はこの機転のきいたはからいに大いに感心し、三成を召し出して家臣の列に加えました。永禄十二年(1569年)、まだ十歳のときのことでした。

その後、三成は大いに出世して、江州水口(みなくち)城四万石に封じられました。このとき彼はただちにその半分の二万石を割いて、島左近(しま さこん)を家臣に抱えました。秀吉はそれを聞いて三成を召し、「島は名高い大将の器だと聞いている。小禄(しょうろく)のお前が、どうしてそんな大将を召し抱えることができたのだ」と、ふしぎそうな顔をしました。三成は、禄の半分を与えて家臣に加えたが、それは家臣というようなものではなく自分の顧問だ、と答えました。秀吉は笑って聞いていましたが、内心、三成が大きな志とはかりごとを胸に秘めていることを知って、深く驚いたといいます。
その後、三成は丹波に出陣して大功を立てたので、抜擢されて天正十三年(1585年)七月、従五位下(じゅごいのげ)治部少輔(じぶのしょうゆう)に叙せられ、のちに佐和山(さわやま)城主となり、十九万四千石の大身となりました。そこで島左近に禄を増やそうと言いましたが、左近は、自分に与える禄で多くの勇士を将来のために招くべきだと忠告しました。三成はその言葉を入れて、のちに関ヶ原で討ち死にする蒲生郷舎(がもう さといえ)、小幡信世(おばた のぶよ)、舞兵庫(まい ひょうご)などの傑物を召し抱えて、自分の土台を築いたのです。そのころの落首(らくしゅ:世をからかう匿名の歌)に「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と歌われましたが、これは世の人が、三成の異例の出世と、島左近のような傑物を家来にしている三成の幸運をねたんだものでした。

政治的手腕と功績
けれども三成の面目は、戦国の武将としてよりも、むしろ秀吉の帷幕(いばく:本陣)に加わって、縦横の政治の手腕をふるった点にあります。天正十四年(1586年)に秀吉が九州征伐の軍を起こすと、三十か国に命じて兵二十万を徴発し、また諸国に命じて三十万の兵と馬二万頭を一年間養うに足りる食糧を出させました。この膨大な兵站(へいたん:食糧や物資を前線に送る仕事)を処理して軍の活動をすばやくしたのは、三成の功労でした。戦国の武将で、敵の城を落とし砦を抜くことを得意とする者は少なくありませんが、二十万の大軍をかかえて食糧を輸送し、これをなめらかに養うような経営の才能は、なかなか得がたいものだったのです。
島津義久(しまづ よしひさ)が降伏したあとも、新納忠元(にいろ ただもと)がただ一人、大隅国(おおすみのくに:現在の鹿児島県東部)の大口(おおくち)城にこもって秀吉に降りませんでした。そのとき三成は大口城に出向いて天下の大勢を説き、刃に血をぬらずにこれを降伏させました。また一方で島津の内政に関わって、いろいろと献策をし、義久と秀吉のあいだを大いに取り持ったのも三成でした。関ヶ原の戦いで島津一族が三成の側について大いに奮闘したのも、このときの取り持ちに深く恩を感じていたからです。
関東・奥羽の征伐のときも、ほかの武将たちが野戦や攻城でめざましい武勲を立てたのに対して、三成は終始秀吉のそばにいて軍の機密にあずかっていました。そして東北の重鎮・佐竹一族を説いて従わせ、奥羽平定後の経営に縦横の手腕を発揮して、目立たないが地味な大功を立てています。朝鮮出兵では船奉行となり、軍船四万艘を指揮して二十万の兵を無事に渡海させるなど、戦時経営の才能は遺憾なく発揮されました。のちには宇喜多秀家(うきた ひでいえ)、小早川隆景(こばやかわ たかかげ)らとともに漢城(かんじょう:現在のソウル)に在陣して軍政の方面を担当し、実質上、外征軍の総指揮者という重い任務を帯びていました。

また行政の方面の功績としては、五奉行の在任中、五人組の制度を定めて京都や大坂の市中の無頼の徒を取り締まり、大いに治安の維持に力を尽くしたことがあります。石川五右衛門(いしかわ ごえもん)のような盗賊のかしらを捕らえて一味を滅ぼした功労も、三成の警察行政の手腕によるものといわれます。一方、駅伝の制度を定めて交通の不便を除き、各地の関所を廃して道路を開くなど、この方面の功績も枚挙にいとまがありません。桃山の聚楽第(じゅらくだい)、大坂城、洛東の大仏殿などの造営、あるいは戦火に焼けた博多の復興、名護屋(なごや:現在の佐賀県唐津市)の本営の築造など、一つとして三成の手にかからないものはありませんでした。

関ヶ原の敗戦
太閤が亡くなると、家康のほしいままなふるまいと野望がいちじるしく三成の目を引き、彼は事あるごとに家康と対立し、反発しました。彼は秀吉の死後まもなく五奉行を辞任して、居城の佐和山に引きこもります。そして、豊臣家の勢いがまだ衰えないうちに家康を除かなければ、ついには豊臣家の土台が危うくなると考えて、ひたすら戦の備えを整えました。上杉景勝(うえすぎ かげかつ)と同盟して、家康が会津の上杉征伐に出陣した留守をねらい、東西で呼応して兵を挙げたのです。家康は出陣の途中で三成の挙兵を聞くと、急いで軍を返し、ここに両軍が雌雄を決しようとして関ヶ原で向かい合いました。慶長五年(1600年)九月十五日のことです。
西軍は石田三成、宇喜多秀家、島津義弘(しまづ よしひろ)、小西行長(こにし ゆきなが)、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)、大谷刑部吉継(おおたに ぎょうぶ よしつぐ)、小早川秀秋(こばやかわ ひであき)ら、十万八千余人。東軍は福島正則(ふくしま まさのり)、黒田長政(くろだ ながまさ)ら豊臣恩顧の大名を先鋒とし、徳川幕下の諸将を加えて七万五千余人でした。

十五日の朝、夜来の豪雨は晴れ上がりましたが、濃い霧が深く立ちこめて、関ヶ原の高原は殺気を包んだまま白い闇に塗りこめられています。濃霧の中でいよいよ戦機が熟し、井伊、松平ら東軍の前衛が秀家の陣をめがけて発砲したのを皮切りに、両軍の戦闘が突如として始まりました。細川、加藤、福島、黒田の諸勢はひしめき合って三成の本隊を猛襲しましたが、三成の重臣・島左近、蒲生父子、舞兵庫らの勇士が奮戦してこれを蹴散らしました。けれども敵はすぐに勢いを盛り返して逆襲してきます。
戦いは急を告げましたが、島津の陣は三成の本隊の激戦を傍観しているだけで、静まり返っています。三成は兵をつかわして再三出陣を催促しましたが、兵を動かす気配がありません。三成は単騎、馬を飛ばして、「今なら形勢がいいのだ。自分は部隊を指揮して一挙に家康の本陣を突くから、後詰め(ごづめ:後ろからの援軍)を頼む」と言いましたが、応対した島津豊久(とよひさ)は兵を動かす気配を見せませんでした。
今や戦いはまさに頂点に達し、大谷、宇喜多、石田の三部隊は激戦のまっただ中でした。三成は戦機が熟したと見て、かねて合図の狼煙(のろし)を上げましたが、それに応じるはずの陣地は林のように静まり返っていて、みすみす戦機を逸してしまいます。一方、大谷や小西らも急使を走らせて、松尾山や南宮山に陣取って待機している小早川、脇坂(わきさか)らの友軍に出陣を催促しましたが、これもいっこうに要領を得ません。けれども、戦闘がこのまま進んで秀秋や脇坂安治(やすはる)らの裏切りがなければ、このときまで西軍の形勢ははるかに東軍をしのいでいたのですから、あるいは西軍の勝利に終わったかもしれません。
ところが戦闘がいよいよたけなわとなり、両軍が一進一退、旗じるしが入り乱れる激戦のさなかに、秀秋の軍勢が突如として友軍を裏切り、続いて脇坂、小川、朽木(くつき)らの諸隊が東軍に寝返ったため、大谷刑部らの奮戦もむなしく、三成の軍はついに敗北の惨状を見るに至りました。

節を屈せず
関ヶ原の戦いに敗れた三成は、再挙をはかるため大坂へ逃れる途中、江州の古橋村(現在の滋賀県長浜市木之本町古橋)で捕らえられ、大坂に送られました。大坂からさらに京都へ送られる途中、警固の武士に湯を求めましたが、あいにく近くに湯がなかったので、持ち合わせの干し柿を差し出されました。三成は干し柿を見て、「これは痰(たん)の毒だ」と言って食べませんでした。すると人々は、今すぐ首をはねられる人間が食べ物の毒を気にするとはおかしなことだと言って笑いました。これを聞いた三成は、「大義を思う者は、たとえ首をはねられる刹那(せつな)までも命を大切にして、あくまで本懐をとげようとする心がけがあるものだ」と言って、たしなめました。
家康は、捕らえられた三成たち三人があまりに見苦しい衣服をまとっているので、「このままの姿で市中を引き回せば、将たる人物に大きな恥辱を与えることになる。それは同時に、武将の心を知らない自分の恥辱となるのだ」と言って、三成に小袖(こそで)を与えました。
「これはだれがくれたのだ」
三成はその小袖を見て、警固する家康の家臣にたずねました。
「上様のお情けだ」
「上様だと。それはだれのことだ」
「徳川殿だ。江戸の」
三成はこれを聞くと、大声でからからと笑いました。
「なに、上様とは太閤殿以外にはないはず。太閤亡きあと、まだいくらもたたないのに、内府はもう天下をわが物顔にしているのか」
そうののしって、家康の温情をきっぱり退け、小袖を突き返してしまいました。そして刑場に引き出されて首をはねられるまで、三成は少しも顔色を変えず、平然として死んだのです。慶長五年(1600年)十月一日、四十一歳でした。
後の世に、三成を逆賊だとし、またこびへつらう悪人だと伝えていますが、これは三百年続いた徳川の時代に、徳川方の歴史家によって残された説にすぎません。実はこのように、豊臣にそむいた徳川を相手に、倒れるまで節を曲げなかった偉丈夫だったのです。利を見て変節する腰抜け武士のなかで、石田三成のような人は、敗れたとはいえ英雄のなかの英雄として光を放っています。


