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伊井蓉峰の生涯|新派劇の大御所となった義理堅き名優

伊井蓉峰の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「やっぱり、昔のままのあの人だ。それでいい」

新劇(しんげき:西洋の近代劇にならった新しい演劇)の父と呼ばれる小山内薫(おさない かおる)は、この人に会うたびに、感慨深くそう人にもらしました。「あの人」とは、新派(しんぱ:明治に生まれた、歌舞伎とは別の現代劇)の名優・伊井蓉峰(いい ようほう)のことです。

 

信念の人

 

河合武雄(かわい たけお)、喜多村緑郎(きたむら ろくろう)とともに「新派の三頭目」と並び称された、新派劇の大功労者・伊井蓉峰には、演劇のこと以外にも、たくさんの逸話が伝わっています。男気のある芸者・清香(きよか)との義理がたいロマンス、生粋(きっすい)の江戸っ子で、たいへんな着物こだわりだったこと、新派の古顔・静間小次郎(しずま こじろう)と借金くらべをして、みごと十三万円の借金をこしらえた話など。とにかく、人間味の豊かな人でした。

演劇の裏面史に特記されなければならないのは、小山内薫との関係です。西洋の正劇(せいげき:歌や踊りをまじえない、せりふ中心の劇)を日本に移し植え、新劇の開拓と発展に一生をささげた小山内が、初めて劇場での暮らしを経験したのは伊井の手引きによるものでした。伊井もまた、小山内から理論の面で導かれることがしばしばありました。しかも二人は、それぞれ別の目標をかたく持って、まったく違う道を離ればなれに歩かなければならなかったのです。それでも小山内は、「やっぱり、昔のままのあの人だ。それでいい」と言いました。伊井は人情にもろい人でしたが、それ以上に、信念の強い人だったのです。

 

伊井蓉峰の生涯やエピソードを象徴するイラスト

初舞台に主役

 

伊井は本名を伊井申三郎(しんざぶろう)といい、明治四年(1871年)四月、東京の日本橋に生まれました。独逸語学校(ドイツごがっこう)、医学予備校、独逸協会などに学び、父の死後、十八歳から二十一歳まで神戸の三井銀行に勤めたりしましたが、一時は小説家を志し、のちに俳優になることに決めました。

明治二十四年(1891年)のことです。浅草鳥越(とりごえ)の中村座にこもって壮士芝居(そうししばい:自由民権運動の壮士たちが始めた新しい芝居)を演じていた川上音二郎(かわかみ おとじろう)の一座が、俳優を募集しました。それは当時の自由民権の思想にのった、幼稚ではあっても、まったく新しい演劇運動でしたし、はなばなしく人気も呼んでいましたから、これこそ絶好の機会とばかり、伊井はさっそく応募し、試験にも苦もなく合格しました。

ところが、喜び勇んで川上に会ってみると、初めて見る川上の態度が、なぜか伊井には不遜(ふそん:思い上がっている様子)に感じられて、しっくり来ませんでした。のちにもう一度川上の一座に加わった伊井ですから、おそらくそれは思い違いだったのでしょう。けれども、そのときは、師匠と仰がなければならない人がこれでは困る、こう感じるようでは励みがつかないばかりか、自分の持っているものがまっすぐに伸びてくれないにちがいないと考え、何も事を急ぐ必要はないと、一歩退いて、自分から入座を見合わせてしまいました。

そこへ、機会はふたたびめぐってきました。たまたまそのころ、漢学者の依田学海(よだ がっかい)が指導する演劇改良運動が起こったのです。ただの見世物になっている演劇を、演劇の本道に立ち直らせようというのが、その目ざすところでした。そのかぎりでは伊井の望みとまったく一致していましたから、伊井は誘われるままに、この運動に加わることになりました。

そこには、医者あがりがいます。剣客あがりがいます。役人あがりがいます。軍人あがりがいます。芸者あがりがいます。みな新しいものを興そうという意気に燃えて、演劇の改革に駆けつけた人々でした。そのなかにあって、伊井の情熱はもとより人一倍燃えさかっていました。準備もゆるがせにできません。宣伝も大切です。けれども、彼らの演技の稽古は、それ以上にすさまじいものでした。ずぶの素人が舞台に立つだけでもたやすくないのに、理想の旗を高くかかげての門出です。伊井は火のようになって打ちこまなければなりませんでした。

しかも、なんという幸運でしょう。いや、それは死にものぐるいの努力のたまものでしたが、年上で経歴も上の同志たちを抜いて、一番目の出し物『政党美談淑女の操(せいとうびだん しゅくじょのみさお)』で主役をふられ、同時に、依田から「蓉峰」の芸名を与えられました。俳優にとって、このうえない名誉です。伊井の父は北庭筑波(きたにわ つくば)といいました。その「筑波」に対して、富士山の別名である「芙蓉峰(ふようほう)」から取った名でした。

 

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貴重な失敗

 

演劇はそれまで、ごく低級な娯楽だと思われていました。演じる側もたいして演劇の使命というようなものを自覚しておらず、ただ古いやり方をなぞっているだけで、時代の流れというようなことも考えに入れていませんでした。ほんとうの演劇は、決してそれだけのものであってはならない。知識のある人々の目と耳に入れて、文化を高めようというのが、依田をはじめみんなの考えでした。歌舞伎のように三味線の浄瑠璃(じょうるり)を合わせることなどはことごとくやめて、写実で行く「男女合同改良演劇」としたのです。そのころはまだ、女の役は女形(おんながた:女の役を演じる男の役者)と決まっていて、女優というものがありませんでしたから、男女合同の劇というだけでもずいぶん目新しい、冒険的な試みでした。川上の一派が政治の色の強いのに対して、こちらは純粋な芸術の立場に立っていました。

明治二十四年十一月のある日、浅草公園の裏の吾妻座(あづまざ)で、希望をかけたその初日が開きました。文化的な役割を持ち、世間の好奇心も呼ぶだろうと、相当の観客を期待していたのに、あてがはずれて、問題にならないほどの不入りでした。二日目、三日目と減るばかりで、人気はいっこうに立たず、せっかく意気ごんだ同志の力も抜けて、その興行はたった十五日の短い命しかもちませんでした。どんな興行でも不入りほど悲惨なものはありませんが、それは作家がまごころをこめて書いた作品を世間に黙殺されたのと同じで、訴える相手がないのです。

この失敗は、一座にも原因がありました。第一に芸が未熟なことで、熱情だけは持っていても、見て感じるものとして観客の心をつかむまでには、とても至っていませんでした。それでは評判の立つわけがありません。そのうえ内部には、たがいに自負してゆずらない、まとまりのなさから来る内輪もめが絶えませんでした。理想はよくても、舞台の演技でみんなの呼吸が合わなかったのです。

 

 

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済美団の旗揚げ

 

こうして、一番目の出し物で主役までふられた蓉峰に輝かしい門出の夢を描かせた「男女合同改良演劇」は、その第一歩でもろくもつまずいてしまいました。けれども、一座がつまずいても、伊井自身は決してつまずきませんでした。「失敗は成功のもと」というとおり、伊井にはかえって貴重な経験となり、そこから多くのものを学び取ったのです。そして、そのときをもって、俳優の道に生ききろうと自分に誓い、はっきりと決意しました。一座の失敗が、伊井にとっては幸いだったとも言えるでしょう。

「男がいったん志を立てた以上、やり通さないのは恥だ。よし、自分の一生をこれにたたきこんでみよう」

蓉峰は、そういう気概をたぎらせました。こうなると、小さな感情などは吹き飛ばしてしまわなければなりません。二十四歳のとき、伊井はかつてその態度におもしろくない感じを抱いて避けた川上の一座へ、今度は自分から進んで加わり、その年いっぱい、そこの舞台に立ちました。初舞台で主役をつとめ、その後は生涯、座頭(ざがしら:一座の筆頭役者)の役にばかりついた、生まれながらの頭領だった伊井も、この一年は端役ばかりをふられて、失意のうちに過ごしました。

「何事も修業だ」。伊井はじっと唇をかんで耐え忍び、ひたすら芸をみがくことに余念がありませんでした。

一年間の苦しみが報われるときが来ました。下町の観客を目当てに同志を集めて一座をつくり、川上の去ったあとの浅草座で旗揚げしたのは、伊井が二十五歳の明治二十八年(1895年)三月のことです。歌舞伎にも手をつけましたが、研究に熱心な伊井は、「西洋の正劇にならい、浄瑠璃を捨て、今の風俗を採る」という建前で大胆な演出をして、人気を博することができました。

済美団(せいびだん)と呼ばれたその一座に、しげしげと出入りする学生がありました。芝居者と学生。当時にあっては、それは異様な取り合わせです。いったい何者だろうと、うわさの種になりましたが、彼こそ新劇の育ての親・小山内薫で、演劇の実地の研究に熱中していたのでした。明敏な伊井はこの若い研究者のすぐれた才能を認め、小山内が大学を出ると準座員に推して、ともに脚本の改訂や研究に努力しました。

 

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新派の大御所に

 

三十七歳のとき、伊井は河合武雄とともに新富座(しんとみざ)へ乗り出し、三十九歳のときには東京座の「新派大合同」に加わって座頭に推され、大正元年(1912年)には市川左団次(いちかわ さだんじ)から明治座をゆずり受けて、その座主となりました。そして苦闘はついに、新派の大御所という地位を伊井にもたらしたのです。当たり役は、『不如帰(ほととぎす)』の武男、『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の貫一、『仮名屋小梅(かなやこうめ)』の丹次郎、『婦系図(おんなけいず)』の早瀬主税(はやせ ちから)などでした。

世間にあまり知られていないのは、伊井がなかなかの蔵書家(集めたのは主に古書)で、ことに日本の古い演劇の資料の収集家だったことです。それが形になったものが、大正十三年(1924年)に出た『日本演劇の説』で、当時、聚芳閣(しゅうほうかく)という出版社をやっていた足立欽一(あだち きんいち)がすすめて、伊井に口述させたものでした。

また伊井は、あまりに人道主義者(じんどうしゅぎしゃ:人の幸せを何より大切に考える人)で、利益や欲の心がうすく、いろいろな場合に義侠心(ぎきょうしん:弱い者を助けようとする心)を出しすぎるのが、よい意味での欠点でした。十三万円という借金もそこから生まれたもので、伊井は死ぬまでそれを気にしていました。享年六十二。日ごろ愛唱していた、 

 面白き夢の中にぞそのままに

 眠り入りたき人の身の上

――楽しい夢の中で、そのまま眠りについてしまいたい、人の身の上とはそういうものだ、という歌を口ずさみながら、昭和七年(1932年)八月十五日に永眠しました。

 

※ 享年六十二は数え年で、満では六十一歳でした。当時の十三万円は、今のお金にすると数億円にあたる大金です。『不如帰』の主人公の名は武男で、底本は「武雄」と書いています。

 

 

伊井蓉峰の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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