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市川左団次の生涯|大根役者から明治の大スターへ

市川左団次の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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大根役者

 

元治元年(1864年)、23歳の小米(こよね)は、師匠であり座頭である小団次の養子となって左団次と改名し、大坂から江戸の中村座に迎えられた。しかし、中村座の奥役に見込まれて江戸に来たのだったが、見物は彼の男ぶりの立派さに喝采するだけで、上方訛り(かみがたなまり)がひどく芸が未熟なのには「大根」呼ばわりをするのだった。しかも、翌々年の慶応2年(1866年)2月、一座が守田座に転じて『敷皮曾我』『鋳掛松』を興行中、養父・小団次は発病して5月8日ついに病没したのである。

急に保護者を失った左団次は、それきり劇場を休まざるを得なかった。気性の勝った養母は、舞台へ出れば「大根、大根」を食う養子の不甲斐なさにすっかり愛想をつかして、芝居関係者に会わす顔もないというので、柳島の植木屋の奥を借りて左団次を連れて引っ込んでしまったのだ。そして、「もうどんなことがあっても、東京の舞台を二度と踏んではなりませぬ、お前は離縁して大坂へ帰します」と左団次に言うのだった。

すると、ある日訪ねて来たのは、小団次の在世中親しく交わっていた河竹新七(のちの黙阿弥)である。左団次離縁の噂を伝え聞いて、ひどく心を痛め、養母を説得に来たのだった。

「まあ、私に三年の間お預け下さい。きっと役者にして見せます」

河竹は無理にも養母を説得させずには置かないのであった。

左団次を預かった河竹は考えたのである。彼はこれまで、容姿の美しいところから主に二枚目ばかり演じて、しかも失敗続きだった。今後は敵役に転じさせたらどうであろう――と。そして、市村座の正月興行『傾城草履打』に牛島主税を演(や)らせたのである。慶応3年、彼の26歳の時だった。

しかし、河竹の深慮にもかかわらず、左団次の芸は依然として上達が見えない。すると年号が明治と改まった8月、『葛の葉』で彼に振られた与勘平の役から、一座の中で悶着が起きたのである。興行主の河原崎権之助が、彼の不評に堪りかねて、菊五郎(五代目)に振り替えたいと言い出したのだ。あくまでも左団次をかばう河竹は、自分の作品であるだけになお頑として承知しない。とうとう左団次を伴って市村座を退き、守田座の座主・勘弥に交渉して、翌・明治2年正月からは同座へ出勤するようになったのである。

これほどまでに自分のために尽くしてくれる河竹の恩義を思えば、左団次は己の芸道の精進はまだまだいい加減なものだと、強く発奮するのだった。朝食に粥(かゆ)を喫するだけで、劇場では一切断食だ。閉場して男衆と共に柳島まで徒歩で帰り、夜食を終えると妙見(みょうけん・妙見菩薩)へ裸足参りをして、芸の上達のために心身を練磨するのだった。

それでもまだ駄目だった。3月の『敷島物語』で源四郎を勤めて、上方訛りが抜け切らぬところから、敷島の田之助とお爪の仲蔵からは小言を食う。家に帰ると養父の名を辱めるものだと叱られて、一言も答えることが出来ないのだった。

だが、やがてその努力の効は次第に現れて来た。『湖水渡り』の宅間玄蕃、『弁天小僧』の南郷力丸などは、これまでにない好評を得ることが出来たのだった。

 

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名優の人格

 

河竹が左団次を引き取ってから、ちょうど三年経っていた。河竹は、今こそ油の乗りかかった左団次をして大飛躍させる絶好の機会だと思った。そして書き下ろしたのが、3年3月の『慶安実記』である。

一座の訥升(とっしょう)には金井の浪宅、芝翫(しかん)には有馬の温泉とそれぞれ持場を書いたが、左団次の丸橋忠弥(※原文は鞠ケ瀬秋夜)が四幕目・江戸城堀端での見開きを計る場面がなんといっても全篇の中心。訥升や仲蔵から役の苦情が出たけれども、河竹は心に期するところがあるものだから、いっこうに受け付けなかった。

そして、密かに左団次を呼んで、「今度もし不評ならば、共に劇場を退かねばならぬ」と励ますのだった。どうして努力を惜しんでいられよう。左団次も寝食を忘れて苦心を重ねた挙句は、お岩稲荷に祈願を込めるほど激しいものだった。

ついに初日が開いた。果たせるかな、忠弥は圧倒的な評判だった。

左団次は嬉しさのあまり、その夜はおちおち眠ることも出来ず、翌早朝、河竹を訪ねて批評を乞うのだった。すると、河竹は静かに頭を振って、「昨夜の舞台はちっともいけない――」と、とがめるものだから、彼はすっかりむっとした。

しかし、諄々(じゅんじゅん)と説く河竹の言葉に耳を傾けているうちに、彼は自分の至らなさを恥じなければならなかった。二日目の翌朝も三日目の翌朝も、客の人気はますます高まるにもかかわらず、河竹は相変わらずダメを出すのだ。左団次は、その度に新たな工夫に心身を燃やした。

やっと五日目になって、河竹ははじめて「今日はようござんすよ」と言った。その時の左団次の喜び! 後に彼は「あんな嬉しいことは二度と生涯にあるまい」と人に語ったという。この丸橋忠弥の役は、やがて左団次の家の芸となったのである。

この時から、彼の技量は内外に認められて、やがて先輩の九蔵が市村座を退いた後釜に据わってからは、彼の名は日増しに隆々と高まるばかりだった。

左団次と言えば、直ちに今の人か、その実父である先代を思い出すのが普通だ。(※当時の読者感覚において)。それほど、この名は先代から劇界に重きを成したのであるが、正確に言えば先代つまりここに語っている左団次は、四代目であり、従って今の人は五代目に当たるわけだ。しかし、三代と四代とは直接師弟関係も血縁のつながりもあるわけではない。ただ昔から市川家の中にあった名である左団次の養子になって継いだのである。

左団次は、中村勘吉という芝居の床主の次男として、天保13年(1842年)10月28日、大坂の島之内に生まれた。幼名を辰蔵と言い、兄の米蔵と共に座摩(ざま)や稲荷の子供芝居へ出ていたが、嘉永4年(1851年)、彼が10歳の時に父が死んでからは、共に兄に養われた。米蔵はのちに寿三郎と名乗った小劇場の座頭役者、弟の福蔵はのちに荒次郎と言って半道敵(はんどうがたき:コミカルな敵役)をよくした。

安政元年(1854年)、彼は兄と共に小団次の門に入って小米と改名した。さらに、文久2年(1862年)、市川若升(わかます)と名乗って旅へ出、帰阪してからは座摩の子供芝居に出ているうちに、たまたま江戸・中村座の奥役が有望な少壮俳優を求めて来阪し、兄・米蔵に東行を勧めたが家事の都合で纏まらず、ちょうど用談の席へ出た小米の容貌・風采に眼をつけて江戸へ出ることを勧めたのだった。

彼は若い頃、白塗りの二枚目役ばかりやっていたが、素質を見るに鋭い河竹の注意で敵役に転じてから、次第に好評を博すようになったのだと言われている。端麗な容姿と明快な音調、派手でしかも嫌味のない芸風――。当時のいわゆる見巧者の中には、団十郎ほどの深みも菊五郎ほどの細かさもないと言って喜ばない者もあったが、時代物では団十郎のワキ役、世話物では菊五郎のワキ役という風に演じているうちに、彼の大衆的な人気は日増しに高まったのだった。明治の中葉に至って、ついに彼の名は「団・菊・左」と並び称されるまでになったが、明治36年(1903年)2月と9月に菊五郎・団十郎が相次いで亡くなってからは、劇界の人気を一身に背負って、『大盃』『籠釣瓶』などの新作を得意として出したのだった。

人格が高く立派だったことも、彼の人気を大きくした原因だった。初めて彼のために脚本を提供して劇作家になった松居松葉(のちに松翁)は彼を評して、「その謹厳なる品行方正なる点、不撓(ふとう)の精神に富む点、義侠心の豊烈なる点等々において、正しく梨園(りえん:歌舞伎界をはじめとする演劇関係者の社会や、その世界の人々)の紳士と呼ばれるに恥じない」と語っている。

無名時代の恩人である河竹黙阿弥に生涯変わらぬ恩義を感じて報いたことや、色々な逸話を残していることは人のよく知るところである。

その一つにこんな話がある。明治23年(1890年)、福地桜痴(ふくち おうち)が千葉勝五郎と結んで歌舞伎座を建てた時、団十郎・菊五郎には歌舞伎座出勤の迎えが行ったが、左団次は落ち目の勘弥のために新富座の犠牲になる覚悟かたく、幾度訪ねてもてんではねつけて会おうともしなかったと言う。

 

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劇場経営上の革新

 

しかしやがて、勘弥の商人根性に憤慨して左団次は新富座から離れた。明治25年(1892年)11月には、浅草にあった市村座が下谷二長町に移転し、初興行の時からそこの座頭となった。越えて26年には市村座が焼失して、彼は11月から多年の宿望である劇場の経営を企てた。それが明治座である。その後36年までの十年間、彼は同座を守って、東京では決して他の舞台を踏まなかった。竹柴其水(たけしば きすい)の新作を矢継ぎ早に上演していたのである。

明治36年に至って、経営困難から金主(きんしゅ:スポンサー)と紛擾(ふんじょう:争いごと)が生じて一時明治座を退いたが、翌37年それの解決と同時に再び戻り、劇場経営の大改革を断行したのだった。

「何百年の伝統と因習に凝り固まっている経営方法だからこそ、歌舞伎は年々衰えるのだ。この点では新興の川上音二郎一座を見習わなければならない」

と言うので、切符制度、初日前日の舞台稽古、仕切場を椅子テーブルに改める、小物その他の冗費(じょうひ:事業の継続や本来の目的に関係のない無駄な費用・経費のこと)を省く、等々の新しい制度を断行した。この点でも彼は先覚者の一人と言えよう。

しかし、折角の明治座の更生にもかかわらず、彼は同年2月『敵国降伏』の舞台を最後として胃癌で倒れ、しばらく赤十字病院で療養していたが、8月7日、ついに新富町の自宅で没した。享年63歳である。雅名(俳号)を高島屋莚升(えんしょう)と号した。

彼の美徳は、明治座という大劇場の座主と座頭とを兼ねていながら、決して権をほしいままにしなかったという点でも知られている。その点での逸話も相当多い。実子の小米にも決して好い役をさせず、名題(なだい:歌舞伎俳優の身分における幹部クラスの役者を指す)になるまでは、三階の大部屋で下回り同様に待遇した。この小米が莚升と改名し、父の没後、左団次の名を継いで、現在の名優(※二代目市川左団次)であることは知る人が多いであろう。

 

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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