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一休和尚の生涯|とんちの天才の裏に隠された厳しい修行と反骨の精神

一休和尚の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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門松や冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

元日の朝、屠蘇(とそ)機嫌で浮かれる京の町に、竹の先に髑髏(どくろ)をぶら下げた坊さんがぶらりと現れました。晴れ着の人々をかき分けて「これ、このとおり、このとおりだ」と触れ歩くこの人の名は、一休(いっきゅう)。とんちの天才として親しまれていますが、その半生は、苦労と辛酸に貫かれた苦学の歴史でした。

 

天の笠

一休といえば、すぐに滑稽(こっけい)、洒脱(しゃだつ)、頓智(とんち)の天才のように持てはやされています。彼の奇行に富んだひょうきんな逸話の多くは、三歳の子どもでも知らない者がないくらい、よく一般に知れわたっています。古今東西に、彼ほど大衆から愛され親しまれた人物はまれです。

元日早々、屠蘇機嫌でいい気持ちに浮かれている京の町へ、ぶらりと一休が現れます。肩にかついでいる竹の先には、どこかの墓場から拾ってきたらしい気味の悪い髑髏がぶら下がっていました。彼は、晴れ着を着飾っておめでたい気分に酔っている人々のあいだをかき分けて、「これ、このとおり、このとおりだ!」と、髑髏を打ち振ってわめきながら歩き回ります。「正月早々、縁起でもない」と人々がぶつぶつ小言を言うと、一休はさっそく得意の一句を返しました。

にくげなきこのされこうべあなかしこ目出たくかしくこれよりはなし

「ご覧なされよ。目の出た穴ばかりが残っているではないか。目出たくないわけがあるかね」

人々ははっと一休の言葉から、ひとしきり人間のはかない寿命を考えさせられて、正月の屠蘇気分に浮かれるどころではなくなってしまうのでした。

彼がある日、京の町を通りかかると、ある富豪の家で盛大な法要が営まれていました。仏前には山のような供え物が供えられ、多くの僧侶をもてなして歓待しています。一休はこの有様を通りがかりに見て、門前に立ち寄って食を乞いました。すると家の人は、彼の風体(ふうてい)が垢(あか)じみているので乞食坊主だと思い、紙に包んだ「おひねり」を与えて、邪険に追い返しました。その後しばらくたって、一休がきらびやかな法衣をつけてその家の前を通りかかったとき、また法要を営んでいるのに出くわしました。いたずら好きな一休がずかずかと門から入ってゆくと、家の人が大喜びで彼を上座に請じ、大いにもてなします。しかし彼は膳の上のごちそうには目もくれないで、黙って衣を脱ぎはじめました。そして衣をていねいに畳み終えると、その前に膳を供えて合掌したのです。家の人は一休の挙動をあやしんで見ていましたが、なぜそんなまねをするのかと、驚いてたずねました。彼はこのときとばかりに言いました。

「わしが先日の法事に参ったときには、破れ衣を着ていたので『おひねり』で追っ払われたが、今日は美しい衣をつけているので、大変にうまいごちそうにあずかっている。だが、これは僧侶のわしが尊敬を受けるためではなく、ただ衣の美しいのが尊敬されるためだと悟ったからだ」

もちろん家の人は顔を赤らめたまま、一語も返す言葉がありませんでした。

また彼が布教のために関東をさして毎日旅を続けていたとき、大名の行列に出会いました。彼が真夏の炎天に笠もかぶらず歩いているのを見て、大名が気の毒に思い、使いの者に笠を持たせて「なにとぞ古笠ですが、おかぶりください」と言わせました。一休は答えます。

「これはせっかくの思し召し、近ごろありがたいことでござるが、拙僧は天という笠をかぶっているから、暑くもなんともない。ともかくその笠はお返しいたします」

大名は不思議に思い、この坊主はただ者ではあるまいとなおも同道して、同じ宿に泊まらせました。そしてまた使いをよこして、「この暑さゆえ、酒一献さしあげたい」と招きます。一休が辞退しきれないで大名の部屋へ入ってゆくと、たちまち大喝一声、

「これ坊主、なぜ笠を脱がずに参ったか!」

一休はすかさず、「天の笠を脱いでも、その掛け場がないから」と答えたので、大名もその頓智に感じ入ったということです。

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足利の悪世と僧侶の堕落

一休は、応永元年(1394年)正月一日、京の都のむさくるしい一民家に生まれました。名は宗純(そうじゅん)、幼名を千菊丸(せんぎくまる)といいます。おそれ多くも後小松(ごこまつ)天皇のご落胤(らくいん:身分の高い人が正妻以外の女性に生ませた子)であると伝えられています。母は藤原氏で、はじめは吉野の行宮(あんぐう:仮の御所)に従っていましたが、のちに南北両朝の和議が成るとともに後小松天皇にお仕えする身となりました。天皇は藤原氏の美しさとたぐいない才気をめでて深く寵愛(ちょうあい)され、ついに一休を身ごもるに至ったのです。ところが、「藤原氏は南朝の帝の恩に報いるため、常に剣をひそませて隙をうかがいたてまつっている」と讒言(ざんげん:人をおとしいれる告げ口)した者があり、このためすでに身ごもっていた藤原氏は無念の涙をのんで住み慣れた宮殿をあとにし、洛西のむさくるしい小屋にのがれて、一休の誕生を見たのでした。

一休が生まれた応永元年には、足利義満が将軍職をその子義持に譲り、自分は太政大臣に上って人臣の位をきわめていました。彼は花の御所を室町に開き、相国寺を創建して三百六十余尺の七層の高楼を築いて一世を驚かし、北山に庭園と池を設け、神鹿を放し飼いにして鹿苑院(ろくおんいん)と称し、有名な金閣寺を建てて、日夜この金殿に起居して、猿楽、田楽、茶の湯などの豪遊三昧(ざんまい)にふけりました。義持も義満に劣らない結構壮麗な、人の目を奪うばかりの銀閣寺を建てて豪華を競いました。

 

※ 銀閣寺(慈照寺)を建てたのは、義持ではなく、のちの八代将軍義政です。底本の『日本英雄伝』の記述をそのまま伝えています。

 

彼ら父子がこのような豪奢(ごうしゃ)にふけった結果、年々幕府の財政は窮乏し、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう:税をきびしく取り立てること)をほしいままにして、前代にほとんど十倍する課税を強いました。年々相ついで起こる兵乱の禍(わざわい)と重税のために、人民の怨嗟(えんさ:うらみ嘆くこと)は地に満ちていました。だが、上の好むところを下がまね、世はこぞって淫楽と奢侈(しゃし:度を越したぜいたく)の悪風に染まり、万民は腐敗のどん底に沈んでいたのです。しかも当時の宗教界は、ことごとく権門富貴の貴族階級に取り入って腐敗堕落をきわめ、宗教の正道はまったく地を払う状態でした。

このような時代に生まれ合わせた一休が、俗僧たちを尻目にかけて、権勢にへつらわず、名利を追わず、身は一蓑一笠(いっさいちりゅう:蓑と笠だけの質素な旅姿)、ひとえにおのれの修行と世の教化(きょうけ:教え導くこと)に一身をやつしたのは当然でした。彼が上は王侯貴族から下は子どもや使い走りの者にまで慕われ、たたえられたのは、決して滑稽や洒落のためではなく、彼の清く高い徳のためだったのです。

彼の一生はさながら自由無碍(むげ:何ものにもさまたげられないこと)、奔放自在な楽天家のように見えますが、事実は反対で、彼の半生は苦労辛酸に貫かれた苦学の歴史です。すでに六歳にして安国寺の侍童(じどう:寺に仕える少年)となり、十二歳のとき、清叟仁(せいそうにん)蔵主について教えを受け、東山の慕喆(ぼてつ)禅師からは作詩の法を学んでいます。その後、謙翁(けんおう)について関山派の宗風を受け、内外の経書と禅を学びました。謙翁に仕えること五年、翁の死後、華叟(かそう)師の門をたたいて、二十二歳のときから九年間、あらゆる辛酸をなめて、悟りを求める修行に励みました。

そのころ彼は求道に熱心なあまり、顔色が青ざめて、さながら大病人のようになりました。同輩の僧侶たちはそれを見て、てっきり一休が恋わずらいをしたものと早合点し、相手は誰だ、ことによったら取り持ちしてもよいと言いました。当時の僧侶階級の堕落を語る一つの挿話です。一休はさっそく、

本来の面目坊の立姿ひと眼みしより恋とこそなれ

我のみか釈迦も達磨もあらかんもこの君ゆゑに身をやつしけれ

と返して、堕落僧の頭上に一大痛棒を食らわせました。恋どころか、彼は深刻な求道に悩んでいたのです。二十五歳のとき、盲目の女性が妓王(ぎおう)が髪を下ろして出家する場面の舞を舞う歌詞を聞いてその真意を悟り、二十七歳のとき、ある夕べ鴉(からす)の鳴き声を聞いて忽然(こつぜん)として大悟し、印可(いんか:悟りを認める証明)を受けました。それより華叟師のもとを去って天下を漫遊し、数々の奇行がありました。

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紫衣の身を悲しむ

ことに一休は、足利の暴政に塗炭(とたん)の苦しみをなめている下層階級に対して、深い同情を示しました。江波(えなみ)の鳥山村に六条某の領地がありましたが、久瀬(くぜ)という家老が強欲非道で百姓を虐待し、農具まで取り上げることがしばしばでした。百姓はその虐待に堪えかねて他領へ移住する者まで出ましたが、結局領主へ訴えるよりしかたがないというので、その訴状を一休に依頼しました。一休はすなわち、

又もまたとりてもきかぬ一村の農具残らずくせやとり山

と、したためて渡しました。百姓たちは意外に思いましたが、何はともあれ、これをお上へ差し出すことになります。この奇怪な訴状を一覧した六条某は一休の差し金であることを知り、さっそく久瀬某を罰して、百姓たちを安堵(あんど)させました。

一休の行動は一事が万事このとおりですから、彼が室町通りに法莚(ほうえん:説法の席)を開くや、法を聴く者は朝夕あとを絶たず、彼の徳望は四方に鳴りわたりました。帰依する僧俗は雲のように慕い集まり、布教のために南北に奔走して席の暖まる暇がなかったほどです。永享五年(1433年)、後小松天皇の勅召によって宮中に禅を説き、後花園(ごはなぞの)天皇も深く崇信されました。

 

※ 後小松天皇は応永十九年(1412年)に譲位しておられ、永享五年には上皇です。この年の十月に崩御されました。

 

彼が紫野(むらさきの)大徳寺の住持たるべき勅諚(ちょくじょう:天皇の命令)を拝して、辞退するに辞退しきれず、これをお受けしたのは文明六年(1474年)、八十一歳の老齢でした。時の帝は一休に紫衣(しえ:高僧に許される紫の法衣)を賜りました。しかし彼は「今になって紫衣の身を悲しむ」と言って、その光栄を喜びませんでした。彼はあくまでも俗世の波にただよいながら、深遠な教理を持ち前の風刺と諧謔(かいぎゃく:ユーモア)に託して広め伝えるのがおのれの任務だと悟っていたからです。彼はもったいぶった名僧知識面(づら)と地位を、極端に嫌悪していました。

彼は八十有余の高齢にもかかわらず、一日も安逸をむさぼることなく、ひたすら仏法の宣伝につとめました。文明十一年(1479年)にふたたび兵禍にかかり、輿(こし)に乗って泉州小島に乱を避け、次いで摂州各地の行脚(あんぎゃ)の途につきました。このとき、一休が乱を避けるために遠くへ旅立つことを伝え聞いた百姓たちは別れを惜しんで、彼が草庵を出てゆくとき、法衣の袖をつかんで離さなかったといいます。彼は行脚中、常に朱鞘(しゅざや)の木刀を携え、「似而非(えせ)坊主は、この刀のとおりである。表面はいかにも立派だが、中身は木刀である。こんな似而非坊主が横行しているではないか」と言って、僧侶の堕落をいましめました。

行脚の旅から帰ったのが文明十三年(1481年)です。彼は兵火に焼けた大徳寺の正門を再興し、庭園の池を掘るにあたって一門の僧侶を指揮してこれに従事し、人手を借りませんでした。そして落成の式を挙げていくらもなく病に伏し、薪村(たきぎむら)の酬恩庵(しゅうおんあん)で、忽然として眠るように入寂しました。文明十三年十一月二十一日、天寿まさに八十八歳でした。著書には『一休骸骨』『一休法話』『仏鬼軍』『狂雲集』などがあります。

髑髏をかかげて正月の町を歩いた人は、紫の衣を賜って悲しみました。とんちの裏にあったのは、腐った世の中を一人で正面から見つめ続けた、八十八年の静かな反骨です。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
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(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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