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伊澤修二の生涯|東京音楽学校の初代校長にしてグラハム・ベルの教え子

伊澤修二の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「八弥(やや)は、なかなかの器らしいぞ」

信州伊那(いな)の山あいの高遠藩(たかとおはん:現在の長野県伊那市高遠町)に、そう言ってたびたび目を細める老人がいました。藩士・伊澤勝三郎(いざわ かつさぶろう)の長男、八弥の母方の祖父です。この八弥が、のちの伊澤修二(いざわ しゅうじ)でした。

 

理八狂喜す

 

伊澤修二は、嘉永四年(1851年)六月二十九日に生まれました。伊澤家は家禄(かろく:藩からの俸給)がわずか二十俵二人扶持(ぶち)の、いわゆる「お切米(きりまい)」の家でしたから、八弥のあとに次々と生まれた大勢の子どもをかかえて、暮らしはまったく苦しいものでした。

 

※ 嘉永四年は西暦1851年です。底本の『日本英雄伝』は「一八五二」としていますが、換算の誤りです。

 

母・多計(たけ)の父は苦学力行の人で、独学で藩の祐筆(ゆうひつ:文書を書く役)をつとめ、のちに藩校の教師になりました。八弥は幼いころからこの人に手習いや素読を学びました。「八弥はなかなかの器らしいぞ」とは、この祖父がうれしそうにもらした言葉です。八弥は藩校の進徳館(しんとくかん)に学ぶかたわら、父に命じられるままに寺の和尚について、そろばんや測量の方法、算木(さんぎ:計算に使う棒)の使い方などを学びました。何にでも熱中して、奥の奥まできわめないではおかないのが、八弥の性格でした。したがって理屈っぽく、筋の通らないことを許さないところがあったので、人々は彼を「伊澤の理八(りはち)」とあだ名で呼んだものです。

貧しい武家の長男に生まれた者の苦労は、また格別です。早くから家計のために働き、弟や妹の世話をし、そのうえ学ばなければなりませんでした。進徳館を出るとまもなく、成績がよかったので進徳館の寮長を命じられ、一人扶持をもらうことになりました。それは、凧(たこ)や羽子板の絵を描くよりもはるかによい収入でしたし、いや、そんなことより、かねての希望である洋学の勉強もこれでできるでしょうし、伊澤家にとってこのうえない名誉でした。

 

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二十四歳の師範学校長

 

さて、天下のただならぬ風雲は、この山あいの小さな藩にもあわただしい余波を送りこんできました。藩主は早くもオランダ式の調練を始め、八弥を鼓手(こしゅ:太鼓を打って合図をする役)に採用しました。八弥は食事のあいだも箸で茶わんをたたくという熱心さで、たちまち太鼓の打ち方のすべてを会得し、木曽福島の代官から鼓手の指南役に招かれました。

慶応三年(1867年)、幕府の運命はまったく定まりました。八弥は十七歳で江戸の警備につくと、ひまを盗んで古本屋をあさり、『英話字書』を手に入れて、苦心惨憺(くしんさんたん)しながら、ウェーランドやギャラマの経済学の本を読みました。まもなく江戸を去って京都に上り、蘭学の大家・岩佐元圭(いわさ げんけい)の塾に入る紹介を得ましたが、天はまだ彼に時を与えず、藩主の帰国のお供を命じられて、やむなく京都をあとにしました。

明治二年(1869年)の秋、彼は外交官になろうという志を立てて、両親に打ち明けました。両親は喜んで許し、貧しいなかから大枚のお金をつくってくれました。

 笑謝雙親去向東

 男子何說囊中空

 十年志業將何恃

 不在千金在一忠

――笑って父母に礼を言い、東へ向かう。男子たる者、ふところが空だなどと言うものか。十年の志をとげるのに頼むべきものは、千金ではなく、この一つの心だ。これが、ふるさとを出るときの彼の思いでした。

 

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江戸ならぬ東京に出ると、彼は親戚の医者の家の下男になって、中原某(なかはら なにがし)という人について英語を学びました。けれども運命はなお彼に味方しません。普仏(ふふつ)戦争が起こって、中原は視察官の通訳としてヨーロッパへ渡ってしまったのです。彼は不運に屈せず、宣教師のカラゾルスについて英語を学ぶ機会を得ました。そこへ、思いもかけない吉報が舞いこみます。新政府は人材を登用する道を開くため大学南校(だいがくなんこう:東京大学のもとになった学校の一つ)を開き、各藩から大藩三名・中藩二名・小藩一名の割合で秀才を推薦させて教育しました。これを貢進生(こうしんせい)といいますが、一名を割り当てられた高遠藩は、三人の秀才のなかから八弥、すなわち伊澤修二を推薦したのです。

伊澤修二は、諸藩の俊才たちのなかでも持ち前の負けん気で抜群の成績をあげ、南校が廃止されて秀才だけに転入を許した第一番中学に入ると、浜尾新(はまお あらた)、平田東助(ひらた とうすけ)らとともに幹事に選ばれました。彼は感じるところがあって外交官の志望を捨て、一時は工学を志して工部大学校の校舎の建築にたずさわったこともありましたが、先輩や知人の忠告によって、またそのころ文部省に雇われていた宣教師フルベッキにもらった一冊の本に感動して意を翻し、欧米の視察から帰って熱心に教育事業を起こしつつあった文部大輔(もんぶたいふ:文部省の次官)・田中不二麿(たなか ふじまろ)の招きに応じて、愛知県師範学校の校長になりました。明治七年(1874年)、二十四歳のときです。

在職一年半で渡米を命じられましたが、このあいだに彼は、混沌としていた師範教育の世界のために『教育真法』という本を書いて指針を示し、付属の幼稚園をつくり、唱歌を教えました。幼稚園と唱歌の試みは、実に彼をもって始まりとするのです。

 

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グラハム・ベルと彼

 

明治八年(1875年)七月、教育の各科を調査する一行十六名は横浜を出帆してアメリカへ向かいました。小村寿太郎(こむら じゅたろう)、菊池武夫(きくち たけお)、目賀田種太郎(めがた たねたろう)らも一行のなかにいました。伊澤修二はマサチューセッツ州立の師範学校に入り、一般の学生と同じように教育を受けましたが、英語と唱歌はひどく不成績でした。校長は、日本とアメリカとでは音楽の土台が違うからといって、唱歌の成績を科目から外そうと言いました。けれども彼は例の負けん気でそれを断り、メーソンについて唱歌をくわしく学んだのです。

明治九年(1876年)、フィラデルフィアで独立百年記念の大博覧会が開かれました。彼はメーソンと協力して『一つとや』の日本の曲を出品し、銅牌(どうはい:銅のメダル)を得ました。日本の歌曲を海外に紹介した最初ではないでしょうか。この博覧会は、もう一つ彼に重大な贈り物をしました。それは、耳が聞こえず話せない人(底本の言葉では「唖者」)を教育するための教材でした。彼はそれを見て、話せない人にものを言わせることができるのなら、自分に英語を正しく教えることもたやすいだろうと考えました。そこで「視話法(しわほう)」をよくするグラハム・ベルを訪ね、自分の思いを述べたのです。ベルは当時、電話の発明に没頭し、ちょうどさまざまな発音の研究調査をしていたところでしたから、彼の願いを聞き入れて、熱心に視話法による英語の教育をし、同時に彼から日本語を学びました。この人こそ、有名な電話の発明者ベルで、この視話法がその後の彼の活動にどれほど役立ったか知れません。

 

※ 視話法は、ベルの父が考案した、発音するときの口や舌の形を記号で表して教える方法です。ベルが電話の特許を取ったのは、伊澤が教えを受けていたこの明治九年(1876年)のことでした。

 

州立師範学校を卒業したあとはハーバード大学に入り、物理学・化学・鉱物学・生理学・植物学・地質学を学びました。明治十一年(1878年)、父が危篤という電報を受け取って急いで波止場へ駆けつけましたが、一足違いで船に乗り遅れ、次の便で帰国します。横浜で父の死を聞くと、彼は桟橋に立って声をあげて泣きました。

 

 

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偉大な開拓者

 

帰国後の彼の活動はめざましいものでした。明治十二年(1879年)に東京師範学校の校長となり、同時に体操練習所の主幹を兼ねました。彼は学制の改革を計画し、案を立て構想を練るために、助力者とともに熱海に世間を離れてこもり、二週間で、教則の改正・試験法の改正・帳簿の改正などの項目に分かれた大改革案をつくりあげました。同じ年の暮れには音楽取調掛(おんがくとりしらべがかり)の長を兼ね、前に述べたメーソン教授を招いて、音楽を広めるための伝習生を募集しました。男子九名、女子十三名が集まりましたが、だれも西洋の音楽が何なのかを知らず、孤立無援のなかで、彼はあくまで初めの志を貫こうとしました。ある日、メーソンがバイオリンを弾くと子どもたちが狂喜して手をたたき足を踏み鳴らすのを見て、彼は心の中で叫びました。

「これだ。この子どもたちが大きくなったときには、きっと日本も音楽を理解するようになるだろう」

 

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明治十五年(1882年)、彼は調査の項目を改め、次のようにしました。一、日本の雅楽と俗曲を調べ、なお外国の音楽についてはイタリアとドイツの音楽まで調査の範囲を広げること。二、高等な音楽の取り調べを始め、日本と西洋の管弦楽を調べること。三、国歌をつくるための資料を調べること。四、俗曲を改良して、民間の音楽を進歩させること。五、音楽伝習所を設けること。六、学校の唱歌をいっそう発達させるために楽譜や唱歌を選んで本を出版し、楽器を広めること。その行き届いて適切なこと。彼のような開拓者を得て、はじめて日本の音楽界は正しく生み出され、育てられ、導かれたのです。

明治十五年から二十一年まで、音楽を広めるための伝習生は四十余名を数え、全科を卒業した者は二十名にのぼりました。彼らは全国に散って、日本の音楽界の夜明けの活動をしたのです。その後、彼は文部省の編輯局(へんしゅうきょく)に移りましたが、たえず音楽界を助け、日本音楽会を設けて、その普及と発展に貢献しました。明治二十年(1887年)には多年の宿願がかなって東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽学部)が創立され、彼はその初代の校長となりました。

彼の活動はもとより音楽の方面だけにとどまりませんでした。一方では教育の全体にわたる改正・普及・振興の仕事に尽くして休むひまもなく、あるいは盲唖学校(もうあがっこう:目や耳の不自由な子どものための学校)の校長、市会議員、雑誌『国家教育』の主筆、台湾総督府の学務部長、東京高等師範学校の校長をつとめ、その生涯のこまかな事績は、大きな一冊の本によってはじめて語りつくせるものです。明治三十年(1897年)、勅選で貴族院議員に列せられ、帝国教育会の名誉会員に推されました。明治三十六年(1903年)には楽石社(がくせきしゃ)を興しました。その事業は、日本語・英語・ドイツ語・台湾語などの正しい発音の伝習、方言のなまりや吃音(きつおん:どもり)の矯正、話せない子どもにものを言わせることなどでしたが、やがて吃音の矯正が主なものになっていきました。昭和十一年(1936年)までに、楽石社で吃音を矯正した人の数は一万をこえるに至っています。

大正六年(1917年)五月、この創意に満ちた教育家、偉大な開拓者は、六十七歳で亡くなりました。

 

※ 亡くなった日を、底本は「五月二十七日」としていますが、一般の年譜では五月三日です。

 

 

伊澤修二の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。また、記事内の挿絵はAIが文章を読み込んで自動生成したものです。そのため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがありますが、あたたかい目で見守っていただければ幸いです。

 

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