明治三十八年(1905年)一月二十五日の午後。満洲(現在の中国東北部)の凍りついた原野で、ロシア軍の大進撃がはっきりと見えてきました。
グリッペンベルク大将の率いる大軍が、ミシチェンコの大騎兵団と手を組み、合わせて十二個師団半という兵力で、日本軍のいちばん左端を一気に突き破り、全軍の背後へ回り込もうとしていたのです。
その左端、七里(約二十八キロ)あまりの正面を受け持っていたのは、騎兵八個連隊を主力とする、わずかな兵の支隊でした。本来なら七個師団が必要な広さです。支隊の全滅は時間の問題——そう思われるほど、戦況は不利でした。
しかし支隊長は、動きませんでした。降りしきる雪よりも激しい銃弾と砲弾を浴びながら、日本軍全体を守るための捨て石になることを引き受け、「固守せよ!」と命じ続け、一歩も退かなかったのです。
秋山好古(あきやま よしふる)。「騎兵の秋山」と呼ばれ、和製ヒンデンブルクと言われた人でした。
和製ヒンデンブルグ
秋山好古は「和製ヒンデンブルク」と言われました。騎兵科の出身で大将になった人としては、当時の参謀総長・閑院宮載仁(かんいんのみや ことひと)親王に次ぐ存在です。目の光は鋭く人を射て、いかにも武将らしい顔をした、典型的な武人でした。上原勇作(うえはら ゆうさく)元帥は、かつて彼をこう評しています。「典型的な古武士の風格のある武将で、もうこの後、ああいう人間は出てこないだろう」。
彼は、海軍中将で亡くなった謀将・秋山真之(さねゆき)の兄です。安政六年(1859年)正月、伊予松山(現在の愛媛県松山市)に、秋山久敬(ひさたか)の三男として生まれました。
のちの猛将も、幼い頃はひどい泣き虫で、体も弱かったようです。兄弟が多くて家計が苦しかったため、学費のかからない大阪の師範学校に入りました。ただし入学できるのは十九歳からです。彼は十六歳を十九歳と偽って入りました。卒業後は名古屋師範学校附属小学校の教員となり、月給二円五十銭をもらいます。しかし先行きに明るさが見えないので、陸軍に入ることを志し、翌年、陸軍士官学校に入学。明治十二年(1879年)十二月、騎兵少尉に任官しました。

明治十八年には陸軍大学校を第一期生として卒業し、フランスに留学して、騎兵科の人材として早くから期待されます。日清戦争では騎兵第一大隊長として出征し、各地を転戦して功を立てました。なかでも土城子(どじょうし)での白兵戦は有名で、彼の勇名をとどろかせています。戦後は中佐に進んで乗馬学校長となり、学校が騎兵実施学校と名を変えても、彼は大佐になってもそこを動きませんでした。この四年間に、実施学校は騎兵の編制、戦い方の原則、武装、訓練などを徹底的に研究します。その成果は騎兵大隊の連隊への改編という形になり、「騎兵の秋山」の名は、しだいに陸軍の中に知れわたっていきました。
北清事変(義和団事件)には第五師団の兵站監(へいたんかん:物資の補給を受け持つ責任者)として出征し、やがて清国駐屯軍の参謀長、さらに司令官に抜擢されます。天津にいた間に、時の直隷総督・袁世凱(えん せいがい)と手を結び、まさに結ばれようとしていたロシアと清国の条約を探り出して成立させなかった功績は、大きなものでした。在任二年、明治三十六年(1903年)の春、騎兵第一旅団長に栄転して中国北部を去りましたが、このとき日本とロシアの外交は、ひどく緊迫したものになっていました。

日露戦争の騎兵戦
明治三十六年九月、ロシア軍はシベリアのニコリスクで陸軍の大演習を行いました。秋山はその視察に派遣されます。見学や訪問を名目に、ウラジオストクの軍港、ハバロフスクの軍事施設、ハルビンの補給施設、旅順の配備などを見て回り、「日露の開戦は近い」という確信を持って帰国しました。
年が明けて明治三十七年(1904年)、ついに日露戦争が始まります。彼は自分の旅団を率いて出征し、遼東半島の張家店に上陸して第二軍に加わり、敵のミシチェンコ騎兵団と向かい合いました。ミシチェンコの騎兵団はコサックの精鋭を誇るもので、馬もよく、兵もよく、将もよい。敵はこれを頼みにし、日本軍はこれを恐れていました。秋山の豪勇は、少ない兵でつねに多い敵に立ち向かい、ミシチェンコについに名を上げる機会を与えませんでした。数多い戦いのなかでも、とくに功績が大きいのは、沙河(さか)の会戦と黒溝台(こっこうだい)の会戦です。
明治三十七年十月、ロシア軍は遼陽を奪い返そうと大攻勢に出ました。右翼の黒木軍は本渓湖で苦戦して軍旗山の陣地を奪われ、中央の野津軍も三塊石山で大夜襲をかけても戦況はよくならず、左翼の奥軍だけがかろうじて前へ進める、という状態でした。従軍していた外国の記者が「日本軍の危機」と報じるほどの危急です。
このとき、いちばん左端から断固として前に出たのが、秋山の率いる騎兵旅団でした。敵の右端を衝こうと四日間走り続け、渾河(こんが)の岸に迫ったとき、思いがけず出くわしたのがコサック騎兵およそ二個旅団。日本側の二倍の兵力です。秋山はこれに攻撃を命じ、猛襲して勝ち、追いかけて、ついに遠く黒林台の北へ追いやりました。これが沙河の会戦です。以後、両軍は沙河をはさんで年を越し、世にいう「沙河の対陣」となります。
この対陣で、秋山の騎兵団は、騎兵八個連隊を主力とするわずかな兵で、左端の七里あまりの正面を受け持ちました。本来なら七個師団が要る正面です。これは驚くべき冒険であり、同時に、旅団長・秋山の器の大きさを物語っています。しかし、ここが弱点であることを、ロシア軍が見抜けないはずがありません。
翌年一月下旬、グリッペンベルク大将の大軍がミシチェンコの大騎兵団とともに、合わせて十二個師団半で秋山の正面を一気に突き破ろうと、堂々と渾河を渡り、雲のように押し寄せてきました。日露戦争で最大の苦戦といわれる黒溝台の会戦が、こうして始まったのです。

一月二十五日午後、ロシア軍の進撃がはっきりし、秋山支隊は必死の防戦に陥ります。満洲軍の総司令部は、はじめこの戦況を重く見ていませんでした。しかし事態が明らかになるにつれて危機を痛感し、総予備隊であった立見(たつみ)中将の第八師団を急いで救援に向かわせます。けれども最前線は、その救援が着く前に、積み上げた卵のような危うさにありました。支隊の全滅は時間の問題——それでも秋山は動かず、冒頭に記したとおり「固守せよ!」と命じ続け、一歩も退きませんでした。
二十六日、立見師団は強行軍の末にようやく前線に着きましたが、そのときすでにミシチェンコの騎兵団が左の側面と背後に迫り、師団は身の毛のよだつ危険にさらされていました。二十七日、敵の攻勢はいよいよ激しくなります。秋山支隊は全部隊を前線に出し、後方には一兵も残しませんでした。総司令部は木越(きごし)中将の第五師団をさらに送り、臨時に立見軍を編成しましたが、戦況は変わらず、秋山支隊はなお死線をさまよっていました。二十八日、支隊の中央の拠点・小台子(しょうたいし)が敵に包囲され、ついに奪われます。この悲痛な知らせが支隊司令部に届いたとき、秋山はただうなずくだけで、眉一つ動かさなかったといいます。
そして二十九日。日本軍が攻勢に転じることを恐れたロシアの総司令官クロパトキンが、突然、退却を命じました。ロシア軍は潮が引くように去っていきます。日本軍はただちに追撃に移り、秋山支隊の勇名は、歴史の上に燦然と輝くことになったのです。

物事に頓着しない性格
知恵とはかりごとの点では、秋山はあるいは弟の真之に一歩譲ったかもしれません。しかし兵を指揮させれば、まさに典型的な豪将でした。
その一面が、身の回りのことにまるで頓着しない性格です。本当かどうかはわかりませんが、ふだん歯を磨かなくても平気で、日露戦争中はわずか三回しか風呂に入らず、体じゅうに虱(しらみ)がわくにまかせ、暇があれば柱に背中をこすりつけて痒みをしのいでいたといいます。
のちに朝鮮軍司令官だった頃には、伝染病が流行して蠅がたいそう恐れられていました。ところが彼は、ビールを飲むのにコップの縁に蠅がとまるくらいは何ともせず、ビールの中で蠅が泳ぎ回っていても平気で口に入れ、指で一匹ずつ口から取り出していたそうです。向かい合っていた者は見るに堪えず、顔をそむけて早々に退散したとのこと。秋山の豪快さが、目に見えるようです。

武人より教育家へ
戦後、騎兵監になりましたが、明治四十年(1907年)、オランダのハーグで第二回万国平和会議が開かれると、専門委員として派遣されました。会議は結局、空論に終始します。そのときの一つの逸話——ある日、委員会の席で雷のような鼾(いびき)が一隅から聞こえてきました。見れば、日本の秋山少将その人でした。
帰国した翌四十二年に中将に進み、第十三師団長、近衛師団長を経て、朝鮮駐箚(ちゅうさつ:駐屯)軍司令官となり、ここで大将になります。次いで軍事参議官として中央に戻り、大正九年(1920年)十二月に教育総監となって、三年務めたのち、大正十二年三月に軍人としての生活を終えました。当局は彼を元帥に推すつもりだったそうですが、彼はこれを辞退したと伝えられています。
予備役に入ると、彼は郷里の人々の頼みを受けて、松山の北予中学校の校長になりました。「欧米では大統領でも大臣でも大将でも、退職したからといって家に引きこもらず、みな進んで弁護士や教師になって、死ぬまで働く。自分もそうしたい」——これが彼の持論で、いま、その言葉どおりに実行したのです。秋山校長は勤勉そのものでした。大正十三年二月の就任から昭和五年三月の辞任まで六年間、一日も遅刻せず、一日も休まず、人々は彼の出勤で時計を合わせたといいます。
七十二歳のある日、御坂峠に登って帰る途中、ふと左の足の指から股の外側にかけて、うずくような痛みが走りました。この不調が思いのほか長引き、学校を休むようになります。彼はもう時期が来たと感じ、校長を陸軍中将の烏谷章(からすだに あきら)に譲って辞めました。そして北海道十勝の牧場を見るために松山を発ち、東京に着いたとき、足の痛みが急に激しくなります。医師の診断は糖尿病、そして脱疽(だっそ:組織が壊死する病気)の初期でした。一か月の闘病の末、ついに脚を切断しました。しかし経過は悪く、昭和五年(1930年)十一月四日、休むことを知らなかった生涯を終えたのです。

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