「余は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、しこうして一切は神のために」
「僕が死んだらこの銘を、墓石に刻んでもらいたい」
若いころから、内村鑑三(うちむら かんぞう)は親しい人たちによくこう言いました。札幌農学校で「邪教を日本より払いたまえ」と神社に祈った青年は、やがて洗礼を受け、アメリカで信仰をつかみ、帰国して教会に属さないキリスト教を唱えて、三十年間一度も発行を遅らせなかった個人雑誌で世に訴え続けました。
時代の子
「余は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、しこうして一切は神のために」
「僕が死んだらこの銘を、墓石に刻んでもらいたい」
若いころから、内村鑑三は親しい人たちによくこう言いました。そこには「内村臭」といわれる一種の臭味がいささかなくもありませんが、イスラエルの預言者にでも見るような激しい個性的な彼の生涯を考えると、いかにも彼にふさわしい銘だと思われます。
彼は文久元年(1861年)三月、高崎藩士・内村宜之(よしゆき:通称金之丞)の長子として生まれました。
父は寡言にして端正、しかもひとかどの儒者でしたので、その子を厳格に育て、幼時から漢籍を教えました。内村鑑三の生涯を通じての高邁な精神と規律正しい生活態度とは、ここから生まれたのです。それに彼はきわめて明晰な頭脳の持ち主でした。こうした有為の青年を、明治の新時代の基礎的条件である個人主義の台頭しつつあるなかに置いて考えてみるなら、誰しも、彼が生まれるべくして生まれたということがうなずけるでしょう。彼は徹頭徹尾、広い意味での時代の子でした。しかもこの時代の子は、極度に純化された激しい個性であって、不検束な個人主義と怠惰な無知とに対する、仮借なき譴責者(けんせきしゃ:とがめ責める者)、きびしい教師だったのです。彼の多くの名著と、三十年間一回も発行期日を遅らせたことのない個人雑誌『聖書之研究』とによる彼の火を吐くような文章は、講壇上の熱弁と相まって、確かに一世の偉観といっても過言ではありませんでした。「わが国においてキリスト教文学の代表として二人を得たり。いわく内村鑑三、いわく植村正久」とは、徳富蘇峰の言葉です。日本のキリスト教界はこのすぐれた二つの個性を生むと同時に、彼らによって育てられて、日本文化に少なからぬ影響を与えたのでした。

時代精神の大行進曲
彼の偉大さ、その特異な偉大さを知るには、著書を通じ、あるいは彼の無教会主義の主張と実行とを研究することも一方法ですが、彼の経歴をそのままたどることをも見逃してはなりません。明治五年(1872年)、すなわち十二歳のとき、彼は上京して英学塾に入り、二年ののち東京外国語学校(のちに東京英語学校と改称)に移りましたが、肺患のために一年半休学しました。全快して復校したとき、明治十年、札幌農学校の官費生募集があったのでこれに応じました。当時札幌には有名な宣教師クラークおよびハリスがいて、農学校第一期生はこぞって洗礼を受けていたほど、キリスト教的な雰囲気がみなぎっていたと底本はいいます。
彼はこの有様を見ると、札幌神社に「邪教を日本より払いたまえ」と祈願したのですが、ひとたびその教えにふれると、そこに反対すべき何らの理由もないのを認めて、翻然と洗礼を受けました。彼の精神は、個性の自由と尊厳とを重んじる宗教によって点火されたのです。彼は寄宿舎内の聖書研究会の指導者となり、明治十五年(1882年)に至って、彼が中心となって、宗派を超越する独立基督教会を創設しました。これが、かの宣教師ジェーンズを中心とする「熊本バンド」、ブラウンおよびバラを中心とする「横浜バンド」と並び称される「札幌バンド」です。
こうした宗教的活動とともに彼の勉学はきわめて規則的で、試験の一週間前はまったく休養して好きな散歩に過ごしたほど、平常の準備ができていました。その成績は前後にないといわれたほどの好成績で、兵式教練と製図を除けば全課は満点に近かったのです。首席で卒業すると同時に「御雇教師」となり、賞金を付与されました。その賞金によって彼は漢訳の聖書マルコ伝四巻を買って父に贈りましたが、儒学者の父はその四巻を読んで、子とともにキリストの弟子たることを決心し、一年後には進んで洗礼を受けてクリスチャンとなったのです。
明治十五年、上京して津田仙の農学社に教鞭を執り、翌十六年には農務省嘱託として水産課に勤務しました。先に北海道にあるとき、開拓使御用掛を任命され、北海道の水産調査に従事して、鮑(あわび)の繁殖状態を研究調査して北海道水産事業に大いに貢献したことがありました。彼が農学校で選んだ科目は動物学および水産学でした。それは、当時まったく顧みられなかった水産方面の研究を自ら開拓して、海国日本に尽くすところがあろうとの熱意によるものだったのです。
明治十七年(1884年)は、彼の最初の「苦い盃」をなめた年です。すなわち彼はその最初の結婚に破れました。懊悩(おうのう)の末、意を決して渡米し、ハリス師の紹介によって、ペンシルベニア州の知的障害児の施設(底本は当時の言葉で「州立白痴院」と書いています)に勤めました。しかし彼の志は学問研究にあって社会事業方面にはなかったので、アマスト大学に学費補助の特典を得て、その選科生となりました。ここで歴史、ドイツ語、ヘブライ語、心理学、倫理学などを学びます。大学総長シーリーに愛されながら勉学に熱中するうちに、罪悪の問題について深く悩みはじめました。彼の場合、その苦悩は、その激しい個性、すなわち彼の存在そのものがその罪悪感によって根底からくつがえされざるをえない深刻な窮地におちいったことに原因します。彼はあいまいを許すことができない。これは彼の生か死かの問題にかかっている。個性と罪悪と神との問題が、彼の胸中で三つ巴となって渦巻いたのです。

魂の大飛躍
彼はこの苦悶を、尊敬する総長シーリーに訴えました。総長は言いました。
「君は、ちょうど植木鉢の植木をたびたび引き抜いて根を調べているようなものだ。そんなことをして植木はどうして育つことができよう。君自身をいかに掘ってみても、神との和らぎは生じない。十字架を仰ぎなさい。信仰のみが救いをもたらすものだ」
こうして、人はいかなる修養・善行によっても救われない、ただ信仰によってのみ救われる、というキリスト教の秘義を、彼はつかんだのでした。彼はここに大飛躍しましたが、この確信をさらに確固たるものとしようと決心してハートフォード神学校に入学したものの、ここで学ぶべきものは何ものもなかったので、明治二十一年(1888年)、日本の同胞の救いを期して帰国しました。
帰国後、彼はその機を得ずに、生活のため七つ以上の学校の英語あるいは地理・歴史の教師となって転々としました。わずか三か月の勤務で退職したこともあったほどですが、その多くは、横暴な宣教師と激論したことに原因がありました。彼の激しい、そして特異な個性は、しょせん教師の器ではなかったのです。またそのあいだには、天下を揺り動かしたいわゆる「不敬事件」なるものもありました。それは第一高等中学校講師時代、明治二十四年(1891年)一月のことで、教育勅語の奉読式で勅語の天皇の署名に対して宗教的な礼拝をしなかったことを、ある仏教雑誌が御真影に対する不敬とゆがめて報道したことに端を発します。
これは当時の仏教対キリスト教の対立抗争を示す好個の一挿話でもありますが、その結果、世の迫害は彼の上に注がれ、そのため彼は極度の神経衰弱におちいったうえに、二度目の夫人を失うという「試練」を受けたのでした。しかもなおこのあいだにあって『基督信徒の慰め』ほか一巻の著書を書いて世に問うています。また『流竄録(りゅうざんろく)』『偶像の精神』『地人論』『警世雑著』『後世への最大遺物』および有名な英文の著書『余は如何にして基督信徒となりし乎』と『代表的日本人』を著しました。前者は欧米諸国に非常な影響を与えました。その事情は、クレマンソー、オイケン、ストリンドベリらの著書に引用されていることでも知られましょう。
明治三十六年(1903年)十月、黒岩周六を社長とする萬朝報(よろずちょうほう)において、幸徳秋水、堺利彦らとともに非戦論を主張して退社しましたが、その人類愛の上に立った平和論は、日本文化史上の一文献たるを失いません。萬朝報退社後はもっぱらその個人雑誌『聖書之研究』によって預言者的な警世の文章を発表して世人に訴えかけ、彼の弟子の一人の遺言によって建てられた会堂によって、「会堂を揺るがすと思われた」ほどの熱弁を振るいました。無教会論、キリスト再臨論の大旗を押し立てて傲岸な個性を発揮するさまは、ひとりキリスト教界といわず、キリスト教に興味を持つ者と否とを問わず、広く一般思想界に一種言いがたい新鮮な気を感じさせたものです。それは彼が、資本主義社会の根拠的な道徳原理である自由主義・個人主義のもっとも尖鋭な闘士であったからだ、と底本は説明しています。正宗白鳥も、「私は内村鑑三という人は、明治時代に生まれた特種人物として研究に値していると思っている」と言っています。また誰かが、彼に似通った哲学者を求めるなら、カントやスピノザでなくしてキェルケゴールやニーチェであろうと言ったことがあります。それは、彼が体系的・理論的でなく、直観的に端的に感じ主張するという点を指して言ったのでしょう。内村鑑三は昭和五年(1930年)三月二十八日、六十九歳で亡くなりました。
邪教を払えと祈った青年が、その教えの闘士になり、教会に属さず、国の勅語に頭を下げず、戦争に反対して新聞を辞め、三十年間雑誌を遅らせずに出し続けました。一切は神のために、という墓銘のとおりに生きた人の激しさは、好む者にも嫌う者にも、今も鮮やかです。


