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宇喜多秀家の生涯|関ヶ原で西軍主力として戦い八丈島へ流された豊臣五大老の真実

宇喜多秀家の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「畜生にも劣る行為ではないか!」

慶長五年(1600年)の夏、家康方につけと勧めに来た使者を、備前の若い太守はそう怒鳴りつけました。太閤の恩を忘れて幼い秀頼に背くことが人の道か、と。この人は関ヶ原で籠城を主張して容れられず、敗れて山中の洞穴に隠れ、薩摩へのがれ、八丈島で五十年を生きました。宇喜多秀家(うきた ひでいえ)です。

 

密使を斥(しりぞ)ける

慶長五年七月、石田三成ら豊臣恩顧の諸大名が、徳川家康を除こうとして兵を挙げました。このとき、宇喜多秀家もこの挙兵に参加していました。これを知った細川忠興は前田利長の内意を受けて、ただちに使者を秀家の陣に遣わしました。秀家の無謀の企てをいさめて、家康方につかせようとはかったのです。

「このたび豊臣恩顧の諸将たちが相謀って大事を企てられることは、ひとえに幼君秀頼公のおんためである。だが天下の諸大名たちはひたすら内府(ないふ:家康)の幕下に属して、おのおの戦功に励んでおり、高巣、福束、岐阜の城攻め、あるいは米野、河渡(ごうど)の戦い、すべて関東方の勝利に帰している。かかる破竹の関東勢を、いかでしばらくも関西方の勢力で支えられよう。利長卿はこの点をよくよく心得ておられるから内府の味方になりたまい、先に大聖寺の城を攻め抜いて、北国に威を振るいたもう次第である。秀家卿には利長卿とご同職の間柄であり、またもっとも親しいご縁者(秀家の妻は利家の娘)であるから、利長卿のお取りなしで内府へご忠節くださるならば、御家の繁昌、武運の長久疑いなく、行く末ともに万々歳である。もしあくまで石田方へご一味なさるならば、御家の滅亡は火を見るよりも明らかでござる。この道理をよくよくご思案あって、悔いを将来に残されぬご用意が肝要でござろう」

と、忠興の使者は赤心を面に現し、利害得失を説いて忠告しました。秀家は苦虫をかみつぶしたような面持ちで使者の口上を聞いていましたが、

「利長をはじめ、その方の主人忠興はもとより、すべて太閤在世中の恩義を忘れて内府の味方となり、幼君に背きたてまつっている。これがいったい、人間の正しい道であろうか。また世の中の道理をわきまえている人間なら、あざけり憎むべき裏切りを、ぬけぬけとはばかり気もなく他人に勧められるべきことではない。人として知行財宝を欲せぬ者はないが、末代まで不義不逞の徒とののしられながら、いかほどの知行財宝を積んだとて、それが何になろう。畜生にも劣る行為ではないか!」

と、手ひどくきめつけました。使者はもちろん返す言葉もなく、すごすごと引き下がったのです。

秀家は備前の名族で、父直家の没後、まだ幼少であったために、秀吉からわが子のように育てられて成人しました。長じて父の封を継ぎ、備前・美作五十七万四千石の太守となりました。朝鮮出兵の役には三奉行の随一として大いに戦功を立てています。その役の初めに、小西行長が壱岐の風本から抜け駆けして釜山浦へ一番に攻め入りました。このとき秀家は総帥として第八番目の軍列にありましたが、行長との平常の親交を思い、かつ行長が万一にも敗れるようなことがあったら日本軍の恥辱になると言って、ただちにあとを追って出船し、行長の行動をそれとなく援護し続けました。このように秀家は友人にも信義の厚い武将でしたから、一切の打算を超越して、秀頼のために太閤の遺嘱を果たそうとしたのです。彼は太閤の死に臨んで、ほかの大老たちとともに、幼君秀頼へ奉公専一たるべき誓書を捧げていました。彼はその誓約を守るためには、一身の利害を顧みるところがなかったのです。

 

※ 底本の『日本英雄伝』はこのとき誓書を捧げた相手を「徳川秀忠、前田利長等五大老」としていますが、五大老は家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家の五人で、秀忠は大老ではなく、利長が大老になるのは利家の没後(慶長四年)です。

 

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必勝の作戦

関東勢が早くも岐阜城を攻略し、続いて赤坂に侵入しようとする勢いを見て、三成は折から伊勢にあった秀家に急使を馳せて来援を求めました。秀家は手勢一万をまとめて、急遽大垣へ入城します。すでに家康の赤坂着陣を知って、三成は諸将を大垣城に会して軍議を開きました。このとき秀家は、「大戦はもはや近きにあり、速やかに安芸中納言(輝元)の援兵をうながし、本隊とともに東西から赤坂を挟撃するにしかず」と説きましたが、三成の用いるところとはなりませんでした。

家康は西軍の将が大垣城を固守することを恐れて、平野に誘い出して一挙に屠ろうとする作戦に出て、三成の居城佐和山を襲撃しようとする形勢を示しました。ここにおいて大垣城の軍議は二つに分かれ、秀家は籠城説を固持して、

「家康は必ず東軍の精鋭を集めてここに来襲するであろうが、城中の守備はすでに整っている。この堅城のもとに敵を疲れさせ、輝元の援軍を待って内外から攻め立てれば、味方の必勝疑いなし」

と説きました。だが三成は、

「敵の勢力はわが半数にも満たない。その劣勢を迎えて、出て戦うことなく、大兵を擁して守るような作戦は、いまだかつて聞いたことがない。もしそんな姑息な作戦に出れば、われわれに志を寄せている天下の諸将の意気を阻喪させることになる」

と答えました。大谷刑部、長束正家なども、今破竹の勢いに乗じている家康と野戦に事を決するのは無謀である、自重して大垣城に敵を迎えて疲れさせるにしかず、と秀家の説を支持しましたが、城中の諸将はほとんど三成説にしたがいました。ここにおいて秀家の籠城説は破れ、関ヶ原に出て戦うに決し、九月十四日の夜陰、雨をついて、全軍相次いで大垣城を出ていったのです。こうして乾坤一擲(けんこんいってき)、天下分け目の関ヶ原の戦闘が開始されましたが、秀家の予言にたがわず、西軍はもろくも一敗地にまみれ、三成、行長、恵瓊の三人は捕らえられて、六条河原でさらし首にされました。

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進藤正次の誠忠

秀家は関ヶ原に敗れたのち、家臣の進藤正次、黒田勘十郎の二人を従えて、美濃の粕川の谷へと落ちていきました。そして揖斐(いび)郡の白樫(しらかし)村(現在の岐阜県揖斐川町)というところまで行くと、突然、彼らの行く手に荒くれ男たちがぬっと立ちふさがりました。落ち武者の武具衣装などをはぎ取る、野武士か百姓どもの一群です。そのなかの首領らしい一人が、槍を取り直して秀家に迫りました。白樫村の浪人矢野五右衛門といえば、この界隈に名の響いた男でした。

「あいや、そこなる落人ども、命惜しくば、身の回り残らず置いていけ!」

と、彼はお決まりの凄文句で威嚇しました。このとき秀家は静かにあたりを眺め回しながら、

「見れば、そなたも武家らしい。人の窮状をあわれんでこそ武士のなかの真の武士だが、しいて欲しいというなら、その方の気まかせになりましょう」

と答えました。この物柔らかな態度に、矢野もにわかにさっきの無礼をわび、某の在所へお供しようと言って、村人の一人に秀家を背負わせ、自ら先に立って案内しました。こうして秀家主従は、矢野五右衛門の情によって裏山の洞穴のなかにかくまわれることになったのです。

だが家康方の捜索追及の手はますます厳重になるばかりで、一歩も外へ出られません。そこで家臣の進藤正次が一計を案じて、秀家の脇差鳥飼国次(とりかい くにつぐ)をもらい受け、本多忠勝の陣へ訴えて出ました。鳥飼国次の脇差は秀家が日ごろから身辺を離さず佩用していたもので、それを証拠に、彼は自分が秀家の首に手をかけ、死体は土中深く埋めて訴え出たと語ったのです。忠勝はなぜ検使を受けずに秀家の死体を埋めたか、と詰問しましたが、彼は「厚恩の主人であるから、たとえ自分で手をかけるとも、その首を敵に渡し、梟木(きょうぼく:さらし首の台)にかけるようなことはできなかった」と、まことしやかに申し立てました。家康も彼の一計に乗せられて、秀家を殺してきた功労を賞して家臣のうちに加えました。それで秀家捜索の手がゆるんだので、秀家はついに隠れ家を出て、島津をたよって薩摩へ落ち延びることができたのです。

その後になって家康は、秀家が島津にかくまわれていることを知り、進藤正次を召し出して詰問しましたが、彼は、「いかにも主君秀家を薩摩にのがさんとして詐言を弄した。この身を失わんことはもとよりの覚悟であるから、この上はいかようの重刑にでも処していただきたい」と、悪びれるところなく高言しました。家康は進藤の忠義の志に感じ入って、処罰するどころではなく、俸禄をそのまま賜って、何のとがめもしませんでした。

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薩摩へのがれる

秀家は家臣進藤正次の計らいによって無事に薩摩へ落ち延び、島津に身を寄せました。島津は徳川をはばかって、秀家を牛根(うしね:現在の鹿児島県垂水市)にかくまいました。秀家が薩摩へ無事落ち延びたことを知って、家臣のうちには旧主をたよって続々と薩摩へのがれてくる者がありました。秀家は家臣に対しても非常に情深い武将でしたから、備前・美作二州の多くの家臣からこのように慕われたのです。かつては豊臣五大老の一人として一世に輝く大守でしたが、今は島津の寄人です。彼をたよって落ち延びてくる家臣を養う資力が、彼にあろうはずがありませんでした。

しかしながら関ヶ原の一戦に敗れたとはいえ、もちろん彼もまた雄心勃々たる戦国の武将でした。彼は琉球国が長らく朝貢を怠ってわが国に礼を欠くとの消息を聞き知って、それに兵を出して志を海外に伸ばそうと決心したといいます。そしてひそかに船を借り入れ、少数の家臣を従えて牛根を出帆しました。だが途中で大風に遭い、船は破損して空しく引き揚げてしまいましたが、彼はこのときつくづく自己の不運を痛感して、天命には打ち克ちがたい悲運を悟ったのです。彼はそれっきり琉球への志を放棄してしまいました。

 

※ 秀家が琉球へ兵を出そうとしたという話は、底本が伝える伝承で、確かな記録はありません。

 

慶長八年(1603年)八月、前田利長を通じて島津忠恒から秀家隠匿の事情を訴え、かつ助命の願い出があったので、彼は死一等を減じられて、一族十三人を一団として八丈島に配流され、同十一年、八丈島へ流罪となって送られました。そして明暦元年(1655年)、八十四歳で没しています。秀家の流罪は世の常の島流しとは違って、その生活の物資は加賀の前田家から支給されていたのです。

 

※ 底本は「越前の前田家」としていますが、秀家の妻豪姫の実家である前田家は加賀(金沢)です。

 

畜生にも劣るとののしった相手の天下で、この人は五十年を島で生きました。首を取ったと嘘をついて主君を逃がした家臣と、敵の世になっても主を慕って薩摩まで来た家臣たち。関ヶ原に負けた大将のまわりに、こういう人たちがいたことが、この人の一生の答えなのでしょう。

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本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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