「これ皇学の骨髄である」
異端の書だ、著者を流刑にせよ、と林大学頭に裁断された一冊の本を、徳川斉昭は読み終えてそう評し、自ら「やまとごころ」と題を書きました。本の名は『倭魂』。著者は、妻子を人に預け、火事で蔵書も器財も失い、埃の中に座って本を読み続けた貧乏国学者でした。大国隆正(おおくに たかまさ)。国学を「本学」と呼び替え、幕末の志士たちの肝胆を鍛えた人の生涯です。
龍のあぎとの玉もとるべし
国学者大国隆正は寛政四年(1792年)十一月二十九日、江戸桜田の津和野藩邸に産声を上げました。父は今井秀馨とて津和野藩士でした。隆正は幼にして才気長け、十一歳当時、父に授けられた五十音図を見て早くもその音韻の面白さを感じ、「わが国音はわずかに五十の子母音ながら、その活用に至っては実に宇宙の間、万有の神理を包含するところの本源である」というようなことを考え、後年この道に名をはせる萌芽をすでに見せていました。文化三年(1806年)、平田篤胤の門に入ってはじめて古道学を修め、また昌平黌に入って古賀精里に業を受けました。彼は書画をも好み、画法を雪斎増山正賢に受け、また菊池五山らに交わってその詩会に列し、あまねく江戸の文人と交際して、村田春海について音韻学を修めました。文政元年(1818年)、二十七歳当時、彼は藩の許可を得て五年にわたって長崎に遊学しましたが、そのあいだ西洋の理学を吉尾権之助に質し、兼ねて梵書をも渉猟しました。また書法をも清国人某に問いましたが、
「貴国には自ら貴国の書法がある。いかに刻苦して清国の書法を学ぼうとも、その技能はしょせん清国人には及びがたかろう。けだし彼我おのおのその長所を異にするからである」
と言われて、彼は大いに悟るところがありました。去って石見国津和野に至り、のち江戸に還り、ついに本邦諸名家の筆跡を学び、自ら一家を成しました。
たてそむる志だにたゆまずば龍のあぎとの玉もとるべし
これは、そのころからにわかに文人との交際もやめ、もっぱら思いを国学の上にひそめ、大いに神代の古事、五十音図に係る諸書を研究してその絶妙の大理を闡明し、奮起して『古伝通解』および『矮屋一家言』の稿を起こそうとしていた隆正の、張りきった心境の切実な表現でした。彼はこうした強靱な意気込みをもって、次々と著書を世に公にしていきました。
文政十一年(1828年)、藩は彼に命じて大納戸武具役としました。固辞したけれども聴かれず、やむをえず受けましたが、しばらくして同僚某が私利をはかるのを見て憤り、ついに亡命して仕えませんでした。天保二年(1831年)に父が没した折なども、脱藩の身なので公然と振る舞うことができず、夜ひそかに帰宅し、また夜の明けぬ間にしょんぼりと去ったような有様でした。天保三年のころから、彼は諸所に居を変えつつも門生を集めて国典を講じていましたが、父の物故後の一家内はしだいに赤貧洗うがごとく、飢餓は四方から迫り、妻子を養う料にさえ乏しく、ために妻は二人の娘を連れて、その兄なる岡山藩の儒者井上忠民の家に身を寄せるような窮状でした。けれども本人の隆正はいっこうに閉口する様子もなく、塵埃に埋もれたなかに座り、近隣からのもらい物などで飢えをしのぎながら、晏然として書を読み、文章を書き、少しも屈する色がなかったので、「えらい人もあったもんだ」とみなうわさし合ったといいます。が、天は彼を試みることますます激しく、天保五年、神田佐久間町に起こった火は彼の家をも焼いてしまいました。しかたないからここに一家こぞって井上忠民の家へ転がりこみましたが、この井上家もまた隣家に起こった火に類焼しました。著書も器財もすっかり灰にしてしまった隆正は、しばらく門人の家にいましたが、ついに意を決して、大成を誓いつつ、単身大坂に赴いたのです。

「倭魂」騒動
以来、彼は京都・大坂に国学を唱道し、称して本教本学といいましたが、しだいに学業大いに振るい、教えを乞うもの陸続として学舎に満ち、名声しきりに顕れるに及んで、はじめて妻子を江戸から連れてきました。天保六年(1835年)、『兼好伝考証』が世に出ました。翌七年、播磨小野城主一柳侯に招かれ、その旨を受けて和漢学校「帰正館」を創設し、藩侯および藩士の子弟を教導しました。同十二年、小野藩を辞して居を京都に移し、その家塾を「報本学舎」と号しました。正三位前参議岩倉具集(ともあい:岩倉具視の養祖父)がその門に入ったのはこのころでした。嘉永元年(1848年)、隆正は姫路藩に招じられ、和学校好古堂に国典を講じました。和学校の教師斎藤守澄は彼の門人でした。また福山藩主阿部侯にも招かれ、老臣以下、彼の門に学ぶ者がすこぶる多いものでした。ここにおいて中国地方にて皇学に志ある者は、靡然としてみな隆正の高風を欽慕するに至りました。
と、ここに一騒動が持ち上がりました。それは福山藩の老臣たちが相謀って隆正に廩米七人扶持を給し、ひいて彼を客として迎えようとしたことに端を発しました。こうした議の起こっていたところへ、たまたま隆正の著した『倭魂(やまとだましい)』と題する書が藩侯に呈覧されたのです。侯はこれを藩の儒員たちに下して評論させました。ところが彼らはひどくこれを弁駁し、「もし殿にしてかくのごとき異端の書を信じ、かくのごとき学者を聘せらるるならば、我らは決して教育補導の任を尽くすことはできませぬ」と口をそろえて極論しました。この書は江戸駐在の儒員にも示されましたが、国元の者と同意見でした。が、国典に名ある前田夏蔭に見せると、一読して大いに隆正の学識に感嘆し、「もとより小異なきにあらざるも、皇国の本源実にこの書に述べるところのごとし」と言ってきました。すこぶる惑った福山侯は、これをさらに幕府の林大学頭に問いました。大学頭は筒井肥前、林図書之助、佐藤捨蔵らに示して評論させました。そして、「異端のはなはだしき、これに過ぐるものはない。よろしく平田篤胤の例にならい、書を焚き、著者を流刑に処するを至当とす」と裁断しました。福山侯はますます処理に苦しみました。と、この内議を耳にした前田夏蔭は大いに驚き、ひそかに救護の策を水戸藩士西野新治に謀りました。西野はこれをその主徳川斉昭に話しました。斉昭は福山侯に内諭し、しばらくその処分を猶予し、まずその書を見たいと言いました。しかるに筒井肥前らはその書を聖堂に隠匿して見せません。そこで斉昭は大阪城代土屋侯に託し、土屋侯は座摩の社司佐久良東雄に嘱し、東雄はこれを隆正に求めました。隆正は大いに喜び、門生にさらに一本を謄写させて呈上しました。斉昭は一読して自ら「やまとごころ」と題し、それを西野新治に与えて言いました。
「これ皇学の骨髄である」
西野は退いてこの評語を夏蔭に伝えました。夏蔭はまたこれを福山侯に告げたので、さしも錯雑した騒動も解消し、隆正は事なきを得ました。数日後、この顛末を聞かされた隆正はいたく驚き、かつ人々の知己の情に感激したといいます。当時の社会状態と、そのなかにおける隆正自身の名声・地位・力量などを反映する挿話として、興味深いものです。

嵐
嘉永三年(1850年)、隆正は関白鷹司政通に謁し、以来その門に出入りして皇典を講じるようになりました。同四年、津和野藩主も彼の学識をほめて彼を原籍に復させ、藩校養老館の国学教師としました。このころ、彼はわが古典を学ぶことを国学というのは妥当でないと弁じ、国学を改めて本学と称しました。嘉永五年、江戸に下りましたが、翌年の春、徳川斉昭に会見して先年の恩を謝しました。嘉永六年(1853年)六月、アメリカの水師提督ペリーが浦賀に来航すると、天下は唖然としました。ここにおいて『文武虚実論』六巻を著した隆正は、海防の要は虚文虚武を斥け実文実武を勉めるにあることを論じ、その本教の正なる旨を詳述し、倭魂の振起を痛論しました。そして一本を作り、これを斉昭に呈上しました。その秋、江戸を発して帰国しようとした彼は、駿河の原宿で大地震に遭い、交通が途絶して帰れなくなったので、また江戸へ引き返してきました。そして数日後、小石川の水戸邸に藤田東湖を訪うと、東湖は彼を見るなり、
「や、これはご無事で何より。実は某も、沿道の地に大地震あり死傷数知れずと聞いてひどく貴殿の身を案じていたところでござった。わが御主君においても、このあいだ出仕いたした折などは、隆正は途中にあったろうが、おそらくはこの災に罹ったのではなかろうか、もし不幸にして災厄に遭うようなことがあらばまことに惜しい人物であるが、といたくご心配の様子でござった。つつがなしとお聞きあらば、さぞお喜びでござろう」
とうれしげに言いました。隆正はその恩愛に感激しましたが、それから二年後の安政二年(1855年)に江戸の大地震で藤田東湖の惨死したことを聞いたときは、先の年のことを追懐して哀悼に堪えなかったといいます。
安政元年、米使ペリーのふたたび浦賀に来るあり、英船の長崎に来り、露艦の摂津近海に来航するあり、また吉田松陰ならびに佐久間象山らの志士の捕縛あり、内外の嵐いよいよ猛烈を加えようとするとき、彼は『本学挙要』二巻を著して日本の万邦に卓越するゆえんを述べ、大いに志士の義気を作興し、さらに『学運論』を水戸侯に呈し、もって志士の肝胆を鍛練させました。維新回天の宏業成るとともに、明治元年(1868年)、隆正は徴士となって内国事務局権判事に任じられ、民政年貢租税掛をも兼務しました。のち神祇事務局権判事に遷任しましたが、老齢のゆえをもってこれを辞し、臨時神祇局の諮問となり、三年、居を東京に移して宣教使御用掛となりました。明治四年(1871年)八月十七日、東京外桜田の旧津和野藩邸において没しました。享年八十。家訓のなかにはこんな言葉があります。
「忠とは君を思うまこと、孝とは父母を思うまこと、義とは筋道を分かるまこと、敬とは身をたもつまこと、まことを経とし相扶くるを緯とす。本につくまことは支那にていう忠孝貞これなり、相助くるまことは家内相助け、一村内同職相助け、本国中相助け、しかるのちには万国をも相助くべし……」
龍のあごの玉も取れる、と詠んだ人は、埃の中で飢えながら本を書き、焼かれた蔵書を一から積み直し、流刑の裁断を斉昭の一言で免れました。家訓の最後は「万国をも相助くべし」です。倭魂を説いた人の目は、国の内だけを見ていたのではありませんでした。


