水にだに浮くかろ石の軽ければ沈む時なき身のやすさかな
軽石のように軽い身だから沈むことがない、と詠んだ福岡の米屋は、古人の歌をまねることを「木偶歌(でくうた)」と呼び、「古人は師なり、吾にあらず。吾は天保の民なり」と言い放ちました。自分の心を種にして、古人に似ないことこそ古人に近い。没後三十年余り埋もれていたこの平民歌人、大隈言道(おおくま ことみち)を、明治三十二年に佐佐木信綱が見いだしました。
平民歌人
水にだに浮くかろ石の軽ければ沈む時なき身のやすさかな
和歌は平安朝このかた貴族の芸術として発達し、その後も有閑階級のもてあそぶのにまかせられて、いたずらに形骸を残し、久しく生命を失っていたのですが、江戸時代中葉以後、文芸復興の波に乗って新たに生気を盛り返し、俳句やほかの文芸とともに和歌は市井大衆の手に取り戻されました。こうして和歌の世界により広い視野と、より豊かな境地とが開かれ、わが文学史の上に輝かしい記念塔が築かれたのですが、この機運の先駆者となった人には戸田茂睡、賀茂真淵、小沢蘆庵、香川景樹、橘曙覧などがあり、そのなかで、その歌論に、作歌に、鋭い力と鮮やかな個性を発揮した点からいってその第一人者だと考えられる人に、平民歌人大隈言道があります。しかもこうした功績に輝く彼が、没後三十余年の長いあいだ埋もれていてその光を認められずにいたのを、明治三十二年(1899年)のころ、佐佐木信綱博士が発見したのでした。
生ひ立てるところ低くて谷の松みねの草にも及ばざりけり
という彼の述懐を思い合わせると、ひとしおのゆかしさを覚えます。
言道は寛政十年(1798年)、福岡薬院の家に生まれました。父は茂助言朝、母は刀工として有名な信国又左衛門光昌の娘でした。数代前から筑前福岡に住み、商いを営んでいたので、言道は通称を米屋茂助と呼ばれ、のち萍堂(ひょうどう)と号しました。父の言朝も商人ながら文雅のたしなみ深く、和歌や書をよくしました。言道は八歳のとき父に別れ、翌年また兄に別れ、子どものときにもう家業を継がなければならなかったのですが、商売が好きになれず、天分の赴くままに、藩の名家二川相近(ふたがわ すけちか)に師事して和歌を学びました。相近は歌のほかに書ができて今様を書いたので、言道はいずれもその教えのもとに才能と努力を傾けて、進境は非常にめざましいものでした。そのころ友人二、三人で郷里の近くの名島に出かけたとき、多々良の渡し舟のなかで、「向こう岸に着くまでに女の二人して鏡を見ているところを詠め」という難題に対して、
ます鏡そこにうつらふ影さへぞ君とわれとはむつまじげなる
と詠んでみなを賛嘆させたといいます。またそのころ大宰府に行ったとき、急ぐことがあって途中の友人を追い越そうとして笑われたので、歌で当意即妙の才気を示しました。
急ぎゆくこの道ならで何道か君に先だつ道のあるべき

因襲打破の運動
彼がその準備時代を過ぎると、三十四、五歳のころから壮年の意気とともに芸術についての自信も深められてきました。そしてそうした眼で当時の歌壇を見渡してみると、沈滞姑息の徒が多く、歌の真生命を没却して、いたずらに模倣と擬態を事とする傾向が多かったのです。そこで彼は歌道革新の旗幟を掲げ、敢然その新しい使命のために邁進することになりました。彼はまず運動の一つの方法として、新人を養成するのが急務だと考え、自ら研鑽すると同時に塾を開き、かつ自分の主張の宣伝に努めました。しかしあらゆるほかの因襲打破の運動とひとしく、これも手痛い反撃や排斥なしにはやれませんでした。たとえば藤田正兼一派などは、言道の歌が従来の旧派の規格にこだわらず、題材や表現の自由奔放なのを見て、卑陋とののしり破格とそしり、その主張を暴論であるとしてしきりに反対の矢を放ってやみませんでした。言道はこれらの駁撃に対し、鋭い批判の矢で報いました。たとえばその著『ひとりごち』のなかで、当時の一般歌人の歌をとらわれたえせ歌だと指摘し、真の歌というものは古人の糟粕をなめる模倣遊戯ではなく、自分の個性感情のありのままの表現でなくてはならぬと説いて、大胆率直にその真面目を発揮したのでした。彼は叫んでいいます。
「僕かりに木偶歌と名づけたる物あり、魂なくて姿も意も昔のものなり。かかる歌は千万首詠めりとも、籠にて水を汲むがごとし。当世の人の歌はこの籠を漏らざるは少なし。しかるにこの木偶、何年せば霊や入り来らむ。僕つらつら田舎人の歌を見るに、木偶にて世を終わる人多し。古人は師なり、吾にあらず、吾は天保の民なり、古人にあらず、みだりに古人に執すれば吾が身何八兵衛なることを忘る。意のうわべのみ大臣のごとくなりて、詠む歌さぞ尊きことにてもあるべけれど、そは賈人(こじん:商人)の冠袍を着たるなり。まったく真似にて、歌舞伎を見るがごとし。……真似ならば易きもの、歌舞伎役者も菅丞相になる。……善人たらんとせばまず心より始むべし、よき歌詠まんとせばまず心より始むべし。心を種としてわが歌を詠ずるに、まったく似ざるをもって古人に近しとす。古人によく似たるをもって、実は古人に遠しとす」
古人のよき歌が古人の真実真情の発露表現である以上、今人の真の歌がまったく古人のに似ないのが、実は古人の歌に近いものである、と辛辣に論敵の虚を突いたのです。彼はこの根本的見地から、歌は花月そのものを詠むのでなく、その花月に対する心をいうものであると言って、題詠の因襲にとらわれた一般歌人の歌を月花の講釈歌にすぎないと笑い、また福岡の人には福岡の地方色を詠んだ歌あるべきに、それがないのは何事ぞと慨し、人の面の異なるごとく、歌も詠む人々に似て別々であるべきだと、いわゆる個性の発揮を強調し、なお歌想歌境の無限無拘束に自由広汎なるべきを教え、ただまじめな事ばかりいうのは偏っている、と説きました。こうした理論はすべて当時の歌壇に対して痛烈な挑戦であり警告でしたが、同時に今日においてもなお十分傾聴に値する言葉であると底本の『日本英雄伝』は評しています。彼が当時の指導理論家としていかにすぐれていたかが分かるのです。こうして彼の歌論と歌境がいよいよ進展するにつれて、彼の二川流の流れをくんだ書道も独自の風格を表しはじめ、いわゆる言道流の一新生面を開いたことも注目すべきです。
だが時代はまだ彼を容れませんでした。彼の活躍は十分の反響を呼ぶことができず、彼の生活は寂寞と窮迫との境をついに出ませんでした。ただ、かの女流歌人として一世に名高い野村望東尼(ぼうとうに)が夫貞貫とともに言道の門に入ったのはこのころのことで、以来望東尼はもっとも熱心な、親切な彼の門弟として、また同志として彼とともに同じ道を進んでいますが、野村夫妻が当時この不遇の境涯にある言道を師として選んだ熱眼には、さすがに敬服させられるものがあります。天保七年(1836年)、三十九歳のころ、衰頽しきった家運のうちに家督を弟に譲って、自分は市外今泉村の池萍堂に引きこみ、煩雑な家事を避けてひたすら歌のため精進を続けることになりました。

家集の出版
そのころの窮迫を述懐して、彼はこんなに歌っています。
わが身こそなにとも思はね妻子らのうきて舟邊に憂きこの世かな
苦境はしかしこのころを峠として、いくらか緩和されてきました。その後、天保十年(1839年)、彼が四十二歳のころ、豊後日田の広瀬淡窓のところに行って漢詩文の教えを受けましたが、ここでも文藻を認められ、客分の扱いを受けたといいます。
彼が郷里に帰って、四十五歳を過ぎた弘化のころからは門人もしだいに多くなり、各地から彼の名声を慕って集まってくる者もふえ、歌会などが方々で催されるという様に、だんだん自適の生活も開けてきたようです。安政四年(1857年)、六十歳のころ、彼は自らの歌風を中央に扶植し、またその家集を刊行して世に問おうとして大坂に出て、中之島栴檀木橋(せんだんのきばし)のほとりに住み、家を観水居、室を鳧居室(ふきょしつ)と名づけ、歌塾を開きました。在阪十年、京阪のあいだに多少の門弟もできましたが、まだ十分に彼の急進的な歌風が認められず、緒方洪庵などを除いては大して名のある門人も出ませんでした。ただこのあいだ、彼はしきりに付近の名勝の地を尋ねて自然に対する観賞を深め、その詩腸を肥やしえた点では、むしろ幸福な歳月でした。またこの地で中島広足や萩原広道にも交わって知見を広めたほか、宿志であった家集『草径集』の刊行を達することができました。しかし慶応三年(1867年)、とうとう病気になって郷里福岡に帰り、翌明治元年(1868年)七月、七十一歳で世を去りました。法名萍堂言道居士、墓は福岡薬院の香正寺にあります。

豊かな天分
言道は温和な性質で、人に親しみやすく謙譲でした。また一方、飄逸洒脱な風格があって、その作品にもよくその個性が現れています。彼は即吟が得意で、したがって非常な多作でした。ある年などは毎日百首吟の自誓を立てたことがありました。そのうち子どもが生まれたりしたので、ただの一日だけ六十首だったほかは完全にそれを実行しとおして人々を驚かせました。こんな豊かな才能を持っていたのですが、しかも歌を作るとなると常に苦心惨憺して推敲を怠らず、その歌稿などは改刪添削の跡で原形をとどめないほどであるといいます。
風ふけば空なる星もともし火の動くが如く光る夜半かな
寒ければゐくぐまりたる嶺の雲たな引きてこそ秋は見えしか
唯一つ夜半の枕にまろび來し木の葉動きてさむき山里
數しらぬ魚の命は板の上の庖丁のあとにしるしぬるかな(俎板を詠める)
飛びにぐる翼たのみて山がらす人あなづりのわざのみぞする
歸り來てねての後さへ花見つつゆられて舟にある心地かな
聞えずばなほ聲高に道とはむこなたにゆくや志賀の山越
着想非凡、軽妙洒脱、平俗のうちに余情あり、洒脱のなかに涙あり、軽妙ななかに沈痛味あり、これらは実に彼の個性、彼の天稟(てんぴん)から来る独自の境地でしょう。彼の歌集としては『篠合集』『戊午集』『今橋集』『草径集』などがあり、歌論としては『ひとりごち』『こぞのちり』があります。彼はすこぶる多芸多能で、書のほか、謡曲も絵も文字摺りも篆刻も、それぞれ一家をなしていました。
俎板の上の庖丁の跡に、数知れぬ魚の命を見た人。天保の民として天保の心を詠めと言ったこの米屋の歌は、生きているうちには福岡と大坂の一角にしか届きませんでした。けれども三十年たって一人の学者が見つけたとき、軽石のように軽いその歌は、まだ沈んでいなかったのです。


