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大久保彦左衛門の生涯|徳川三代に仕えた「天下の御意見番」の痛快エピソード

大久保彦左衛門の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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三代将軍家光が、一人の老臣を呼んで言いました。

「その方の刀はあまりに長くて、さぞ立ち居にも不便であろう。ちと短くしてはどうじゃな」

老中たちが内々に願い出たのです。この老臣が、戦場で振るった長刀を帯びて登城しては、飾りの立派な短い刀を差した老中たちを「ちと美しすぎるようにもござるな」と笑うのが、たまらなかったのでした。

「はっ」と何食わぬ顔で御前を退いた老臣は、翌日、長刀の鞘を五寸ばかり切り、刃先をむき出しにしたまま、平然と登城しました。

彼の名は大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざえもん)。徳川三代に仕え、「天下の御意見番」と呼ばれた三河武士。その生涯に迫ります。

 

※注:底本の『日本英雄伝』は昭和十一年(1936年)の刊行です。この記事に出てくる逸話の多くは、江戸時代から講談や物語で語り継がれてきたもので、史実として確かめられないものが含まれています。彦左衛門自身が書いた『三河物語』が伝えるのは、三河武士の実直な生き方であり、「天下の御意見番」という姿は後世に作られた像でもあります。この記事では底本の記述をそのまま訳したうえで、各所で注を添えています。

 

天下の御意見番

 

「過ぎにし年月を思えば、まことに感慨無量じゃのう」

駿府城の中で、家康は久しぶりに会った彦左衛門を相手に、あれこれ昔話にふけっていました。

「いや、関ヶ原の合戦以来は世も静かになってきたが、あの一戦こそは、まことに予の生死の分け目だったわい。前には三成、後ろには景勝じゃ。されども敵めが、あの一戦に打ち負けて右往左往に逃げ散った有り様は、いやはや見苦しかったぞ。のう、彦左」

ところが彦左衛門は、家康の長話にすっかり退屈して、しびれを切らしていました。

「なるほど、あのときの敵の逃げ方も見苦しうございましたろうが、しかし、大御所が下野の小山におられた折、伏見の城から鳥居・内藤らが書状で『上方一円が敵となった』と告げてきたときの大御所のお顔も、蒼うございましたぞ。今はこのように太平に治まればこそ、蒼いお顔色も直り申したなれど」

遠慮なくそう言われて、さすがの家康も大きく笑い、「下がって休むがよかろう」と帰らせました。

 

※注:慶長五年(1600年)、会津の上杉景勝を討つため下野(現在の栃木県)の小山まで進んだ家康のもとに、石田三成の挙兵と伏見城の危急が伝えられました。「前には三成、後ろには景勝」とは、このときの挟み撃ちの形を指しています。

 

彦左衛門は天文十九年(1550年)、大久保忠員(ただかず)の八男として生まれました。十六歳のとき、兄の忠世(ただよ)に従って遠州の犬居(いぬい)城と高天神(たかてんじん)城で戦い、手柄を立てて家康の旗本に加えられます。それから何十度もの戦場を、家康とともに駆け回りました。大坂の役で功があり、大名に取り立てるという恩賞の話が出たときも、「それがしは恩賞を望んで御奉公はつかまつらぬ」と、あっさり三千石の小さな禄で満足した。そういう人でした。

 

※注:底本の生年「天文十九年(一五五〇)」は、記事末の享年八十と合いません。一般には天文二十九年(1560年)生まれとされます。また底本は父を「忠昌」と印刷していますが、振り仮名は「ただかず」で、大久保忠員のことです。彦左衛門の禄は、実際には千石から二千石ほどであったとされます。

 

家康は「彦左、彦左」と信頼して、言いたいことを言わせました。大事があるときは必ず加わらせ、「大事は必ず彦左をもって決を取れ」と命じていたほどです。それも無理はありません。彦左衛門の無理押しは、少しも私心から出たものではなく、みな天下を思う真心からのことでした。だから誰もが、その道理の前には頭を下げるしかなかったのです。

彦左衛門への信望は、家康の死後、秀忠・家光の代になっても衰えず、「天下の御意見番」としてますます高まっていきました。

大久保彦左衛門の生涯やエピソードを象徴するイラスト

たとえ春日局なりとも

 

ある夜のことです。将軍家光の乳母として、権勢並ぶ者のない春日局(かすがのつぼね)が、急な御用だといって駕籠を急がせて登城しました。城の門は次々に開かれ、駕籠を通します。ところが平川門まで来ると、「春日様の御登城、御門を急ぎ開かれよ」と供の者が声を荒らげても、門がいっこうに開きません。その夜の門番が、彦左衛門だったのです。

番の者が伝えると、「たとえ春日局が誰であろうと、深夜には通すわけにはまかりならぬと申せ」と、彦左衛門は寝たまま答えて知らん顔です。番の者は、ほかの人とは違う、こいつは後でえらいことになるぞと思いながら、びくびくしてその返事を伝えました。春日局は、では男たちは門の外に残して、女だけ二、三人通してほしい、と懇々と頼みましたが、彦左衛門はつんと黙ったままです。局は仕方なく、夜半から夜明けまで立ち明かし、ようやく登城しました。

あまりの口惜しさに、局は後で家光に一部始終を泣いて訴えました。すると家光は言いました。

「うむ。だが、あの彦左という奴はな、その方も承知のとおり、無分別者の強情者であるゆえに、その方はさておき、予自身であっても、きっと通すまい爺じゃ。まあ、あやつに出会ったのがその方の不仕合わせと思って、諦めてくれよ」

局も仕方なく、胸をなでて我慢しました。その後、家光は彦左衛門を呼び出して、それとなく黄金の佩刀(はいとう:腰に帯びる刀)を与えたといいます。

 

※注:この逸話は講談で広く知られたもので、史実として確かめられていません。

 

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鞘は切れども身は切らず

 

彦左衛門はいつも、戦場を駆け回った長刀を帯びて登城していました。老中をはじめ、世間の刀はだんだん短く細くなり、鞘や鍔の飾りの立派さを競うようなありさまです。彦左衛門はそれを皮肉な目で眺めては、痛烈にからかいました。

「各々方(おのおのがた)の御腰のものは、なかなか立派のようじゃが、ちと美しすぎるようにもござるな、はっは」

閣老たちは内心、腹に据えかねていました。しかし相手が相手なので閉口し、ひそかに将軍家光に「彦左衛門の刀を短くしてくださるよう」と願い出ます。そこで家光が、「その方の刀はあまり長くて、さぞ立ち居にも不便であろうから、ちっと短くしてはどうじゃな」と言ったのです。

彦左衛門は「はっ」と何食わぬ顔で御前を退き、翌日、長刀の鞘を五寸(約十五センチ)ばかり切って、刃先をむき出しにしたまま、平然と登城しました。

そして玄関脇に控えて大大名の登城を待ちます。やがて加賀の前田侯が威儀を正して現れると、わざと玄関正面の襖に寄り、「早々の御登営、御苦労千万に存ずるでござる」と、ばか丁寧にお辞儀をしました。そのとたん、刀の先がぶすりと襖を破ります。それをまた縦横に引き回したからたまりません。襖はすっかりめちゃめちゃです。

「やっ、これは、前田侯に礼をいたしたるため、襖を傷つけてござる」

戦場さながらの大声で怒鳴ったまま、彦左衛門はすっと消えてしまいました。困ったのは前田侯です。急いで家臣に襖を直させるやら、閣老に相談するやら、大あわてでした。

老中からこの一件を聞いた家光は、笑いながら彦左衛門を呼び出し、そのむき出しの刃先はどうしたのかと尋ねます。彦左衛門は急に態度を改め、襟を正して申し上げました。

「それがしの佩刀は、遠州高天神の戦い以来、神君(しんくん:家康)の御供をつかまつって、数十度の戦場を駆け回りました業物(わざもの)でござる。しかるに上様には、この刀を短くせよとの御意見。しかしながら刀は武士の魂、涙を呑んで鞘は切りましたなれど、身は切るに忍びず、かくむき出しにいたしましてござります」

上から下まで広がっている軟弱な風潮を、暗に諫めた言葉でした。家光はその真意を察して、静かにうなずいたのです。

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鶴の羹

 

ある日、家光は鶴の羹(あつもの:熱い吸い物)を食べました。ちょうど彦左衛門が出てきたので、「彦左にもやれ」と、次の間で彦左衛門にも鶴の羹を与えます。

食べ終わった彦左衛門は、また御前に出て、「鶴は私方にもたくさんございまする」と言いました。

「小身者のその方の所に、鶴がそうたくさんあるものか」

「いえ、ございまする。明日、献上いたしまする」

翌日、彦左衛門は白木の台に青菜を山ほど積んで献上しました。「これはまた、どうしたのじゃ」と訊かれると、「いえ、昨日、鶴と申されて頂戴いたしましたるは、みなこれにてございました」としゃあしゃあと答えます。近習の者に確かめると、彦左衛門が食べたときにはもう鶴はなく、菜ばかり残っていたと分かり、家光は腹を抱えて笑ったとか。

追従

 

彦左衛門があまりに悪口を吐き散らし、勝手気ままに振る舞うばかりで、老中のもとへは顔出しもしない。それを気に病んだ一門の者が、ある日、忠告しました。

「貴殿は上様の思し召しもよく、歴々にも敬われているから、ただ今のところでは、貴殿一代はそれで相済み申そう。さりながら、もし御子孫のことも思われるならば、人々の風に見習って、折節は御老中方へも御挨拶に赴かれるがよろしかろうが」

「なるほど、それはごもっともの次第」

というわけで、彦左衛門は翌日からいきなり老中回りを始めました。先方も彦左衛門の日ごろを知っていますから、「これはまた珍しき御出で」と重々しく応対します。すると彦左衛門は、がらりと開き直って言いました。

「当世は、もし各々へ追従(ついしょう:おべっか)いたさずにおれば、おのおの子孫のためにあいならざる由を承り、今日はそれがし、子どもや孫どもを不憫に思うのあまり、一生一代の追従にまかり出てござるわい」

頭から噛みついたのです。先方は目を白黒させるばかり。これが噂になると、老中たちは「また頭痛の種が一つ増えた」と苦笑しました。

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子孫のために美田を遺さず

 

彦左衛門は、自分はいつも倹約を旨とし、粗末な服を着て粗末なものを食べながら、たえず二、三百人の食客(しょっかく:家に置いて養う人々)を養っていました。家を傾けてまで彼らを養い、いざというときの備えを怠らなかったのです。欲がなく、身を捧げて天下のために尽くすところが深かったので、世の人は彼を「旗本肝煎(はたもときもいり)」と呼びました。

晩年に旗奉行となり、寛永十六年(1639年)二月二十九日、八十歳で世を去ります。その死に際して、家光は使者を送り、加増して一万石に封じる旨を伝えました。すると彦左衛門は、「私の存命中であれば御加増もありがたく存じ奉りまするが、このように重病を受け、十死一生の際に当たっては、御加増も何の用に立ち申しましょうや」と固く断って受けません。

使者は、「たとえ貴殿の用に立たずとも、それを子孫に譲れば、貴殿一代の面目も永久に伝えられようものを」と言いました。しかし彦左衛門は、「我らの子孫は、また彼らの功労にて加増を拝領すればよし。譲るには及び申さぬ」と、最後まで受けなかったのです。

 

※注:この一万石の逸話も、後世の伝えによるものです。旗奉行への就任は寛永九年(1632年)とされています。

 

家康・秀忠・家光の三代に仕え、一方では「毛虫親爺」と恐れられながらも、彦左衛門は「天下の御意見番」として、その時代に求められた役割をよく果たした一人でした。彼が世に残した教訓の書『三河記』は広く読まれ、長く後の世に役立ちました。

 

※注:底本の『三河記』は『三河物語』のことです。彦左衛門が子孫のために書き残した書で、松平・徳川家の歴史と三河武士の心得を記しており、江戸初期の武士の考え方を伝える貴重な史料とされています。「毛虫親爺」は、彦左衛門が兜や指物に毛虫の印を用いたことから、後世に付けられた呼び名です。

 

鞘は切っても、身は切らない。一万石は受けても、子孫には譲らない。

こうした逸話の多くは、後の人々が作り上げた物語かもしれません。けれども、人々が彦左衛門にそういう物語を託したこと自体が、太平の世に生きる人々が、戦場を知る古い武士の、飾らない一本気をどれほど懐かしんだかを物語っています。

大久保彦左衛門の生涯やエピソードを象徴するイラスト

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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