三代将軍家光が、一人の老臣を呼んで言いました。
「その方の刀はあまりに長くて、さぞ立ち居にも不便であろう。ちと短くしてはどうじゃな」
老中たちが内々に願い出たのです。この老臣が、戦場で振るった長刀を帯びて登城しては、飾りの立派な短い刀を差した老中たちを「ちと美しすぎるようにもござるな」と笑うのが、たまらなかったのでした。
「はっ」と何食わぬ顔で御前を退いた老臣は、翌日、長刀の鞘を五寸ばかり切り、刃先をむき出しにしたまま、平然と登城しました。
彼の名は大久保彦左衛門(おおくぼ ひこざえもん)。徳川三代に仕え、「天下の御意見番」と呼ばれた三河武士。その生涯に迫ります。
天下の御意見番
「過ぎにし年月を思えば、まことに感慨無量じゃのう」
駿府城の中で、家康は久しぶりに会った彦左衛門を相手に、あれこれ昔話にふけっていました。
「いや、関ヶ原の合戦以来は世も静かになってきたが、あの一戦こそは、まことに予の生死の分け目だったわい。前には三成、後ろには景勝じゃ。されども敵めが、あの一戦に打ち負けて右往左往に逃げ散った有り様は、いやはや見苦しかったぞ。のう、彦左」
ところが彦左衛門は、家康の長話にすっかり退屈して、しびれを切らしていました。
「なるほど、あのときの敵の逃げ方も見苦しうございましたろうが、しかし、大御所が下野の小山におられた折、伏見の城から鳥居・内藤らが書状で『上方一円が敵となった』と告げてきたときの大御所のお顔も、蒼うございましたぞ。今はこのように太平に治まればこそ、蒼いお顔色も直り申したなれど」
遠慮なくそう言われて、さすがの家康も大きく笑い、「下がって休むがよかろう」と帰らせました。
彦左衛門は天文十九年(1550年)、大久保忠員(ただかず)の八男として生まれました。十六歳のとき、兄の忠世(ただよ)に従って遠州の犬居(いぬい)城と高天神(たかてんじん)城で戦い、手柄を立てて家康の旗本に加えられます。それから何十度もの戦場を、家康とともに駆け回りました。大坂の役で功があり、大名に取り立てるという恩賞の話が出たときも、「それがしは恩賞を望んで御奉公はつかまつらぬ」と、あっさり三千石の小さな禄で満足した。そういう人でした。
家康は「彦左、彦左」と信頼して、言いたいことを言わせました。大事があるときは必ず加わらせ、「大事は必ず彦左をもって決を取れ」と命じていたほどです。それも無理はありません。彦左衛門の無理押しは、少しも私心から出たものではなく、みな天下を思う真心からのことでした。だから誰もが、その道理の前には頭を下げるしかなかったのです。
彦左衛門への信望は、家康の死後、秀忠・家光の代になっても衰えず、「天下の御意見番」としてますます高まっていきました。

たとえ春日局なりとも
ある夜のことです。将軍家光の乳母として、権勢並ぶ者のない春日局(かすがのつぼね)が、急な御用だといって駕籠を急がせて登城しました。城の門は次々に開かれ、駕籠を通します。ところが平川門まで来ると、「春日様の御登城、御門を急ぎ開かれよ」と供の者が声を荒らげても、門がいっこうに開きません。その夜の門番が、彦左衛門だったのです。
番の者が伝えると、「たとえ春日局が誰であろうと、深夜には通すわけにはまかりならぬと申せ」と、彦左衛門は寝たまま答えて知らん顔です。番の者は、ほかの人とは違う、こいつは後でえらいことになるぞと思いながら、びくびくしてその返事を伝えました。春日局は、では男たちは門の外に残して、女だけ二、三人通してほしい、と懇々と頼みましたが、彦左衛門はつんと黙ったままです。局は仕方なく、夜半から夜明けまで立ち明かし、ようやく登城しました。
あまりの口惜しさに、局は後で家光に一部始終を泣いて訴えました。すると家光は言いました。
「うむ。だが、あの彦左という奴はな、その方も承知のとおり、無分別者の強情者であるゆえに、その方はさておき、予自身であっても、きっと通すまい爺じゃ。まあ、あやつに出会ったのがその方の不仕合わせと思って、諦めてくれよ」
局も仕方なく、胸をなでて我慢しました。その後、家光は彦左衛門を呼び出して、それとなく黄金の佩刀(はいとう:腰に帯びる刀)を与えたといいます。

鞘は切れども身は切らず
彦左衛門はいつも、戦場を駆け回った長刀を帯びて登城していました。老中をはじめ、世間の刀はだんだん短く細くなり、鞘や鍔の飾りの立派さを競うようなありさまです。彦左衛門はそれを皮肉な目で眺めては、痛烈にからかいました。
「各々方(おのおのがた)の御腰のものは、なかなか立派のようじゃが、ちと美しすぎるようにもござるな、はっは」
閣老たちは内心、腹に据えかねていました。しかし相手が相手なので閉口し、ひそかに将軍家光に「彦左衛門の刀を短くしてくださるよう」と願い出ます。そこで家光が、「その方の刀はあまり長くて、さぞ立ち居にも不便であろうから、ちっと短くしてはどうじゃな」と言ったのです。
彦左衛門は「はっ」と何食わぬ顔で御前を退き、翌日、長刀の鞘を五寸(約十五センチ)ばかり切って、刃先をむき出しにしたまま、平然と登城しました。
そして玄関脇に控えて大大名の登城を待ちます。やがて加賀の前田侯が威儀を正して現れると、わざと玄関正面の襖に寄り、「早々の御登営、御苦労千万に存ずるでござる」と、ばか丁寧にお辞儀をしました。そのとたん、刀の先がぶすりと襖を破ります。それをまた縦横に引き回したからたまりません。襖はすっかりめちゃめちゃです。
「やっ、これは、前田侯に礼をいたしたるため、襖を傷つけてござる」
戦場さながらの大声で怒鳴ったまま、彦左衛門はすっと消えてしまいました。困ったのは前田侯です。急いで家臣に襖を直させるやら、閣老に相談するやら、大あわてでした。
老中からこの一件を聞いた家光は、笑いながら彦左衛門を呼び出し、そのむき出しの刃先はどうしたのかと尋ねます。彦左衛門は急に態度を改め、襟を正して申し上げました。
「それがしの佩刀は、遠州高天神の戦い以来、神君(しんくん:家康)の御供をつかまつって、数十度の戦場を駆け回りました業物(わざもの)でござる。しかるに上様には、この刀を短くせよとの御意見。しかしながら刀は武士の魂、涙を呑んで鞘は切りましたなれど、身は切るに忍びず、かくむき出しにいたしましてござります」
上から下まで広がっている軟弱な風潮を、暗に諫めた言葉でした。家光はその真意を察して、静かにうなずいたのです。

鶴の羹
ある日、家光は鶴の羹(あつもの:熱い吸い物)を食べました。ちょうど彦左衛門が出てきたので、「彦左にもやれ」と、次の間で彦左衛門にも鶴の羹を与えます。
食べ終わった彦左衛門は、また御前に出て、「鶴は私方にもたくさんございまする」と言いました。
「小身者のその方の所に、鶴がそうたくさんあるものか」
「いえ、ございまする。明日、献上いたしまする」
翌日、彦左衛門は白木の台に青菜を山ほど積んで献上しました。「これはまた、どうしたのじゃ」と訊かれると、「いえ、昨日、鶴と申されて頂戴いたしましたるは、みなこれにてございました」としゃあしゃあと答えます。近習の者に確かめると、彦左衛門が食べたときにはもう鶴はなく、菜ばかり残っていたと分かり、家光は腹を抱えて笑ったとか。

追従
彦左衛門があまりに悪口を吐き散らし、勝手気ままに振る舞うばかりで、老中のもとへは顔出しもしない。それを気に病んだ一門の者が、ある日、忠告しました。
「貴殿は上様の思し召しもよく、歴々にも敬われているから、ただ今のところでは、貴殿一代はそれで相済み申そう。さりながら、もし御子孫のことも思われるならば、人々の風に見習って、折節は御老中方へも御挨拶に赴かれるがよろしかろうが」
「なるほど、それはごもっともの次第」
というわけで、彦左衛門は翌日からいきなり老中回りを始めました。先方も彦左衛門の日ごろを知っていますから、「これはまた珍しき御出で」と重々しく応対します。すると彦左衛門は、がらりと開き直って言いました。
「当世は、もし各々へ追従(ついしょう:おべっか)いたさずにおれば、おのおの子孫のためにあいならざる由を承り、今日はそれがし、子どもや孫どもを不憫に思うのあまり、一生一代の追従にまかり出てござるわい」
頭から噛みついたのです。先方は目を白黒させるばかり。これが噂になると、老中たちは「また頭痛の種が一つ増えた」と苦笑しました。

子孫のために美田を遺さず
彦左衛門は、自分はいつも倹約を旨とし、粗末な服を着て粗末なものを食べながら、たえず二、三百人の食客(しょっかく:家に置いて養う人々)を養っていました。家を傾けてまで彼らを養い、いざというときの備えを怠らなかったのです。欲がなく、身を捧げて天下のために尽くすところが深かったので、世の人は彼を「旗本肝煎(はたもときもいり)」と呼びました。
晩年に旗奉行となり、寛永十六年(1639年)二月二十九日、八十歳で世を去ります。その死に際して、家光は使者を送り、加増して一万石に封じる旨を伝えました。すると彦左衛門は、「私の存命中であれば御加増もありがたく存じ奉りまするが、このように重病を受け、十死一生の際に当たっては、御加増も何の用に立ち申しましょうや」と固く断って受けません。
使者は、「たとえ貴殿の用に立たずとも、それを子孫に譲れば、貴殿一代の面目も永久に伝えられようものを」と言いました。しかし彦左衛門は、「我らの子孫は、また彼らの功労にて加増を拝領すればよし。譲るには及び申さぬ」と、最後まで受けなかったのです。
家康・秀忠・家光の三代に仕え、一方では「毛虫親爺」と恐れられながらも、彦左衛門は「天下の御意見番」として、その時代に求められた役割をよく果たした一人でした。彼が世に残した教訓の書『三河記』は広く読まれ、長く後の世に役立ちました。
鞘は切っても、身は切らない。一万石は受けても、子孫には譲らない。
こうした逸話の多くは、後の人々が作り上げた物語かもしれません。けれども、人々が彦左衛門にそういう物語を託したこと自体が、太平の世に生きる人々が、戦場を知る古い武士の、飾らない一本気をどれほど懐かしんだかを物語っています。


