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伊能忠敬の生涯|50歳からの挑戦で日本地図を完成させた偉人

伊能忠敬の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「草鞋(わらじ)は革でも金でもない。時に切れることがあっても、別に不思議ではないじゃないか」

測量の旅に出る朝、玄関で真新しい草鞋の緒がぷつりと切れました。前の晩には燕が宴席に落ちて死に、門を出ようとすれば納屋の酒樽がはじけて酒が流れ出します。真っ青になって袂(たもと)をつかむ家の者たちに、五十を過ぎた測量家は笑ってそう言い、後も見ずに旅立ちました。伊能忠敬(いのう ただたか)です。

 

その少年時代

伊能忠敬は、わが国最初の実測地図を作製した、有名な暦数家(れきすうか:暦と天文の計算を研究する学者)です。彼の実測地図は、その後明治になってから陸軍の測量班の地図製作の基本になったといわれるくらいですから、その功績は非常に大きなものでした。かつて万延年間(1860〜61年)にイギリスの測量船がわが国にやって来て、幕府にわが国の沿海を測量させてくれと要求したことがあります。そのとき幕府の役人が忠敬の地図を示しました。すると彼らはその地図の精密巧緻(こうち)なのに驚いて、「こんな立派な地図が製作できる日本は、どうして未開国どころではない。なかなか文明の進んだ国だ」と感嘆し、即時測量を中止して、ただ沿海の深浅を測っただけで本国へ引きあげたといいます。この一事を見ても、忠敬が自分の考案した測量法で製作した地図が、文明先進国の測量技師を驚かすに足る精巧なものであったことが分かるのです。

忠敬は延享二年(1745年)一月十一日、上総国武射郡小堤(こづつみ)村(現在の千葉県山武郡横芝光町)の生まれで、父は神保利左衛門、その第三子です。幼名を三次郎といい、晩年には勘解由(かげゆ)と改めています。底本の『日本英雄伝』によれば、父は代々伊能家に仕える医者でしたが、伊能家の家運が傾くとともに九十九里浜の一寒村に隠棲し、赤貧洗うがごとき有様で、忠敬は七歳ごろから伊能家に入り婿する十八歳まで、親類縁者のあいだを流浪して各種の労働に従事しながら成人したといいます。

 

※ 通説では、父の神保家は小関村の名主で、忠敬は母の実家である小関家に生まれ、母の死後は父の神保家で育ちました。底本の生い立ちの記述は講談調で、事実とは異なるところがあります。

 

彼は後年天下に名を成す偉人の素質がありましたから、少年時代といえども決して鈍愚のうちに過ごしてはいませんでした。九十九里浜で網の番をさせられていた七つ八つのころから、波打ち際に落ちている貝殻を集めて、計数の稽古に余念がなかったといいます。「朝は星をいただいて起き、夜は三更(さんこう:真夜中)を聞いて眠る」といったような境涯に置かれていましたから、忠敬は自然に天文に興味を抱くようになったのです。彼は仕事のかたわら、余暇さえあれば算術書をひもとき、自分で測量器械を工夫して付近の田んぼや原野を測量したり、あるいは天体を観測して楽しみました。彼がのちに天下の暦数家として古今独歩の地位を築く素質と天分は、この十七年間の少年時代のうちにすでに芽ぐみ、培われ、養われていたのです。

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五十にして勉学に志す

彼が佐原(さわら)町の旧家・伊能家に入り婿したのは十八歳のときです。伊能家と神保家とは主従関係であると同時に親戚関係でしたので、養子に迎えられることになりました。伊能家は祖先代々、酒・醤油の醸造を業として近郷に鳴った旧家でしたが、忠敬が入り婿した当時は家運が傾き、山なす借財で、わずかに家名を維持しているにすぎませんでした。だから養家に入った忠敬は、家業に専念して家運の挽回に汲々(きゅうきゅう)として、勉学に志す余裕がありませんでした。ようやく忠敬の努力が報いられて家運の挽回が成り、名主を命じられるようになってから、わずかに暇を盗んで、ふたたび天文数理の学問に励んだのです。

そのあいだに、天明三年(1783年)の大飢饉が関東地方を襲いました。忠敬は農民の多くが飢えるのを見て、ただちに被災各地を巡視し、私財をなげうって窮民を救済しました。同六年にふたたび飢饉が見舞い、食するに米なく、着るに衣なき窮民が路傍に横たわって餓死しました。この惨状を目撃した忠敬は、ただちに被災地に赴いてその救済事業に身を投じ、一身を顧みずに働いたのです。のちに領主の津田山城守が忠敬の功労を聞いて、姓名帯刀を許しました。寛政三年(1791年)には幕府から褒賞されて、忠敬父子はおのおの銀十枚を賜り、姓名帯刀を許される光栄に浴しています。このように忠敬は、冷たい天体の運行を友にして数理の公式のみに没頭している科学者だけではありませんでした。また家業にいそしみ、郷党の篤行だけに満足している人でもありません。実に彼は多感な熱血を蔵して、地上の救世済民の志に燃える烈士だったのです。

忠敬が家運再興の責任から解放されて家を長子の景敬に譲り、ようやく多年の志望を果たすべく江戸へ遊学したのが、彼五十歳のときです。十八歳から五十歳まで、青壮年期を家業に没頭して送り、隠居の年ごろになってはじめて東都に遊学を志したのです。壮烈な決心でした。彼は深川に居を定めて高橋東岡(たかはし とうこう:至時)の門に入り、ひたすら暦学と天文を学びました。東岡は大阪から召されて幕府の改暦に従事していた、暦学天文の大家です。

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実測地図の完成

ときあたかも光格天皇の御代でした。松平定信が将軍家斉の信任を得て、教育を奨励し、学校を建て、賞罰を厳にし、農産を興して、幕政の改革に意を注いでいたときです。一方、ロシア艦がしきりに蝦夷地をうかがい、北海の風雲はようやく急を告げようとしていました。志士の高山彦九郎、蒲生君平、林子平などが、あるいは勤王を説き、あるいは海防の急務を論じました。近藤重蔵、松田伝十郎、間宮林蔵らの先覚者は、人の知らない土地に分け入って蝦夷・樺太の探検に従事しました。世間の耳目はようやく北門の宝庫に注がれようとし、幕府は長夜の惰眠から覚めて、令を東北諸藩に下して海防の整備を命じました。だが、信頼すべき地図のない時代でしたから、沿海の航行に非常な不便と犠牲を払わなければなりませんでした。

ここにおいて忠敬は、自費を投じて蝦夷沿海の実測を計画し、幕府に上申しましたが、相手にされません。寛政十二年(1800年)四月になって、はじめて蝦夷奉行の命を奉じて蝦夷沿海の実測に着手したのです。幕府から支給される手当は、一日わずかに二朱でした。測量器具の運搬その他人夫まで、幕府の十分な便宜が得られなかったので非常な困難に遭遇し、この年は西別まで測量して引き返さざるをえませんでした。翌年、ふたたび忠敬は蝦夷地の残部の測量を請願しましたが、幕府はその願いを退けました。忠敬の失望落胆は言うまでもありません。そのとき、恩師の東岡が忠敬の失望を気の毒がって幕府のあいだに奔走斡旋(あっせん)して大いに努めたので、東海の沿海測量着手の命を受けることができました。享和元年(1801年)、忠敬五十七歳のときです。

 

※ 底本は「忠敬五十五歳」としていますが、延享二年生まれの忠敬は享和元年には数え五十七歳です。

 

以来十八年間を費やして、忠敬は伊豆から始めて奥羽、蝦夷に至り、全国にわたる実測を完了したのです。そして全国の大図(三万六千分の一)、中図(二十一万六千分の一)、小図(四十三万二千分の一)を作製して幕府に献じましたが、これらの地図が、底本の書かれた昭和の初めまで、わが国の地図の規準をなしたものといわれています。

 

※ 底本は小図を「四万二千分の一」としていますが、正しくは四十三万二千分の一です。

 

忠敬の職役からいえば、彼は幕府時代の一名主にすぎませんでした。のち幕府に上書して抜擢されて小普請組に補せられ、後年、天文方になって異数の累進を見たようですが、要するに幕府の一若年寄に隷属する一微官にすぎません。幕臣の地位からいえば、決して栄誉でも過分の累進でもありません。彼の栄誉は幕府の地位にあるのではなく、異常な努力を払って前古未聞の実測地図を完成した、科学的任務の大きさにあるのです。忠敬は全国地図の完成を終えるや、幕府の天文方に職を奉じるかたわら、著作にふけりました。主な著書には『国郡昼夜対数表』『割円八線表』『紀源術並に用法』『地球測遠術問答』などがあります。

忠敬は、文政元年(1818年)四月十三日、江戸八丁堀亀島町の自宅に、享年七十四をもって没しました。

 

※ 底本は没年を「文政四年(1821年)四月十二日、享年七十七」としていますが、忠敬が亡くなったのは文政元年四月十三日です。文政四年は『大日本沿海輿地全図』が完成して幕府に献上され、忠敬の喪が公表された年にあたります。

 

彼は病があらたまってふたたび起てないことを知り、家人に、「余のこれまでの事業は、ことごとく先師東岡先生の教えによるものなれば、今日に至るもその鴻恩(こうおん:大きな恩)を忘るることあたわず。我瞑目ののちは骸(むくろ)を先師の墓側に埋めよ」と遺言して長逝しました。家人は遺言によって、浅草清島町源空寺の先師東岡の墓のそばに葬りました。明治十六年(1883年)に正四位を追贈され、明治二十二年(1889年)、東京地学協会は芝公園に記念碑を建てて『贈正四位伊能忠敬先生遺功碑』と題しました。

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迷信を斥けて旅立つ

忠敬がある年、いよいよ遠地に出発しようとして、親族知人を招いて一夕送別の小宴を張ったことがあります。すると宴半ばにして、梁(はり)の上に巣を作っていた燕が突然席の中央に落ちて、そのまま息絶えました。列席の人々はびっくりして、不吉な予感に胸をうたれて忠敬の顔を見守ります。しかし当の忠敬はきわめて平気なもので、

「燕が落ちて死んだのは、何か病気にかかっていて、つい足でも踏みすべらして落ちて死んだのだろう。つまらぬことに気を留めないで、今日は大いに酒を飲んでいただきたい」

と言いました。その翌朝、いよいよ出発となって玄関先で真新しい草鞋をはこうとすると、その緒がぷつりと切れました。一同の者はいよいよ不吉な予感におびえて旅行の中止を懇願しましたが、忠敬は笑って取り合いません。

「みなの者が私の身を思ってくれることはありがたいが、今度の旅行は公儀のご命令である。私情をもって延引することはできない。ことに草鞋は革でも金でもない。時に切れることがあっても、別に不思議ではないじゃないか」

と、すぐさま別の草鞋にはきかえて、平然と玄関を出ていきました。そして門のところまで来ると、そばの納屋に入れてあった酒樽が破裂して輪が飛び、たくさんの酒が流れ出しました。不吉なことがこうまで重なると、さあ大変です。一同の者は真っ青になって騒ぎ立て、忠敬の身の上に何か不吉な凶事が降って湧くものと思い、彼の袂をとらえて離しません。

「どうしても出発なさるお考えなら、たってご旅行を断念なさいとは申しませんが、せめて自分たちの願いを聞き入れて、今日の出発だけは、ぜひ思いとどまってください」

と勧めました。だが忠敬はからからと笑って、

「馬鹿なことを申すな。酒樽の破れたのも、要するに箍(たが)が古くなってゆるんでいたためだ。何も私に関係のあることじゃない。つまらないことに気を留めて、自分の予定を狂わさないでくれ」

と言って、後も見ずにさっさと旅立っていきました。そしてこのときの測量旅行は大成功をおさめて、忠敬はそのために幕府から加増の沙汰まで受けたのです。

燕も草鞋も酒樽も、この人にとっては、ただ病気と古さと緩んだ箍の問題でした。目に見えるものを測り、理由のあることだけを信じる。五十を過ぎてから日本中を歩いた人の地図が正確だったのは、その歩き方が正確だったからです。

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