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梅若実(初世)の生涯|明治維新の危機から能楽を救った大功労者

梅若実の生涯やエピソードを象徴するイラスト 日本の偉人
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「どうしても能楽を思い切る考えは出ない。たとえ死ぬまでも謡はやめない」

幕府が倒れ、武家の式楽だった能は一夜にしてよりどころを失いました。観世太夫は将軍について駿府へ退き、能役者たちは手内職や商人や役人に転じていきます。そのなかで干魚をかじりながら毎日謡をうたい続け、「今にお上から叱られるだろう」と近所にうわさされた一人の役者がいました。梅若実(うめわか みのる)。明治の能楽を生き返らせた人です。

 

能は武家の式楽

「能は日本文化の産物のなかで、もっとも卓越した特色あるものの一つで、その表現の調子の高く、なにより様式の日本的であることにおいて、奈良朝の『万葉』、平安朝の『源氏』、またはのちの江戸期の俳句などと並んで、十分に世界に誇りうる特質を持っている。それはしかし、歌謡と舞踊を総合した舞台芸術としての能についていうのであって、その一成分にすぎない謡曲を意味するのでないことは、改めてことわるまでもあるまい」

これは『能(研究と発見)』の著者である能楽界の最高権威、野上豊一郎がその序に書いている言葉です。能は武家の式楽ともいわれて武家専門の技芸でしたから、武家以外のものには公然と稽古をつけることはできなかったのです。それだけに能役者の格式は相当なもので、時と場合によっては百万石くらいの大名の格式を許されることすらありました。能役者中の上位は太夫で、次が太夫格、太夫並みという順序で、そのほか囃子方などは一役というものもあり、地謡は地謡と称しました。徳川幕府における能役者の席順は、まず四座の太夫、観世、金春、宝生、金剛の太夫であって、次が太夫格の鉄之丞、ワキ師の家元、春藤、宝生、高安、進藤で、ツレの家は梅若と金春流の春日四郎右衛門の二人でした。ことに幕末時代には、ツレ家としてはこの二人しかなかったのです。

それに梅若は観世のツレの家ではありますが家柄は立派で、先祖は丹波猿楽から出た旧家で、信長、家康に仕えて大いに腕を振るったものでした。高は百石でしたがその勢力はほかのツレ家などの及ぶところではありませんでした。その一例として、地謡の家では一役としてシテを勤めることはできませんでしたが、独り梅若の家はシテを勤めることを許されていましたし、毎年正月五日の御大礼には祝言のシテを勤めたのです。しかも席順は、普通のツレの家は囃子方の次に座るのですが、梅若の家は囃子方の上席でした。これも格式として重んじられたのです。こうして能役者は武家によって伝統的に保存されてきましたが、かの徳川幕府の瓦解とともに一朝にして能役者はその日の生活に窮し、各流の人々はほかに生計の途を講じるという風でした。それに世間では能役者といえば馬鹿にします。その罵倒にも耳を貸さず、独り能楽のために苦心惨憺のうちに技芸を捨てず、ひたすらこの道に励んでいたのが梅若実でした。

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梅若家の養子となる

梅若実は文政十一年(1828年)四月十三日、江戸日本橋本銀町に生まれました。幼名を亀次郎といって、父は東叡山の御用達をしていた札差(ふださし:旗本・御家人の米の換金を扱う商人)で鯨井平左衛門といいました。ある日のこと、沢田某という男から「今度お上からお能の御用が出たのだが、五十両という金がなければその御用が勤まらない。梅若の家名に疵のつかないようにしてやりたいから、どうか五十両貸してくださらぬか」と相談をかけられたので、亀次郎の父は梅若六郎へ五十両の金を貸与したのです。ところがこれが狂言で、実は梅若が、鬼権といわれていた金貸しから十両の金を借りていた。それがやんやと催促に来るので、しかたなく沢田某に頼んで金を借りてもらったのです。だから鬼権に借金を返して、残りの金は沢田と梅若とで使ってしまいました。そうなると今度は梅若が五十両の借金が返せない。そこで黙ってもいられないので、時に言い訳に鯨井の家へ立ち寄りました。すると亀次郎の父は梅若の顔を見ると怒りもしないで奥へ通し、酒肴の用意をしてもてなしたものでした。そのときの話です。

「私もご存じのとおり妻も子もない独り者ですから、お宅のご子息のうち一人を梅若の養子にもらいたい」

梅若六郎が鯨井に相談をかけたので、「では、三人あるなかだから、いずれかを差し上げましょう」ということに話がついて、結局、八歳になる亀次郎を梅若家へ養子にやりました。しかもこのとき父は亀次郎に五百両という金をつけました。これは一つには梅若家のためと、また亀次郎への財産分けとして計ったものでした。そこで亀次郎は六之丞と改め、天保十年(1839年)八月二十一日に家督を継いで梅若六郎となり、明治五年に実と改めたのです。

実は、弘化二年(1845年)に幕府の祝能に観世流の『岩船』を勤めたのがはじめで、それから嘉永四年に御本丸御用を命じられ、続いて西丸御奥詰となり、将軍のお相手に召されたこともありました。実はこの西丸御奥詰となるまでは声が悪く、聞き苦しいくらいでしたが、それを知った実は神に願かけて、一心に仮名の正しい謡い方に苦心したのです。

「仮名が正しくなかったら、あたら美声も聞くに堪えないいやみにおちいり、その謡い方は下劣になる」

実はこの信念のもとに仮名の使い分けを工夫して、一段と技芸を磨いていきました。これがそもそも、実が名人となる動機だったのです。

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飯より好きな能楽

「どうしても能楽を思い切る考えは出ない。たとえ死ぬまでも謡はやめない」

梅若実は深い決心をして、毎日謡をうたっていました。とき、まさに王政維新となって世の中が変わりました。武家の式楽としての能楽が瓦解したのです。観世太夫のごときも将軍について駿府へ隠退しました。なにしろ能役者が禄を失ったのですから、ある者は手内職をはじめ、またある者は商人に、官吏へと転向して生計の途を講じました。この能楽瓦解のなかにあって、実は干魚をかじり、能楽界のために頑張ったのです。「梅若では、この時節もわきまえず謡をうたっているが、今にお上から叱られるであろう」。近所の者は驚きの目を見張って、とりどりのうわさをしていたくらいでした。すると、ここに梅若を慕って、清之、吉之丞、鉄之丞という能楽界の強者が実のところへ来たので、「よし、この道のために大いに起って能楽の民衆化をはかろう」と、実はまず自分の家へ二間四方の小さい舞台を作って、そこで袴能(はかまのう:装束をつけず紋服袴で演じる能)をしました。揚幕には夜具布団を包んであった風呂敷を代用したくらいで、もちろん装束もありません。

明治三年(1870年)の歳を迎えた梅若は、「ぜひとも装束着の能をしてみたい」と頑張って、装束を一両二分の損料で借りてきて、『弱法師(よろぼし)』一番の装束着の能を催しました。このころから能楽がぼつぼつ頭をもたげてきたのです。ちょうどこのとき、近くの青山家のお邸内にある舞台が売り物になっているというので、実はその舞台を譲り受けて蔵前の自宅内に建て、その舞台開きの勧進能を催しました。その後、装束、面なども追々手に入れ、または新調して、絶えず装束能を催しました。それから五、六、七年の三か年は、毎年三月に各宗家連合で勧進能を催し、いやが上にも能楽の声価を高からしめたのです。これまさに、梅若実が能楽瓦解の時代に踏みとどまって舞台を作り、盛んに能を催した功績によるものでした。

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能楽の復活

能楽界を盛んにするには、またよきこの道の鼓吹者がなければなりません。当時、岩倉右大臣具視公はもっともよき鼓吹者であり、明治能楽中興の祖となったのでした。ときは明治五年(1872年)四月四日、岩倉邸に陛下行幸のみぎり、実は『土蜘(つちぐも)』を勤めて天覧の栄をかたじけなくしました。このころから能楽界は新興の機運に乗りはじめてきました。このとき東坊城侯の所説によって巣を多く出したところ、大いに諸侯の賛辞を得ました。元来観世流の土蜘はあまり多くの巣を出さないのが本旨でしたが、これ以来、梅若家では巣を多く出す形を存するようになったのです。翌五日には同邸へ皇后陛下行啓、また六日には閑院宮殿下の上覧で、実は『安宅』を勤めています。なお能楽興隆の人の基礎として忘れることのできない二つの舞台開きがあります。一つは招魂社新築舞台開きで、そのときには梅若家がお能に出演しました。今一つは芝紅葉山に新築した能楽堂の舞台開きです。こうして岩倉公をはじめ朝野の諸名士の尽力で能楽は復興され、ますますこの道の発展を見るとともに、梅若実の技芸は円熟し、ついに能界の名人と呼ばれるに至りました。

また梅若実は能界の改革者です。能楽といえば、謡、形、四拍子の六つの芸が一致して、真正の妙味を味わうことができるのです。ところが明治中興前にはその一致を欠いていました。「拍子や謡の精神から考えて、そんな不完全なものではないはずだ」というので、彼はその食い合わないところを一定させ、謡の仮名づかいを改めました。これこそ能楽をより高く引き上げた芸術上の一大功績でした。そのほか、謡ばかりで形のない『仲光』の能を再興したり、『楠の露』の文章はあっても曲節も形もないものに新たに節と形をつけたのも実でした。

ところが明治二十七年(1894年)に日清戦争が勃発したために能楽界興隆の機運はそがれ、その後三十三年に北清事変、三十七年には日露大戦争という非常の出来事があり、能楽の声はまったく絶たれたかのようでした。しかし三十八年一月、旅順陥落の報を耳にした実は、梅若舞台において祝賀能を催し、自分は『石橋(しゃっきょう)』を勤めました。このとき実は七十八歳の高齢でしたが、以後健康すぐれず、ふたたび舞台に立つことを得ませんでした。

 

※ 底本の『日本英雄伝』は旅順陥落の祝賀能を「三十九年一月」、そのときの実を「七十九歳」としていますが、旅順が陥落したのは明治三十八年(1905年)一月一日で、文政十一年生まれの実は数え七十八歳です。

 

日露戦勝後、能楽界は未曾有の発展をなし、この道に遊ぶもの万を数えるほどでしたが、明治能楽界の長老梅若実は、ついに明治四十二年(1909年)一月十九日をもって静かに永眠しました。

五十両の嘘がきっかけで養子になった札差の子は、声の悪さを仮名の工夫で乗り越え、幕府が倒れたあとも干魚をかじって謡い続けました。風呂敷を揚幕にした二間四方の舞台から、能は明治に生き返ったのです。今日能楽堂で能を見られるのは、この人が「死ぬまで謡はやめない」と決めたからにほかなりません。

梅若実の生涯やエピソードを象徴するイラスト

 

 

本記事は、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている菊池寛『日本英雄伝』を底本とし、現代の読者の皆様により親しんでいただけるよう、分かりやすい表現にリライト(現代語訳・再構成)してお届けしています。

記事の作成にあたっては、古い印刷物をOCR(光学文字認識)で読み取ったデータをAIで処理し、最終的に人間の目でしっかりと確認・修正を行うという手順を踏んでおります。AIが最新の史実に合わせて補正してくれる便利な反面、OCR特有の文字化けを拾いきれていない違和感のある箇所については、一つひとつ原本の画像データと照らし合わせて手作業で修正しております。 しかしながら、膨大な文章のすべてを原本と一言一句完全に照らし合わせることは難しく、どうしても底本と異なる表現や細かな見落としが生じてしまう場合がございます。
どうか「AIと人間の二人三脚による現代版リライトならではの味わい」として、あたたかい目で見守っていただけますと幸いです。
(※記事内の挿絵もAIによる自動生成のため、実際の歴史的背景や細部の描写と少しズレてしまうことがございますが、こちらもご愛嬌としてお楽しみください)

 

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