文久三年(1863年)の頃。
長州藩の使者が、駿河の清水港にある一軒の家を訪れました。
「ぜひとも、そなたを勤王方のために召し抱えたい」
幕末維新の京阪地方は、浪士・無頼の徒に溢れていました。
それを、毒をもって毒を制するの策で、勢力ある俠客を手先に使おうというのです。
——扶持を与えて武士に取り立てよう、というのですから。
さぞ喜んでお受けするかと思いきや、その男はこう言って蹴りました。
「自分の出る幕じゃねえところへ出しゃばって、ノコノコする気はございませぬ。天下の黒白をつけるのに、何も博奕打ち風情を引っぱり出すには及びますまい」
彼の名は清水次郎長(しみずのじろちょう)。「侠客」という言葉から、現代の反社会勢力をイメージする我々からすると、次郎長は意外なほどの人格者でした。その姿に迫ります。
酒を断つ
駿河国・清水港の美濃輪に、三右衛門という船持ちの船頭が住んでいました。
彼は大勢の船子(水夫)を使用して裕福に暮らしていましたが、生まれつき剛毅、慓悍(ひょうかん)な男です。
沖が荒れていようが、いまいが、
「暴風を怖がっていた日にゃ、船乗り渡世は出来ねえ」
と天候なんぞ構わずに船を出したので、人は彼を「雲不見(くもみず)の三右衛門」と異名しました。
この三右衛門の三人目の男の子として、文政三年(1820年)正月元旦に生まれたのが、後の侠客・清水次郎長です。
彼は三右衛門の妻の弟で、米屋を営んでいた次郎八の家に養子にやられ、長五郎と名づけられました。
七、八歳になると、最早や手におえない腕白者になります。
町内に同じ「長」と名のつく子供がいたので、それと区別するために、次郎八のところの長という意味で「次郎長」と呼ばれました。
何しろ恐ろしく力がある上に乱暴なので、寺子屋の師匠なども、すっかり持て余して教えるのを断ってきます。
それで禅叢寺(ぜんそうじ)という寺へ手習いに通わせるようになると、今度はたちまちのうちに七、八十人の餓鬼大将となりました。
——ところが、皆の者は彼の乱暴を憎んでいたのです。
それを察した次郎長は、毎朝、菓子を買っていって、自分の言うことを聞く者だけに分け与えました。
しかしこのお寺も、池の金魚を取って弁当箱の中で飼っていたのが見つかって追い出されてしまいました。困った次郎八は、あちらこちらの親戚に順番で預かってもらったりしていましたが、天保五年、十五歳になってようやく養家に戻って来ます。
その頃、三保の漁師の家へ勘定(ツケの集金)を取りに行ったところ——
主が死に、葬式を出す金もないので、女房が目を泣き腫らしています。
それを見て、
「なあに、勘定なんぞ、面倒だから棒を引いちまいましょう(帳面につけた貸しに、筆で棒線を一本引いて消す。つまり帳消しにすること)。そして、これは僅かですが——」
と、(※)二両という大枚の香典を置いて戻って来て、次郎八に目を剝(む)かせたことがありました。
——しかし彼は、何ら取り柄のない乱暴者とは一線を画していました。
その年の土用頃(7月中旬〜8月上旬)から気候が不順で霖雨(りんう)が降り続き、五穀不作のきざしが見えます。
それを早くも察知した彼は、浜松へ出掛けていって米を買い上げ、それを清水港に送って莫大な利益を得ました。
天保六年、次郎八が一時的な軽い体調不良で亡くなってしまいます。
間もなく養母のお直が、世間も憚らず恋愛沙汰などを起こしたため、家政に締りがなくなり、家運は衰えるばかりでした。
真面目に働いていた次郎長も、いつしか酒を呑み、賭博場(とばくじょう)に出入りするようになります。
元来、彼は腕力が強く、両手に米を一俵(60kg)ずつさげ、俵を口に咥(くわ)えて悠々と歩くほどでした。
村角力に出ても彼の向こうを張る者はなく、飯より好きな喧嘩は、どこでやっても負けたことがありません。
養母のお直がとうとう出奔してしまうと、次郎長の蛮行はますます甚だしくなりました。
——ある夜のことです。
彼は江尻へ芝居見物に行き、三升余りの酒を傾けた後、酔ってフラフラと巴川の土手を帰って来ました。
すると闇の中から石礫(いしつぶて)を喰らわされ、「あッ」と倒れるところを、五、六人の者に滅多矢鱈(めったやたら)に打ち据えられ、汚水の中へ放り込まれます。
ようやくにして這い上がり、家に帰ってから、傷のために一ヶ月ばかり床に横たわっていました。
——そのとき、彼はこう思ったのです。
「こんな目に遭わされたのは、俺が酔っていたからだ。よし、以後、酒を断とう!」
その時以来、彼は四十年間、酒を手にしませんでした。

意気と度胸
天保時代は俠客の全盛時代で、関東には大前田英五郎、国定忠治、江戸には新門辰五郎、甲州には紬(つむぎ)の文吉、武居の吃安(どもやす)など、錚々(そうそう)たる顔が揃っていました。
家屋敷・田畑などを惜しげもなく姉夫婦に与えてしまった次郎長は、自ら渡世人の仲間に身を投じます。
そしてある時、賭場でイカサマにあって金を巻き上げられた男のため掛け合いに乗り込み、ついに六人を殴りつけて二人を河中に投じ、その揚句、旅に出ました。
——これが彼の俠客生活の第一歩です。
「旅人」となった彼は、三河へ渡って吉良の武一という親分の許に足をとめます。
この武一という人は、もとは備前の家中で三百石を食み、剣道指南役を勤めた侍でした。
酒の上の過ちで人を殺め、博奕打ちに身を墜した男で、一刀流の使い手です。
次郎長は彼についてミッチリ剣道を学びました。
俠客などは、たいてい度胸免許の我流で、喧嘩の場数を踏むのが唯一の修行です。
——けれども次郎長のは、本式の剣でした。
次郎長は武一に愛されてその代理を勤め、四方に出張って顔を売るようになります。
彼は武一のところのみにとどまらず、上方から四国、丹波地方までも歩いて、俠客としての修行を積みました。
ある時、彼は遠州へ行って、森の五郎という駿遠参(しゅんえんさん:駿河・遠江・三河の3つの地域を合わせた総称)切っての大親分を訪ねます。
そこに草鞋を脱いで(一時的な逗留)いるうちに、秋葉山の高市(縁日)へ盆割(ぼんわり: 賭場から出る収益を集めること)に行く五郎に連れられて、一緒に出掛けました。
この秋葉山の祭礼は東海道でも名高い祭で、遠国からも参詣の老若男女が夥しく、高市の賭場も凄い繁昌です。
そこへは日本中の賭場を開く親分の半分は顔を寄せる、という位でした。
「次郎長さん、長脇差は甲州が本場だ。その甲州切っての貸元と言われる武居の吃安と、それと肩を並べる紬の文吉のところとへ、ちょっと挨拶に行っておいで」
坂下の旅籠屋へ着くと、五郎がそう言いました。
次郎長は宿を出て、最初に吃安の所へ顔を出します。
吃安は、一の子分の黒駒勝蔵と碁を打っていました。
「親分、清水港の長五郎という人がお近付きに参りました」
と子分が取り次ぎましたが、吃安は煩(うる)さがって、
「馬鹿野郎、そんな駆け出し奴に一々仁義をして居られるか、間抜め。飯でも食わして帰せ!」
と怒鳴ります。
——次の間へ来ていた次郎長は、勝手に唐紙を開けました。
敷居に手をつき、
「これは武居の貸元でございますか。手前は清水港の長五郎と申す不調法者、何卒以後お見知り置かれて、お引立に預りとう存じます」
と挨拶しましたが、吃安は見向きもしないで碁をやっています。
次郎長は起ち上がるなり、足を揚げて、ぱッと碁盤を蹴返しました。
「野郎!」
吃安の手が長脇差にかかります。それを子分らが止めて、
「こんなはした野郎の一匹位、ワシどもが貰って料理しちまいましょう。おい、表へ引き摺り出せ」
「がやがや騒ぎやがるな、ホコリが立たあ」
次郎長が大胡坐をかいて、せせら笑っている時——
入って来たのが、紬の文吉でした。
「まあ、武居の、大人気(おとなげ)ねえじゃねえか。ここは一つ、俺に任してもらいたい」
と綺麗に預かって、次郎長を連れ出します。
そして、つくづく次郎長を眺めて、
「なるほど、お前さんは噂に聞いたよりは、いい度胸をお持ちだね」
と賞讃しました。
弘化二年の春、彼は初めて故郷へ帰ります。
たとえ人殺しをしても、土地を売って二、三年も旅に出て遠慮すれば、それで事済みとなるのが、当時の官憲の渡世人に対するやり方でした。
この夏の頃、駿州切っての大親分・和田島の太右衛門と、甲州の紬の文吉との間に、大きな抗争が起きようとします。
双方とも大勢の子分を引き連れて、殺気立って対陣していました。
——そこへ割って入って、
「まあまあ、待っておくんなさい」
と宥(なだ)めて、双方の言い分を聴き、その誤解をといて、血を見ずに丸くおさめたのは次郎長でした。
時に彼は二十六歳。清水港の次郎長の名は、いよいよ遠近に聞こえ始めます。

俠骨仁義
三十歳に達した頃には、彼の俠名は広く喧伝(けんでん)されて子分も多くなりました。
諸国を廻って手拭一本で草鞋銭を貰って歩く、いわゆる「旅人」なども、常に二、三十人もごろごろ厄介者になっているほどです。
——旅の辛さを知る彼は、旅人たちを厚くもてなしました。
彼はあくまで「強きを挫き、弱きを助くる」任俠に生きる俠客で、弱い者いじめをしたり、曲がったことは決してしません。
筋道の立った事、仁義道のためならば、水火をも潜って、あらゆる事柄を成しとげました。
かねて恩義を受けた森の五郎が、周太郎という者に殺された時は、それを匿う甲州の親分・猿屋勘助の賭場へ子分を連れて斬り込んでいって、仇を討ちます。
愛する子分の石松が浜松で嬲(なぶ)り殺しにされた際には、命をまとにその仇をとりました。
貧困者などには、よく恵んでやっていたようです。
四十代に達すると、彼はもはや海道一の大親分でした。
——そして、冒頭の長州藩の誘いを断るのです。
次郎長の生涯で最も華々しい壮観は、吃安の死後、甲州に勢力を得た黒駒勝蔵との一騎打ちでした。
この争闘は、清水一家の勢力伸張を喜ばぬ貸元たちが挙って黒駒を助け、次郎長の麾下に集まる俠客たちがみな清水一家に味方します。
まさにそれは、日本全国の俠客が二手に分かれた関ヶ原の観がありました。
争いが清水一家の勝利に帰すると共に、次郎長の勢力は、東は函嶺(箱根)から西は琵琶湖に達し、北は北陸道から南は伊勢路に及びます。
本州の半ばは完全に彼の掌中に握られ、部下に属する者は三千を数えました。
王政維新となってからは、新しい道を造るための道路調査を任せられたりして、公事に役して功を立てるところが多かったのです。
そして明治二十六年(1893年)、七十四歳をもって没しました。


