明治四十五年(1912年)、六十六歳の学者のもとへ、出版社から一つの相談が持ち込まれました。
二十年前に世に出した国語辞書『言海(げんかい)』を、もう一度、十分に増補改訂してもらえないか——。
「もう十年早く言ってくれたら」
彼は残念がりました。けれども結局、それは自分がやらなければならない仕事でした。固い決意のもとに引き受けた彼は、以後、毎朝七時に起きて夜九時に寝るまで、正味およそ十三時間、まったく筆を離しませんでした。
一切の訪客を断ったのはもちろん、家族と話す時間さえ惜しみました。小さな孫をたいへん可愛がっていましたが、抱いたことは一度もありません。子どもを抱いたりすると、それだけ『言海』の仕事が遅れるからというのです。
大槻文彦(おおつき ふみひこ)。日本で最初の近代的な国語辞書『言海』を、ほとんど独力で編み上げた人でした。
日本最初の新聞記者
大槻文彦は弘化四年(1847年)十一月十五日、仙台藩の儒者・大槻磐渓(ばんけい)の子として生まれました。祖父は蘭学の開祖として名高い大槻磐水(ばんすい:玄沢)。代々学者を出し、「学者の華族」とまで言われた家です。
五、六歳のころから家の学問を教えられましたが、父の教育はまったくの放任でした。勉強していようが怠けていようが、いっこう気にしません。小言ひとつ言わず、ただ時々、「身体はくれてやったのだから、勝手に志を立てるがよい」とだけ言うのです。
それが、千万の小言よりも鋭く胸に響きました。負けん気の文彦は、かえって奮い立ちます。父の放任に甘えることなく、腹の底で叫んだのです。
「そうだ。きっと日本一の学者になってみせる」
こうして本ばかり読んでいるうちに、「大槻の子どもが机を離れているのを見たことがない」と世間で評判になりました。
二十歳のとき、「洋学稽古人」を命じられて蘭学の師につきます。ところがこの先生は酒ばかり飲んでいる人で、英語の本は教えてくれたものの、蘭学のほうはろくに教わることができません。これでは駄目だ、と思った文彦は、国を飛び出してすぐ横浜へ出ました。
しかし勝手に飛び出した身です。学費で父の世話になりたくはない。何か稼がなければ——。そう思っていたところへ、イギリス人宣教師のベーリーが、木版・月刊の『万国新聞紙』を出そうとしていると聞きました。日本で初めての新聞です。文彦は手づるを頼ってその編集員に雇われ、慣れない編集の仕事や西洋の新聞の翻訳に苦労することになりました。月給は十二両二分。当時としてはなかなかの額で、困っている友人を四、五人も家に置いて養えたほどです。世はまさに封建の殻を破って新しい時代に入ろうとする直前、慶応三年(1867年)。彼はこうして「日本最初の新聞記者」として、時代の変わり目を迎えたのです。
身をもって父を救う
慶応三年、王政復古が成り、翌四年に年号が改まって明治元年(1868年)となりました。佐幕派と勤王派の衝突はまず鳥羽伏見の戦いとなって現れ、世の中は騒然とした空気に包まれます。五月十五日には上野で彰義隊の戦いが起こり、もはや学問どころではありません。
文彦は藩の命令を受け、彰義隊の残党を率いて、九月、西洋型の帆船で仙台へ帰りました。ところがその月に藩が新政府軍に降伏すると、藩論はがらりと変わります。国事に奔走した罪で、兄の如電(じょでん)とともに逮捕される危険が迫ってきました。一刻の猶予もないと考えた彼は、すぐに横浜へ逃れます。
年が変わり、風の便りが届きました。佐幕論を唱えていた主だった人々の多くが投獄され、死刑になった者もいる。藩の建白書を書いた罪で、前の年に親類預けになっていた父の磐渓も、ついに投獄された。しかも命さえ危ういらしい——というのです。
これを聞いた文彦は、七昼夜、ろくに眠らず道を急いで帰国しました。
けれども彼は逮捕を逃れている身です。ただでは済まないことは十分に分かっていました。それでも意を決して藩の係へ出頭し、真心を込めて願い出ます。「故あって身を隠しておりましたが、我が罪科はもちろん、父の罪科をも、どうぞ私に代わらせていただきたい。何分よろしくお願いいたします」
しかし係は、「朝廷の命であるから願いは叶わぬ」と取り合いません。それでいて、文彦自身の罪については、それきり何のとがめもありませんでした。問題は、父を無事に救い出すことです。老いた身に、食べ物は悪く、不潔で不自由な牢の暮らしがどれほどつらいことか。大勢いた門人の力も借り、できる限りの手を打ってみましたが、当局からは何の沙汰もありません。
思案に暮れるうちに、ふと思いつきました。父と一緒に捕らえられた国事犯の人々は、たいてい父の門人か、それに近い人たちです。獄の医者も門人でした。文彦はすぐさま頼み込み、皆で口裏を合わせてもらって、磐渓が「重病で危篤の状態にある」ということにしたのです。
こうして父はようやく許されて牢を出て、親類預けとなりました。明治三年(1870年)正月元旦のことです。磐渓は七十歳、文彦は二十四歳。一年近くを獄舎で過ごした父の顔は、ひどくやつれていました。
「父上、よく御無事でおいでくださいました」
文彦はその顔を見ると、ただ嬉し泣きに泣きました。

著作熱と教科書
父が獄にいたあいだ、家にいてすることのなかった文彦は、日をむなしく過ごすのを惜しんで、国のための著作を思い立ちました。
蝦夷地が北海道と名づけられ、国や郡に区分された年(明治二年・1869年)のことです。ロシアが蝦夷地を狙っているという話を、文彦は子どものころから聞かされていました。祖父の磐水がそれを憂えていたからです。祖父には『北辺探事』という著書もありました。その蝦夷地が北海道となり、開拓が始まった。しかしまだまだ油断はならない、と文彦は考えます。
そこで世の人々の注意を促すため、さまざまな書物を調べて『北海道風土記』三十巻を編みました。これが最初の著作で、二十三歳のときです。さらに、日本の領土であることを明らかにするために『琉球新誌』『小笠原新誌』も作りました。あふれる著作熱が、彼をじっとさせておかなかったのです。
また、西洋の文法を学ぶうちに日本語の文法の必要を痛感し、独学で国学を始めました。明治五年(1872年)には文部省に召し出され、英和辞書の編纂を命じられます。同じ年、文部省に初めて師範学校ができると、今度はそちらへ移され、教科書の編纂を任されました。これが日本における教科書の始まりです。
二十三歳に始まって、著作に次ぐ著作で終始した文彦の一生は、じつに明治文化の礎石でした。そのなかで最も大きな功績が、国語辞書『言海』の完成という大事業です。

『言海』の四十年
文彦が文部省に呼び戻され、国語辞書『言海』の編纂を命じられたのは明治八年(1875年)でした。しかし彼自身は、命じられるずっと前から考えていたのです。きっかけはウェブスターの英語辞書でした。西洋にも中国にも立派な辞書があるのに、それに並ぶものが日本にない。それがひどく残念だったのです。
彼は万巻の書物をあさり、苦労を重ねること十七年。明治二十四年(1891年)にようやく完成させ、いよいよ出版の運びとなりました。そのあいだに妻と次女を失っています。見るも気の毒なほどの苦心でした。
ところが、これほどの大著述に、当時の世間はほとんど無関心だったのです。けれども学問が栄え、文化が高まるにつれて、この辞書の価値はしだいに認められていきました。真似をしたものまで次々と現れ、そのなかで『言海』の価値は、いよいよ光を放ったのです。
それにしても、あとから考えてみると、『言海』にはもう一度、十分に増補改訂する必要がありました。とはいえ容易でない大事業ですから、おいそれとは手をつけられません。出版社から話が出たのは明治四十五年(1912年)、六十六歳のときでした。「もう十年早く言ってくれたら」と残念がりましたが、結局それは自分がやらなければならない仕事です。彼は固く心を決めて引き受けました。
以後、毎朝七時に起きて夜九時に寝るまで十四時間。食事などに一時間を使うとしても、正味およそ十三時間、まったく筆を離しません。古い本や記録はもとより、新旧の新聞や雑誌までことごとく読みあさり、関係のあることを書き留めます。一切の来客を断ったのはもちろん、家族と話す時間さえ惜しみました。
だからといって、人情がなくなったわけではありません。小さな孫をたいへん可愛がっていました。それでも抱いたことは一度もない。子どもを抱けば、それだけ『言海』の仕事が遅れるからです。電灯は時々停電して不便だからと台ランプを使い、けたたましいベルの音に考えを乱されるのを恐れて、家に電話を引きませんでした。学者の本分とはいえ、そこまでして『言海』に身を捧げたのです。大槻なくして『言海』なく、『言海』は大槻の魂と言ってもよいものでした。

カナモジ論の先駆者
「これを完成するまでは死ねない」。その覚悟は鉄や石よりも固いものでした。しかし生身の人間である以上、病気にだけは勝てません。
昭和二年(1927年)の暮れ、過労がたたって倒れました。以来、体の衰えが目立つようになり、風邪から肺炎を起こして、昭和三年(1928年)二月十七日、八十二歳で世を去ります。増補の十七年と前の十七年、それに準備の期間を加えると、およそ四十年を『言海』に打ち込んだことになります。明治五年、二十六歳で文部省の仕事を始めてからの五十七年は、ほとんど辞書の編纂に費やされたのです。
「雑学だったので、辞書くらいしか作れなかった」と彼は謙遜しました。しかしどうして、大槻の『言海』は同時に日本の『言海』として、いつまでも朽ちないものです。
漢学者の子に生まれて家の学問を授けられ、漢文も達者に書きました。それでいて漢字の欠点を指摘し、カナモジ論をさかんに主張しています。漢字を使うことは文明の進歩の妨げになる、という議論でした。きわめて進歩的な考えの持ち主だったのです。
孫を抱かず、電話も引かず、十三時間机に向かい続けた学者。その手から生まれた一冊の辞書は、今も日本語辞書の原点として引かれ続けています。
「雑学だったので、辞書くらいしか作れなかった」。その謙遜の裏にあったのは、日本語という海のすべてを一人で汲み上げようとした、途方もない執念でした。



