「おっと動いちゃいかん。もう一寸だから、じっとして……」
深川の料亭の奥座敷。窓際に座った芸妓を制して、矢立(やたて:携帯用の筆と墨の道具)の筆先でさらさらと写生している眉目秀麗の青年がいました。微笑を含んで男の手先を見守っているのは、当時深川第一の芸妓おなみ。写生していたのは、紅灯緑酒の巷にも画材を追い求める歌川国貞(うたがわ くにさだ)です。のちに三代豊国を名乗り、数万点ともいわれる作品で浮世絵の末期を飾った人です。
浮世絵末期に輝く巨星
明和、安永、天明の錦絵黄金時代に活躍した諸天才の偉業がようやくその光芒を薄め、寛政、享和と下るとともにいわゆる浮世絵の頽廃期に入ろうとするとき、一代の巨匠初代豊国の門から出て出藍の誉れ高く、役者絵、風俗画ともに師の画風を継承して、前後に比類のない大作家となったのが歌川国貞でした。国貞は北斎、広重らとはその行く方向を異にし、彼の全生涯を捧げた芸術的対象は、時粧風俗(じしょうふうぞく:当世の装いと暮らし)と演劇でした。彼を偉大ならしめた風俗画は、江戸町人文化の爛熟期、文化・文政時代の大江戸の春を彩るあらゆる種類の男女、あらゆる生活の種々相を現しており、また一生を通じてその麗筆を振るった役者絵は、その芸術的な高さとともに、江戸演劇史の資料としても尊い価値を有するものです。国貞は歌麿、春信らの理想主義的な傾向にもとらわれず、極端な写実主義にも走らず、詩情ゆたかな芸術の境地を造り上げ、風俗画、役者絵、挿絵の三方面にわたり、ほとんど数万をもって数えられる優秀な作品の全容をもって、浮世絵末期の画壇を燦然(さんぜん)と飾る天才でした。

才能の萌芽
国貞は本名を角田庄蔵といい、武州葛西領西葛西村に天明六年(1786年)、俳名を五橋亭琴雷という人を父として生まれましたが、幼いころから浮世絵が好きで、錦絵や絵本類を手本にして描くうち、天性の画才の萌芽はおのずから伸び、独りで描く人気俳優や美人の絵が「うめえもんだなあ!」と遠近の評判を生むほど老成の筆力を示し、凡庸の画人らの及ばない観察と描写の鋭さを見せていました。当時随一の巨匠であった歌川豊国は、ある日この少年に手本を与えて描かせました。そしてでき上がった絵を一見するや、「うむ、ものになる!」と膝をたたいて喜んだのです。こちらには持って生まれた才能と学ぼうとする熱意があり、師匠のほうにはものになると見込んでの行き届いた指導がありました。少年はがぜんめざましい進境を見せ、またたく間に同門の諸先輩と肩を並べるまでになりました。
文化元年(1804年)、十九歳の当時には、早くも豊国の推奨によって山東京山作『妹背山』に稗史画(はいしが:読み物の挿絵)の筆を染め、同五年には、浪花の俳優中村歌右衛門がはじめて大当たりを取った『近頃河原達引(ちかごろかわらのたてひき)』の猿回し与三郎を描き、師匠豊国をもしのぐ好評を得ました。この年の春、三馬作『吃又平名画助刃』の絵双紙に腕を振るった彼は、絵組みの秀抜と画風の卓絶をもって洛陽の紙価を高からしめ、それより連続的に世に送られた新作はいずれも非常な高評のうちに迎えられるに至ったのです。これによって力を得た国貞の芸術に対する熱情は、いよいよ烈々と燃えていきました。

大成への道
文化八年(1811年)、山東京山作『偖其後稲妻物語(さてそのごいなずまものがたり)』に至っては筆力ますます冴え、構図は整然とまとまり、挿絵画家としての国貞は今や大家の風格を示し、さらに一枚絵の組物、三枚続き、団扇絵、長絵などにおいても非凡な霊筆を見せてきました。当時の画壇は、清長、歌麿、豊国らの諸大家の画風に眩惑され風靡されていた観がありましたが、それにもかかわらず国貞はあくまで自己独自の芸術の境地を開き、あたかも諸巨匠の陣中にただ快刀を振るうがごとくでした。国貞とても、諸先進作家に学ぶことを捨てたのではありません。多くを学びました。けれども単なる奴隷的な模倣ではなく、そこに必ず自己の創意を加え、新しい時代意識を織りこみ、渾然たる国貞自身の芸術として表現したのです。そこに彼の深刻な苦心があり、精進がありました。
ある日、艶(なま)めかしい歌声と三味の音が明るく響く深川の料亭の奥座敷で、
「おっと動いちゃいかん。もう一寸だから、じっとして……」
と窓際に座った芸妓を制し、矢立の筆先でさらさらと写生している青年がありました。微笑を含んで愛しげに男の手先を見守っているその美人は、当時深川第一の芸妓おなみ。彼女の写生に魂を傾けている眉目秀麗の青年は、紅灯緑酒の巷にも孜々(しし)として画材を追求する国貞でした。彼は風俗画を描くのに、化粧、衣装、備品に至るまで細心の注意を向けるのでした。たとえば着物の縞、模様、色彩の配合、模様の取り合わせなど隅々までいいかげんにせず、その対象とする深川、品川、四谷、新宿、根津、弁天、松井町、常磐町、谷中、三角、三田などの各花街が、それぞれ場所を異にするにしたがって異なった風俗に整然と描き分けられ、一見していずれの地に咲く花であるかを明瞭ならしめたことなどは、決して偶然の結果ではありませんでした。国貞が種々の方面に芸術的な観察の行脚を続けているうちに、ふと出会ったのが、この深川の美妓おなみでした。二人の匂やかなロマンスは、種彦の手によって『蛙歌春土手節(かわずうたはるのどてぶし)』として読み物化され、それにまた国貞自身が喜色のあふれた自画像の挿絵を描くに至って、国貞はまさに押しも押されもせぬ大画家として、果然、江戸中の人気を独占することになったのです。

豊国を襲名する
彼の用いた五渡亭(ごとてい)の号は、家が本所五つ目渡場のそばにあり、渡船の株が家にあったところから蜀山人に贈られたものでしたが、文政の末年に亀戸に移ってからは香蝶楼(こうちょうろう)と改め、また家からは富士の眺望がよいというので富望山人と号し、京山は富望庵の号を贈りました。文政八年(1825年)に初代豊国が没するや、門人の豊重が初代の未亡人に入り婿同様の体で、同門の者へは何の挨拶もなく、二代豊国を継ぎました。師の名跡を継ぐ器と力のないものが二代を称したものですから世人の反感を買い、
歌川をうたがはしくも名乗りえてにせの豊国にせの豊国
などという落首が飛んだりしました。国貞は心ある人々の勧めを受けて師名の相続をうながされましたが、なかなか承知しませんでした。が、天保十五年(1844年)、師の命日に、一同からたってと請われて、ついに意を決し、二世豊国を襲名しました。焉馬(えんば)がこれに対して祝意を表して祝歌を寄せています。
豊かなる国に穂にほのさき出でて年の尾ながく栄えこそすれ
国貞は弘化二年(1845年)に剃髪して名を尚蔵と改め、亀戸村の家は次女の婿である門弟国久に与え、自分は柳島に隠居して、安政二年(1855年)、国貞の号も長女の婿、門人国政に譲りました。彼は齢(よわい)古稀を過ぎても溌剌(はつらつ)とした青年の情熱を失わず、絵筆を取れば、たちまち濃艶華媚、見る者を恍惚とさせる美女を描き、「七十七翁豊国筆」の落款(らっかん:署名)を真に疑わせる趣がありました。壮年時代にはなはだ活躍につとめた彼は、晩年になってはきわめて謹直で、芝居見物以外に外出することはほとんどまれでした。元治元年(1864年)十二月十五日、
一向に弥陀にまかせし気の安さただ何事も南無阿弥陀仏
という辞世を残して安らかに逝きました。享年七十九。遺骸は本所亀戸村の天台宗光明寺に葬られました。仮名垣魯文の追悼の歌にいいます。
水茎のあとはとめても年波の寄せてかへらぬ名残とぞなる

其の芸術の生命
春信、春章、清長、歌麿らの諸天才に比べて、国貞はあくまで現実生活を謳歌し、より多く市民生活の芸術的解釈に身を捧げました。彼の霊筆を振るうところ、緑酒紅灯の巷に咲く花々のみではなく、世帯に辛苦する町家の女房も、花恥ずかしい初心(うぶ)な町娘も、水仕事の下女も、舞台に六法を踏む俳優も、三味線片手のやせ芸人も、すべてがふくよかな芸術的雰囲気に包まれて、髪型に、服装に、表情に、爛熟した化政期の江戸世相をまざまざと物語っています。国貞は風景画も造り、その薄墨の淡い藍と代赭(たいしゃ)をあしらった「霧中之山水」などは気品のすぐれた作品であり、また紅毛画と称する西洋画めいた構図に人物を配したものなども若干試みており、ことに枚挙にいとまがないほど多数描いた役者絵にも秀逸なものを多く残しています。が、彼の芸術的生命のかかっているものは、その風俗画でなければなりません。彼は江戸というところ、文化・文政という時代に生命を打ちこんだ画家でした。彼はその時代の江戸を背景にして営まれる日常の目にふれるもののあいだに画材を取り、あらゆる姿態と風情に詩の美を発見し、強い創作欲と激しい情熱をもって、報告に堕さず、煽情に走らず、艶容媚態(えんようびたい)のうちにも一種の厳粛な気品と霊気をもって、生活の種々相を表現したのです。風俗画をもって当時の庶民の生活相を直接間接に表現し、解説し、記録して芸術的な風俗史料を刻み、浮世絵末期の画壇を赫々(かくかく)と飾った国貞は、あらゆる意味において、まことに意味深い存在でなければなりません。
町家の女房も、下女も、やせ芸人も、この人の筆にかかればみな化政の江戸に生きています。にせの豊国と落首された二代目のあとを二十年間継がず、七十七になっても若い女を描き、何事も南無阿弥陀仏と詠んで逝った人。数万枚の絵は、一人の画家が一つの町と一つの時代に惚れ抜いた記録です。


