「疲れて眠いから、床を設けてください」
高知へ護送される途中、厠(かわや)に立ったとき、捕吏の長がひそかに言いました。「閣下の今日のことは、天下の人みな悲しんでおります。どうかここから逃げてください。あとのことは拙者が命をまとにして当たりましょう」。囚われの前参議は、静かに微笑んでそう答えただけでした。司法権の独立を打ち立て、自分の定めた法と、自分が任用した判事によって斬られた人。江藤新平(えとう しんぺい)です。
あたかも愚なるに似たり
「あんな新平のような子を持って、助右衛門さんも本当に不幸せな人じゃ」
こんなうわさを人々にされたのが、明治の偉傑江藤新平の少年時代でした。天下の風雲ようやく急を告げようとする天保五年(1834年)二月九日、佐賀に江藤助右衛門の子として産声を上げた新平は、幼いときから学問が好きで、読書を生とし命とし、少しも家事を顧みなかったので、人々はあざけって彼を悪童の見本としました。あるとき、無断で長崎へ走った弟の源作を連れに行くことを命じられた折にさえも、彼が行李に書物をしきりに詰めこんでいるので、とがめると、「一寸の光陰も軽んじられない。旅中随時適意に読むんだ」と言ったので、人々も黙ってしまいました。
「あの子はどうも変だ。うまい物をいくら与えてもうまいと言わず、またまずい物をいくら与えてもまずいと言わぬ。まるで味を知らないようじゃ」
と、助右衛門は人に語ったといいます。当時、新平の愛読した書に『北条五代記』がありましたが、そのなかの二巻が欠けていました。ある人がそれを持っていると聞くと、往復四里余りの道を駆けていって、借りて読みました。新平は読書にばかりふけってほかのことを知らず、一切身なりを構わないで馬鹿のように見えたので、人々は彼を「鈍漢」といいました。が、本人はいっこうに平気でした。当時佐賀藩では臘月(ろうげつ:十二月)末日に御殿女中が城内から出てきて、外郭に通じる路を往来する何人をでも突然に抱擁して胴上げにする風習があり、たとえ家老、重職の者でもこれに抵抗することを許されないことになっていました。ところが少年新平、たまたまそこを通りかかりましたが、婦女子の群れ、何するものぞと、大声で孟子を朗読しつつ悠然と歩を進め、路の左右をはさんだ艶粧花を欺く(あでやかな装いが花をも欺くほどの)女人連のなかを昂然と過ぎました。その風采恰好がまるで山男然としているものですから、彼女たちは狂人かと思ってあえて近づかなかったといいます。

蛟龍雲を得る
文久二年(1862年)六月、二十九歳、新平はついに決心して藩を抜け出し、上京して皇権回復運動に携わることになりました。そのために一時は蟄居を命じられましたが、その後、藩主鍋島直正の推挙によって徴士として明治政府に仕え、明治元年(1868年)鳥羽伏見の役ののち、三条実美が関東大監察使として江戸に下ると、江戸府判事に任じられ、もっぱら東都の民政に尽くすことになりました。やることなすことがいつも剛毅果敢であったために人々から憎まれたような点もあり、明治二年に彼が佐賀藩権大参事として副島種臣とともに佐賀藩政の大改革を行ったときなどは、東京に帰って間のない十二月二十日の夜更け、芝琴平神社のそばを通過しようとした刹那、突然暗やみから白刃をかざして躍り出た六名の凶徒のために、斬られて傷を負ったりなどした事件もありました。
四年には太政官出仕となり、ついで文部大輔に転じましたが、新平のもっとも冴えた頭脳を見せ、すぐれた力量を振るったのは、五年四月に司法卿となってからでした。
「法制を経とし経済を緯とし、もって法治国の基礎を建設せんがため、まず一般の官職制度をして法治的組織となし、司法権を独立させ、もって自由権利を保護する」
こうした年来の主張のもとに、彼は心力を傾けて、司法組織の改革、司法教育の設備、法典編纂の急施などの事務を急速に進め、また彼の温かい人情と正義観から出た、あの歴史的な人身売買の絶対禁止、監獄の改善などの大業を、彼一流の鮮やかな決断でやり通していきました。もちろんそれらに対しては、性急だとか放漫だとかといった反対もあり、また彼の鋭い直進的な剛毅の性格から来る閣僚との衝突もしばしばではありましたが、彼はあえて屈しませんでした。

野に下る
新平は明治六年(1873年)四月、参議(さんぎ:太政官制の最高官の一つ)に任じられましたが、あたかもその年、朝鮮は日本からの国書を拒絶し国使を凌辱しました。そこで新平は西郷隆盛、副島種臣、板垣退助、後藤象二郎らの参議たちとともに朝鮮遣使のことを議して、政府の意見はこれに決定していました。しかるに岩倉大使一行が欧州から帰朝するとたちまちこれをくつがえしたので、彼ら征韓論派の各参議は、十月二十四日、袂を連ねて辞表を提出して野に下ってしまいました。明治七年一月、新平は副島、板垣、後藤、由利らと連署して、専制に反対し民撰議院設立の建白書を新政府に提出して、全国はようやくやかましくなってきました。こうしたなかへ、佐賀の征韓党を代表した山田、中島の両急使が上京し、彼の帰県を乞うたのでした。

佐賀の乱
新平帰国の決心を聞いた板垣退助らは、彼の性格を知っていたので非常にこれを危ぶみ、極力引き止めようとしましたが、
「いやご心配くださるな。自分は決して騎虎の勢いに巻きこまれるような者ではない。必ずや誓って彼らを鎮撫いたしましょう」
と、新平はきっぱり言い、袂を払って佐賀へ立ち、一月二十六日に帰県したと底本はいいます。帰ってみれば、征韓論の破れたのを不満とする者二千有余人、ならびに現政府の施設をいとい機を見て起ち上がろうとしていた憂国党の面々一千有余、武器を集め、金穀を蓄え、相集まって騒然と、彼江藤の到着を待っていました。「願わくは我々の首領になってくだされ」と叫ぶ彼らを、新平は避けて、墓参かたがた深堀の親族の家に身を退いていましたが、突如、佐賀県権令岩村高俊が鎮台兵を率いて来たり、高圧的手段をもって新平らを一網打尽にしようとする報が伝わるに及んで、ついに激発した郷党の子弟に擁立され、事の成敗を顧みる暇もなく、蹶起しないわけにはいかなくなりました。
東京から馳せ下ってきた岩村は、熊本鎮台の兵を従えて佐賀城に入っていましたが、二月十八日、江藤方のために攻め落とされて筑後方面にのがれました。これより先、事態の重大を見て取った内務卿大久保利通は、自分が征韓論を抑えつけて多くの参議を辞職させた責任もあり、内外人心の動揺激しいその時局の危険性を見て取って自ら鎮定にあたる決心をし、十九日、兵を率いて博多に上陸して福岡に本営を置きました。征韓党派は両筑方面に兵を出して防備を施しましたが、二十二日しだいに敗れ、退却また退却、ついに支えられないのを知った新平は、二十三日の払暁、四、五名の士を連れて城を脱走し、鹿児島は西郷隆盛のもとへ飛びました。
三月一日の夕暮れ、水静かな鰻(うなぎ)温泉の閑居に西郷を訪ねた新平は、密談約三時間ののち帰り、またその翌早朝、西郷と密談すること約四時間。両雄膝を突き合わせて対座していましたが、新平の希望はついに西郷の容れるところとならなかったものの如く、彼は午前九時ごろ西郷に別れを告げました。が、西郷も別離の情に堪えない面持ちで、彼を送って指宿郡十二町村の湊まで行き、そこの区長宅に一泊して夜の更けるまで語り合いました。西郷と別れた新平は、一行とともに鹿児島を発して日向に行き、それより漁船に乗って伊予宇和島に渡り、そこから一行は三方に別れて高知に向かいました。そのころには政府の捜査いよいよ厳しく、写真人相書などは各地に配布されていました。その人相書にいわく、
「年齢四十一、丈高く肉肥えたる方、顔面長く頬骨高き方、眉濃く長き方、眼太く眦(まなじり)長き方、額広き方、鼻常体、口並体、色浅黒き方、右頬に黒子あり、言舌はなはだ高き方、その他常体」
二十四日、土佐浦戸に上陸した新平らは夜、林有造に会い、二十六日、高知から阿波に出ようとして山中を潜行し、二十九日、土佐、阿波の境なる野根村に達し、まさに甲浦に至ろうとして、ついに捕らえられました。四月三日、高知へ護送されましたが、その途中、新平が厠に入ったとき、捕吏の長である本山守時がひそかに、
「閣下、今日のことは、天下の人みなこれを悲しまない者はありませぬ。どうかここから逃げてください。あとのことは拙者、生命をまとにして当たりましょうほどに」
と真情を面に表して説きましたが、新平は少しも心を動かす様子なく、静かに微笑んで言うのでした。
「疲れて眠いから、床を設けてください」
こうして彼は佐賀に送られ、自分が任用した河野敏鎌の裁きを受け、自分の定めた法に照らされて、明治七年(1874年)四月十三日、従容として斬罪梟首(きょうしゅ)の刑に処せられました。

哀しき偉傑・江藤新平
維新の功臣中で、彼江藤ほど鮮やかな活躍を示し、また彼ほど悲惨な末路を見た人は少ないものです。智、勇、弁力ともに備えた稀代の偉傑であり、明治政府の草創時代から同六年に至るまでのあいだ、明徹な組織的頭脳をもって立法的才幹を発揮し、終始一貫、あるいは法治主義を実行し、あるいは立憲主義を唱導し、有司専制の時代において人権尊重の大義を主張してやみませんでした。彼には果敢で高邁な気象が横溢し、時代に先立つ識見とこれを行う気力が兼ね備わっていたからこそ、ややもすれば急激粗剛の譏(そし)りを受け、自ら持するところ高く、利欲に恬淡であったからこそ、醜悪貪婪を仇敵のように憎み、一切事を断じるのに峻厳だったからこそ、多くの敵を作ることとなりました。彼はいったん方向を誤り、前功をことごとく抹殺されて、梟首の刑にあう身とはなりました。けれども彼は叛臣ではなかったのです。西郷隆盛と同じく、過渡期の政争の渦中に倒れたのです。大正元年、大審院は彼の罪名消滅を宣明し、未亡人には養老金三千円が下賜されたと底本は記しています。
鈍漢と呼ばれた本の虫が、司法権の独立を打ち立て、人身売買を禁じ、監獄を改め、民撰議院を求め、そして自分の作った法で裁かれました。逃げろと言われて「眠いから床を」と答えた人の最期は、この人が作ろうとした法治の国にふさわしい、と言っていいのかもしれません。




