「板垣を殺しても、自由は死なんぞ」
明治十五年(1882年)四月、岐阜。演壇から控え室へもどる途中、短刀で胸を刺された男は、鮮血に染まりながら、千軍を叱りつけるような声で叫びました。板垣退助(いたがき たいすけ)、四十六歳。その血は、日本の自由民権運動の血でした。
啓蒙期の巨材
明治の政界の巨星、わが国会の父である板垣退助は、当時、フランス風の過激な思想の宣伝者として、保守の人々に恐れの念さえ抱かせたものでした。けれども板垣は、決してむやみに激しい言動をする人ではありませんでした。西南戦争のとき、土佐の青年のなかに西郷と通じようとたくらむ者があり、板垣もまた土佐にいて動かなかったので、政府はこの南海の風雲にひどく頭を悩ませました。けれども板垣はかたく穏健の立場を守り、民権論に興奮する門下の青年たちを、かえって取り静めたほどです。また明治二十九年(1896年)、政府と自由党のあいだに意志が通じて板垣が内務大臣に就任したとき、官僚たちは板垣の就任にまだ強い疑いの念を抱いていましたが、就任後、その私心のない公正な態度と人格に、かえって敬服したといいます。これは当時、内務省の官吏だった水野錬太郎(みずの れんたろう)の述懐です。実に板垣は、この時代の人々の目を開くために、あくまで信念を押し通してきた政治家であり、またそれにふさわしい大きな器でした。

意気軒昂たる青年時代
板垣退助は、天保八年(1837年)四月十七日、高知の中島町に生まれました。祖先は武田信玄の勇将・板垣駿河守信方(いたがき するがのかみ のぶかた)に発しています。歴代の名門で、父は栄六(えいろく)といい、文武の諸芸をきわめ、兵書に通じていました。母は林勝重(はやし かつしげ)の娘で、その実家は藩の門閥(もんばつ:家柄のよい家)で、一時は家老格の家柄でした。退助が維新の前後に藩中で重んじられ、明治政府になってもつねに重要な地位を占めたのは、もちろんその人格と見識が大きかったからこそですが、一面ではこうした家柄にもよるところがないとはいえません。
退助は幼名を猪之助(いのすけ)といい、後藤象二郎(ごとう しょうじろう)とはそのころからの友だちでした。幼いときは藩の教育を受け、十九歳のとき初めて江戸に出ましたが、ちょうど安政二年(1855年)の大地震にあって土佐に帰りました。その翌年、彼はあることで同輩を言葉でおとしめ、藩の罰を受けて、城下の南の領地・神田(こうだ)の里に流されることになります。彼が吉田東洋(よしだ とうよう)を知り、それまでの武術一辺倒で学問を見下す態度からはっと悟って、諸家の書を読むようになったのは、この流された暮らしのなかでのことでした。それ以前にも、吉田東洋から門人になれとすすめられたことがありましたが、「文弱の輩と共に天下のことをなす自分ではない」と自負して相手にならなかったのです。
神田の里に閉じこめられること四年、安政六年(1859年)五月になって、彼はようやく許されました。二十三歳のときです。大坪流の馬術、要馬術、調息流を学んで鍛錬につとめ、のちに江戸に出てオランダ式の兵術を研究しながら、時勢の流れに目を注いでいました。
機運はまさに向いてきました。万延元年(1860年)八月、彼は藩の免奉行(めんぶぎょう:税をつかさどる役)に任じられましたが、翌文久元年(1861年)十月には抜擢されて江戸藩邸の会計職となり、軍備の事務を兼ね、同二年にはさらに取り立てられて、隠居した前の藩主・山内容堂(やまうち ようどう)の側用人(そばようにん)となり、江戸藩邸の藩史総裁の職をつとめるに至りました。こうして彼の前途は洋々と開けていくかに見えました。
ところが、ここで形勢は一変します。翌文久三年(1863年)、将軍家茂(いえもち)が京都に上り、賀茂・石清水への行幸(ぎょうこう:天皇のお出まし)となったあと、薩摩と長州の両藩が反目し、尊王攘夷派の失敗、続いて七卿落ち(しちきょうおち:長州に味方した七人の公家が京都を追われたこと)の悲劇となって、京都の形勢は一変し、土佐藩の勤王派はここにまたつまずきました。
これより先の文久二年(1862年)四月、藩の参政で公武合体派の吉田東洋は、同じ藩の尊王攘夷派の刃に倒れていました。これに続いて隠居した山内容堂が帰藩するにあたって、板垣はその途中で、東洋の残党も急進的な尊王攘夷派も、いっさい登用してはならないと容堂に進言しました。容堂もその説が穏健で中正であることを認め、乱れた藩の内政を整えるために帰藩したのです。ところが帰藩した容堂はたちまち前言をひるがえし、極端に尊王攘夷派だけを退けました。板垣はこれを見て憤りましたが、尊王党の志士・中岡慎太郎(なかおか しんたろう)と親しく交わり、藩政の乱れを嘆きながら、大監察の職を古いぞうりのように捨てて、一人で江戸へ向かってしまいました。

維新前後の光彩
江戸に入った板垣は築地の藩邸に身をひそめ、深尾政五郎(ふかお まさごろう)について馬術をきわめるかたわら、オランダの本二十余巻をひもといて昼夜はげむこと三年、ようやくその奥義をきわめるに至りました。そして静かに天下の形勢をにらんでいたのです。そこへ、京都にいた同志・中岡慎太郎の急使が来ました。急使は言います。
「京都の形勢はいよいよ定まって、幕府の信用は地に落ちた。今事を決しなければ、わが藩はふたたび立つときがあるまい。すみやかに藩論の行き先を定めるべきである」
もはやためらう場合ではありませんでした。板垣は江戸を発ち、昼夜兼行で京都に着きました。慶応三年(1867年)五月のことです。彼は京都の同志と別れ、容堂を説き伏せるために帰藩するにあたって、まず大坂に寄って銃三百挺を買い入れ、非常の備えを整えました。そして帰藩すると同時に、まかりまちがえば切腹の覚悟で、容堂に血の涙のいさめをしたのです。結果は上首尾でした。藩論は急転直下、佐幕から倒幕に変わり、そのうえ彼は軍備総裁の職に任じられました。そこで彼は京都から急報が来るのを待ちながら、ただ藩の兵備を整えることに余念がありませんでした。それまで銃を持つのは足軽だけに限られていたのを、一般の武士の次男・末子から選んで新たに銃隊を組織し、ひそかに倒幕の兵を挙げる機会をうかがったのです。
しかしこの間、佐幕党、公武合体派は今なお影を潜めておらず、したがって、板垣の身辺は常に危ないものでした。
だが機会は到来しました。慶応四年(1868年)正月、京都から出兵の報が飛びこみ、板垣はただちに隊を整えて高知を発しました。まず高松を攻めてこれを降伏させ、下旬には堂々と京都に乗りこみました。そして二月の東征軍の編成にあたって、板垣は東山道軍の参謀となり、土佐藩兵の総大将を兼ねたのです。まず美濃、信州を経て甲州を攻め、三月に江戸に入り、四月には奥羽の野に向かって進んでいました。さらに東征軍は白河口を攻め、棚倉城に進撃し、平城を落とし、中山口、母成口の敵軍を突破して、ついに九月下旬、白虎隊の抵抗を破って会津の城を落としました。このときの板垣の働きは、土佐の板垣隊の奮戦と後年の自由民権運動とともに、彼の生涯で特記されなければならないものです。

大阪会議と自由民権運動
板垣は明治二年(1869年)四月に参与(さんよ)に任じられ、明治四年(1871年)七月には参議(さんぎ:政府の最高幹部)となりましたが、明治六年(1873年)十月、征韓論のことで西郷らとともに野に下りました。当時の政府は、人心をまとめる一策として広く各雄藩の代表を政府に集めるかに見えましたが、実権はかたく薩長の手に握られていたので、それに対する不平不満の波がしだいに高まってきていました。征韓論は政府に入れられず板垣は野に下りましたが、彼の本来の不満はそこだけにあったのではなく、薩長の強い藩の意向に重きを置く当局の専制への不満からであり、それを打ち破るために、権力を広く天下に分散する必要を切実に感じたからでした。
明治七年(1874年)、彼は土佐に帰って立志社(りっししゃ)をつくりましたが、これは前に述べた意味から、地方に自治の思想を広めるためでした。彼はその年、左院に対して民撰議院設立の建白書を提出しましたが、採用されませんでした。翌明治八年(1875年)一月、彼は井上馨(いのうえ かおる)の計画に賛成して、木戸孝允(きど たかよし)、大久保利通(おおくぼ としみち)、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らと大阪で会合しました。そして専制を改めて立憲主義をとるという条件で、ふたたび政治に協力することを約束しました。世にいう大阪会議とは、このときのことです。この結果、同じ年の三月、彼はふたたび参議の要職に復し、木戸、大久保、伊藤らとともに政体取調の命を受けました。
けれども板垣は、長く政府にとどまりませんでした。立憲の代議制度をしこうとするにあたって木戸と板垣のあいだに方針の食い違いが生じ、また政府が新聞条例や讒謗律(ざんぼうりつ)をしいて言論の自由をおさえる手段に出たので、板垣は明治八年十月二十七日、憤然として職を投げうったのです。

岐阜の遭難以後
板垣はふたたび土佐に帰って、民権運動に没頭しました。これはたちまち天下の志士を奮い立たせ、当然、国会開設の願いに転じて、猛烈な国民的な運動に発展しました。大隈重信(おおくま しげのぶ)の急進論をおさえていた政府の内部も、この大勢は支えきれず、ついに明治十四年(1881年)の大詔(たいしょう:天皇のお言葉)の発布となり、明治二十三年を期して国会を開設する旨が天下に明示されたのです。これに続いて板垣を総理とする自由党が組織され、大隈の改進党も結成されました。やがて開かれる国会に対する準備としてです。
明治十五年(1882年)四月六日、板垣は遊説のため岐阜に赴きました。そして演壇から控え室にもどる途中、反動の刺客・相原尚褧(あいはら なおぶみ)に短刀で胸を刺されました。このとき彼は、鮮血に染まりながら、千軍を叱咤する声で叫びました。
「板垣を殺しても自由は死なんぞ」
傷はさいわい急所をそれていたため一命はかろうじてとりとめましたが、こうして彼の自由民権運動は、文字どおり血しぶきを浴びたのです。
内務大臣をつとめること二回、明治三十三年(1900年)に立憲政友会が組織されると、彼は自分にできるかぎりの啓蒙(けいもう:人々の目を開くこと)の役割を果たし終えたことを自覚し、いさぎよく政界を引退して、余生を社会事業にささげました。そして大正八年(1919年)七月十六日、八十三歳で世を去りました。尾崎行雄(おざき ゆきお)、犬養毅(いぬかい つよし)に先立って、身をもって民衆の声を代表して戦い、時代を進める役割を果たした板垣退助は、日本の政治史上に燦然と輝く巨星でなければなりません。


