明治二十年代のことです。
ある寄生虫が、いったいどんな道筋を通って人の体に入り込むのか。それを確かめるために、一人の学者が、自分の肉体を実験の材料に使いました。
駆除の方法を心得ていたとはいえ、大胆な話です。文字どおり、身を捧げての研究でした。
その人は、東京帝国大学の理科大学で三十五年間教授を務め、日本の動物学の土台を築いた人でした。彼が新しく発見し、その名を冠して「飯島何々」と呼ばれる鳥・虫・微生物の数は、数えきれないほどにのぼります。
飯島魁(いいじま いさお)。日本の動物学界を、世界に劣らぬ水準まで押し上げた人でした。
動物学界の権威
日本の動物学の研究は、今日、世界と比べて何の遜色もないほどに進んでいます。もちろんそれは、明治以来の急速な科学の発展によるものでしょう。しかし、明治十九年(1886年)から三十五年もの長いあいだ理科大学の教授を務め、この学問の研究に没頭し、学生を教え導くことに力を注いだ、動物学の世界的権威・飯島魁の功績を、私たちははっきりと認めなければなりません。
彼に教えを受けた多くのすぐれた人材が、いまこの学問のために活躍している。それだけでも大きな貢献です。しかし彼の仕事は、学生を育てたことにとどまりません。臨海実験所の所長として施設と運営に力を尽くし、大学の理学部紀要(きよう:大学が発行する学術論文集)の編纂を担い、日本の学術を世界に紹介する。そうした労苦と功績は、彼自身の研究とあわせて、じつに大きなものでした。

では、その研究の成果を挙げてみましょう。
明治十五年(1882年)、イギリスの顕微鏡雑誌に発表した蛭(ひる)類の生殖に関する論文。明治十六年(1883年)、佐々木忠次郎(ささき ちゅうじろう)と共著で記した常陸国陸平貝塚(ひたちのくにおかだいらかいづか:現在の茨城県稲敷郡美浦村)の報告。明治十七年(1884年)、ドイツ留学中にドイツ第一流の動物学雑誌に発表した『淡水産渦虫類(うずむしるい)の構造および発育』——多くの新事実を明らかにして学界に重んじられた論文です。同じ年、同じくドイツで発表した、吸虫類の生殖器と腸をつなぐ管の発見。これらが最も名高いものです。彼がどれほど非凡な科学の才能を持っていたか、想像がつくでしょう。
明治二十八年(1895年)ごろまでは、主に寄生虫の研究に力を注ぎ、そのあいだに珍しい人体寄生虫について数種の論文を発表しました。とくに、日本で裂頭条虫(れっとうじょうちゅう:サナダムシの一種)がどんな経路で人の体に入るかを確かめるために、自分の体を実験材料にしたことは、駆除法を心得ていたとはいえ、大胆で、文字どおり献身的な研究だったといえます。
二十八年からあとは、もっぱら硝子海綿(ガラスかいめん)の研究に取り組み、数編の大論文を発表して学界に大きく貢献しました。
教科書としては『中等教育動物学教科書』があります。これは日本における近代的な動物学教科書の嚆矢(こうし:最初のもの)でした。晩年の『動物学提要(ていよう)』は、長年心血を注いだ研究の成果をまとめたもので、後に続く研究者に与えた恩恵はきわめて大きなものでした。彼が今日の動物学界に残した貢献の大きさは、これだけでも明らかでしょう。

主なる研究
飯島魁は文久元年(1861年)六月十七日、遠州浜松の城下(現在の静岡県浜松市)に生まれました。幼名は幡之助(はたのすけ)。明治八年(1875年)、十五歳で東京開成学校に入り、十一年(1878年)に東京大学の生物学科へ。十四年(1881年)、わずか二十一歳で理学士となりました。生物学科の第一回の卒業生です。
十五年(1882年)に選ばれて海外留学を命じられ、ヨーロッパに三年滞在して研鑽を積み、十八年(1885年)に帰国。翌年には理科大学の教授に任じられました。以後三十五年間、学生の教育と動物学の研究に生涯を捧げたのです。理学博士となったのは明治二十四年(1891年)、三十一歳のときでした。
彼は学生時代から蛭類の研究に強い興味を持っていました。これは東京大学教授ホイットマンの影響だったといいます。ホイットマンは東京大学にいたころ、日本の蛭類の採集と研究に熱中し、その成果の一部をイギリスの学術雑誌に発表して好評を得ました。そのとき飯島は、その動物学教室にいたのです。
卒業論文も蛭類に関するものでした。その後もますます研究を重ね、明治十八年から二十三、四年ごろまでは盛んに採集を行い、とくに陸に棲む蛭には強い関心を向け、画家に全身の図を描かせたりもしています。しかし公務の忙しさや他の研究のために、惜しくも発表には至りませんでした。
その後、彼の研究は鳥類に重きを置くようになります。当時さかんに銃猟をやっていたところから思い立ったのだそうです。鳥類の標本をさかんに買い集め、整理し、その熱心さは、当時この分野の権威だったワシントンのスタイネゲルに標本を送って学名の判定を頼んだほどでした。今日、帝国大学の動物学教室が外国からの参観者に鳥類の標本を示して少し得意になれるのは、じつはこのときの彼の苦労の賜物なのです。やがて彼の指導のもとから多くの熱心な研究者が育ち、日本鳥学会の設立に至りました。
次に、渦虫類の研究です。これはドイツ留学中にロイカルト教授のもとで研究していたときに始まったもので、帰国後も日本産のものに目を向け続け、機会あるごとに採集と全身図の作製にあたっていました。晩年に至るまで、他の研究で忙しいなかでも、この虫たちへの関心を持ち続けていたといいます。
そして、彼の研究のなかで特筆すべきものが、寄生虫の大きな研究です。帰国した当時、日本の寄生虫についての知識はきわめて貧しく、日本特産の人体寄生虫といえば、肝臓ジストマ(肝吸虫)などを数えるくらいでした。彼はここに目をつけ、献身的な努力を重ねて、日本の寄生虫学に大きな刺激を与えます。著書『人体寄生動物編』は、まさに日本におけるこの分野の研究著作の始まりでした。今日、日本の寄生虫学者の学説は世界の学界で重んじられていますが、それを飯島魁の功績によるものと見るのは、言い過ぎでしょうか。
最後に、晩年の心血を注ぎ尽くしたものが、海綿類の研究です。明治二十六、七年(1893〜94年)から、彼はもっぱら六放海綿(ろっぽうかいめん)の研究に打ち込み、ほとんど毎年、この分野の論文を発表しました。専門の学者たちが刮目(かつもく:目をこすってよく見ること)して迎え、外国の雑誌でも大いに賞賛された研究です。
この分野での彼の貢献は広く学界に認められ、ついにオランダの学術探検船シボガ号が航海を終えたとき、探検隊長のヴェーバーは、採集した六放海綿の研究報告を飯島魁に依頼するに至りました。これはまさに大事業でした。インド洋と太平洋の両方にわたる同じ仲間の再調査を意味するものです。彼はこれを快く引き受け、以後、寝食を忘れて研究に没頭したのでした。
こうした数多くの研究のなかには、新発見を記念して彼の名を冠した、いわゆる「飯島何々」と呼ばれる鳥・虫・微生物が無数にあります。一つひとつ挙げて説明すれば、おそらく一冊の本になるでしょう。

性質恬淡な学者
こうした面だけを見ると、頑固一徹な人のように思えるかもしれません。しかし実際はそうではありませんでした。彼は恬淡(てんたん:あっさりしていて物事に執着しない)な性格で、情に厚く、知人や旧友はもちろん、学生からもその人柄をいつも慕われていたのです。
理学博士の吉田貞雄(よしだ さだお)は、彼に教えを受けた学生の一人です。吉田は先生をこう振り返っています。
吉田が選科生として東大の動物学科に入ったあと、とくに親しく指導を受けるようになったのは、一九〇五年(明治三十八年)の夏からでした。その年の六月末、もう夏休みに入っていた学校で、突然、先生の部屋に呼ばれます。何事かと思って伺うと、先生は「来学年から何か研究せねばならぬが、何か望みのテーマでもありますか」と尋ねました。三年になると何か調べて卒業のときに結果を出さなければならない、という話は聞いていましたが、そのとき吉田には何の希望もありません。「何も思いつきはありません。何か適当なものがありましたら」とお願いすると、先生はすぐに「誰かに雌虫の研究をさせたいと思うが、君はどうです」と言いました。喜んでやってみます、と答えたそうです。
これが、吉田が寄生虫を調べ始めたきっかけでした。さっそく三崎の実験所へ行って採集に加わりましたが、初めはどう研究すればよいのか見当もつきません。参考書も先生から借りましたが、いちばんの手引きは先生の指導でした。あとから思えば、さぞかし無駄な手間をかけさせたことだろう、と吉田は振り返っています。先生から受けた恩は、直接間接の指導や薫陶(くんとう:人を教え導くこと)だけではなく、自分の身の上のことにも多くの心配りをいただいた。浅学非才の自分が今日あるのはまったく先生のおかげで、その事実は数え切れないほどある——と、吉田はその回想を結んでいます。
理学博士の佐々木忠次郎は、こんな話を語っています。
博士は書生時代から酒が好きでした。明治十二年(1879年)ごろ、博士と佐々木の二人は、東京大学総理の命令で大森貝塚(いまの大森停車場から東京に向かって三、四丁ほどの山手)の発掘にあたることになります。二週間ほど出張することになり、旅費として日当五十銭が出ました。二人は相談して、これで往復の旅費を払い、残りの金で帰り道に神田橋のたもとのある牛肉屋で必ず夕食をとることにします。それでもなお燗酒一本分の余裕があり、この分はいつも博士のものとなって、大いに鋭気を養った——というのです。

こうした話からも分かるように、彼は決して学者然と納まり返るような人ではなく、じつに世慣れた性格の持ち主だったようです。
彼が就いた公職の数は、発見した動物の数にたとえられるほど多くにのぼりました。大正九年(1920年)には学術研究会議の会員に推され、研究に専念していましたが、翌十年(1921年)三月十四日、惜しくも病で亡くなります。享年六十一歳。
オランダのシボガ探検隊から託された六放海綿の研究報告は、たゆまぬ根気と熱心さで、大判の洋紙およそ千枚まで書き続けられていました。その完成を見ずに逝ったことは、彼一人の無念ではなく、世界の学界にとっての大きな損失でした。



