牛込(うしごめ:現在の東京都新宿区の一角)の加賀屋敷に、一人の旗本が住んでいました。和漢の学問に通じた学者で、屋敷の名にちなんで賀邸(がてい)と号していました。
その門下に、ひとくせもふたくせもある若者たちが集まっていました。小島源之助、太田直次郎、山崎郷助(やまざき ごうすけ)、立松東蒙(たてまつ とうもう)。ときおり顔を合わせては、和歌の研究会を開いていたのです。
はじめのうちは真面目でした。けれども、取り澄ました歌、涙にくれる歌を真顔で論じ合っているうちに、江戸っ子の血が騒ぎます。誰かが名歌の一句を言い換えて笑わせ、次の者がもっとひどい言い換えを持ち出す。会は、いつのまにか古今の名歌をからかう会になっていました。
阿倍仲麻呂(あべの なかまろ)の「天の原ふりさけ見れば」は、山崎郷助の手にかかると、こうなりました。
天の原 月すむ秋を それたつに ふりわけ見れば てうど仲麿
この山崎郷助が、のちに朱楽菅江(あけら かんこう)と名乗ります。天明(てんめい:一七八一〜八九年)の江戸に狂歌の大流行を巻き起こした四人のうちの一人。そして、その中でただ一人、最後まで「上品に、俗にならずに」笑い続けた人でした。
江戸の発達と江戸ッ児の文学
徳川時代の狂歌師・朱楽菅江は、大都市・江戸の暮らしが生んだ詩人でした。
では、その江戸はどんな町だったのでしょうか。江戸が大坂とは違う、独自の性格を持った大都市として育ち始めたのは、ようやく文化・文政(ぶんか・ぶんせい:一八〇四〜三〇年)のころでした。それまでの江戸は、諸国から流れ込んできた田舎者が街を開き、塀をめぐらして、陰気に寄り合って暮らす、野暮(やぼ)で野蛮な町だったのです。
大坂は反対でした。ずっと昔から港であり、都市の形をなしていました。徳川の世になると、幕府直轄の自由な都市として、いっそう発展します。大名屋敷は少なく、旗本もいない、町人の天下でした。大坂の町人は幕府から比較的多くの自由を与えられ、日本全国を相手に手広く商いをしました。問屋(とんや)、両替屋(りょうがえや:金銀の交換や貸し付けを行う金融業者)、金銀や米の取引所といった大きな商業の仕組みを、自分たちで育てたのです。徳川時代の初めには、もう日本の金の動きを左右し、幕府や大名や武士と堂々と向き合う、一つの社会的な力になっていました。
だからこそ、そこには覇気(はき)に富んだ、奔放で豪快な、生気あふれる元禄(げんろく:一六八八〜一七〇四年)の文化が生まれました。井原西鶴(いはら さいかく)、近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)といった文豪が、相次いで現れたのです。
一方の江戸は、大坂と反対の性質——消費する都会として、しだいに育っていきました。参勤交代(さんきんこうたい:大名が一年おきに江戸と領国を往復する制度)が敷かれ、全国の大名が江戸に屋敷を構えます。大勢の家来を連れて、年ごとに江戸へ上ってくる。そこで、大名や武士という「消費する側」の人々を相手にした経済が育ったのです。大坂の問屋に対して、江戸では小売店が異常なほど発展しました。土木工事が盛んだったので、職人がとても多くなり、吉原(よしわら)をはじめとする遊里がにぎわいました。そして天明のころには、町人の人口だけで百三十万を数える大都会になったのです。

ここで、それまで旗本や田舎武士に頭を押さえられ、道を歩くにも小さくなっていた町人が、そろそろ力を持ち始めます。
まず、札差(ふださし)という商人が現れました。旗本が幕府から俸給として受け取る米を代わりに受け取り、それを担保に金を貸す商売です。この人々は莫大な富を築きました。旗本たちは、彼らに頭を下げて借金をしなければ暮らしていけません。武士と町人の立場は、まるであべこべになってしまったのです。さらに、幡随院長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ)に代表される町奴(まちやっこ:町人の侠客)も現れて、武士の勢力に一矢を報いました。
こうして江戸に、江戸っ子の文学が育つ土壌が開けました。
町人の暮らしは豊かになりました。しかも彼らには、武士のような政治の悩みも、体面や礼儀や規律の縛りも、金の悩みもありません。自由な楽しみを思うままにしました。吉原や深川など歓楽の場所は繁盛し、劇場はかつてない盛況を見せ、音楽は発達し、浮世絵をはじめとする新しい美術が興ります。それまで大坂や京都の上方(かみがた)文学のあとを追っていた江戸の文学も、ここで独自の発達を見せました。山東京伝(さんとう きょうでん)、曲亭馬琴(きょくてい ばきん)、式亭三馬(しきてい さんば)、十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)、柳亭種彦(りゅうてい たねひこ)、為永春水(ためなが しゅんすい)。この六人が、続々と現れることになるのです。

馬鹿不孤必有隣
これが、関西の「元禄文化」に対する、いわゆる「化政(かせい)文化」です。
当時「十八大通(じゅうはちだいつう)」と数えられた村田春海(むらた はるみ)、大和屋文魚(やまとや ぶんぎょ)、大口屋暁翁(おおぐちや ぎょうおう)といった人々は、江戸の文化人の代表でした。一夜の遊びに千金を投じる豪遊で巨万の富を使い果たしながら、その一方で芸術の保護者として、文芸の発達を大いに助けたのです。
彼らを代表とする江戸っ子は、上方の「粋(いき)」に対して「通(つう)」を重んじ、上方の華やかさに対して渋みを重んじました。誇りとしたのは、男気と淡白さと清廉さと軽快さ。もっとも好んだのは諧謔(かいぎゃく:気のきいた冗談)と笑い。そして、たえず自分たちを押さえつけてくる幕府の政治に対する、逆襲としての風刺と皮肉と嘲笑でした。
だから江戸の文学は、当然、こうした江戸っ子気質の色に染まります。洒落本(しゃれぼん:遊里を題材にした小説)、黄表紙(きびょうし:大人向けの絵入り読み物)、川柳、そして狂歌が、独特の発達を見せました。なかでも狂歌は、空前の流行でした。
朱楽菅江は、その狂歌の代表者の一人です。彼の作風は一世を風靡(ふうび:広く世間に行きわたること)しました。
蜀山人(しょくさんじん:大田南畝)の『寝惚先生文集(ねぼけせんせいぶんしゅう)』初編の序に、「馬鹿不孤必有隣(ばか、こならず、かならずとなりあり)」という言葉があります。もちろん『論語』の「徳は孤ならず、必ず隣あり」(徳のある人は孤立しない、必ず理解者が現れる)をもじったものです。
江戸の狂歌は、一人の天才が現れて流行らせたものではありません。気の合う者どうしの社交的な集まりから、いつとはなしに生まれたものです。「馬鹿は一人ではない、必ず仲間がいる」という言葉は、そのまま江戸狂歌の生まれ方を言い当てています。
狂歌の歴史をたどれば、『古今集』まで、さらにその前の『万葉集』までさかのぼれます。けれども専門の狂歌詩人が現れたのは、元禄のころ大坂に出た油煙斎(ゆえんさい:鯛屋貞柳)が最初です。その歌はきわめて俗っぽいものでしたが、それだけに大受けして、京阪(けいはん:京都と大坂)では一時たいへん流行しました。
それよりずっと遅れて、江戸の狂歌は明和(めいわ:一七六四〜七二年)のころから始まります。いわゆる「天明調」です。
当時、牛込の加賀屋敷に内山伝蔵(うちやま でんぞう)という旗本が住んでいました。和漢の学に通じたたいへんな学者で、加賀屋敷に住んでいたので号を賀邸といいます。その門人の小島源之助、太田直次郎、山崎郷助、立松東蒙らが、ときどき集まって和歌の研究会を開いていました。いずれも機知に富んだ、ひとくせもふたくせもある連中です。古来の歌人の取り澄ました、感傷的な歌を真面目に研究するのが、やがて馬鹿らしくなってきます。しまいには風刺・諧謔・皮肉を好む持ち前の江戸っ子気質をむき出しにして、会はついに、古今の名歌をからかう会になってしまいました。
たとえば、こんな具合です。
天の原 月すむ秋を それたつに ふりわけ見れば てうど仲麿(あけら漢江)
山里に 尻ごみしつつ 入りしより うき世の事は 屁とも思はず(四方赤良)
山川に 風のかけ乞 それならで はらへば夏の しがらみもなし(唐衣橘洲)
日のかげは 小春もまじる 朝の霜 どちらが冬と ふみわけて見ん(平秩東作)
この人々——山崎郷助は朱楽菅江(あけら かんこう)、太田直次郎は四方赤良(よもの あから:蜀山人)、小島源之助は唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)、立松東蒙は平秩東作(へずつ とうさく)と名乗り、いずれも江戸狂歌の祖となったのです。
それからというもの、狂歌はすさまじい勢いで流行しました。少しでも文字を知る江戸の市民はこぞって熱中し、滑ったといっては狂歌を詠み、転んだといっては狂歌を詠むようになります。やがて宿屋飯盛(やどやの めしもり)、浜辺黒人(はまべの くろひと)といった名人も現れました。小説家では曲亭馬琴、山東京伝、十返舎一九、式亭三馬、恋川春町(こいかわ はるまち)。画家では喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)、歌川豊春(うたがわ とよはる)、勝川春章(かつかわ しゅんしょう)も狂歌熱にかかりました。平賀源内(ひらが げんない:風来山人)のような大学者も盛んに作っています。
そして天明三年(一七八三年)には『狂歌若葉集』『万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)』が出ます。同五年には『徳和歌後万載集(とくわかごまんざいしゅう)』、同七年には『狂歌才蔵集(きょうかさいぞうしゅう)』。いずれも狂歌の傑作を集めたものです。

狂歌詩人としての彼の位置
朱楽菅江は元文三年(一七三八年)に生まれ、寛政十二年(一八〇〇年)まで生きました。
本姓は山崎景貫(やまざき かげつら)。牛込の二十騎町(にじっきまち:現在の新宿区)に住み、幕府の与力(よりき:奉行や組頭の下で実務にあたる下級の武士)でした。准南堂(じゅんなんどう)、芬陀利華庵(ふんだりけあん)などの別号もあります。狂歌のほかに、戯文(げぶん:ふざけた味わいの文章)や小説も書きました。
彼の狂歌でいちばん有名なのは、次の一首です。
ほととぎす みそかにないて すぐる夜は あとに残れる 月影もなし
「みそか」は、月の出ない晦日(みそか)と「ひそかに」を掛けたもの。名歌の風格と掛け言葉のおかしみを一首に同居させた、菅江らしい歌です。
著書には『大抵御覧狂歌大体(たいていごらんきょうかたいてい)』『狂歌題林鈔(きょうかだいりんしょう)』などがあります。
当時、江戸の市民の暮らしには、武士も町人もありませんでした。いや、江戸の武士たちは、武士であることをなんとなく照れくさく思っていたのです。私生活はすっかり町人のようになり、町人に交じって暮らしていました。とくに、世の中を茶化して暮らす狂歌詩人のあいだでは、身分の区別などまったくなかったのです。
たとえば菅江は天下の直参(じきさん:将軍直属の家臣)で、蜀山人はかなり身分の高い旗本でした。一方、平秩東作は田舎侍の出で、武士がいやになり、たいへんな学者でありながら学問で身を立てることも好まず、流浪の末に小さな煙草屋の主人として一生を終えた人です。宿屋飯盛はまったくの町人で、宿屋の主人。談洲楼焉馬(だんしゅうろう えんば)は狂歌詩人であると同時に、価値の高い著書を残した芝居の研究家でしたが、職業は大工でした。
このように、旗本も武士も町人も職人もありませんでした。彼らは気の合うままに寄り集まり、文を作り、歌を詠み、酒宴を開き、遊里に遊び、できるだけ馬鹿になって、世の中を茶化して暮らしたのです。
だから朱楽菅江の生涯には、とりたてて記すべき出来事もありません。
ただ、彼には一つの特色がありました。蜀山人は「世の中に かほどうるさき ものはなし ぶんぶといふて 夜もねられず」と詠んで、幕府の文武奨励を風刺し、風来山人は、社会への不満を狂歌に託し、ついには獄中で生涯を終えましたが、菅江はそうではありませんでした。あくまで世の中を「上品に」「俗にならずに」からかって、一生を終えた人です。言い換えれば、狂歌のうえでの主張どおり、狂歌の正統派、穏健派の大御所でした。それが、狂歌の歴史における彼の一つの特異性なのです。


