良心に貫かれた作家
大正から昭和にかけての文壇(小説家たちの世界)において、独特の作風を持ってその存在を称賛された作家の一人である芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)は、若くして才能を発揮した才人でしたが、まだ三十歳にも満たない若さでありながらも決してその才能に溺れることなく、一躍堂々たる「大家(たいか:優れた人物)」の仲間入りを果たしました。
彼はむやみやたらに筆を走らせて書くような軽率な態度を深く慎みました。コツコツと努力して築き上げるような、非常に慎重な態度で作品作り(創作)に向かいました。彼にとって、それはまさに一つの「戦い」だったのです。
彼の作品を読むと、あまり勉強をしない人も多い文壇の人たちの中で、彼は断然群を抜いた博学な作家であったことがわかります。彼は一つの作品を完成させるためには、東西の数多くの本を読みあさり、丹念に材料を調べ上げ、可能な限りのあらゆる準備を整えた上で取り掛かり、そしていったんまとめ上げると、今度はその文章を練り直すこと(推敲:すいこう)に全身全霊の努力を注ぎ込みました。
それは作品を書く時の態度ばかりでなく、彼が文芸の講演会に臨む場合などでも、実に細かくプランを立て、十分に自信が持てるまで調べ上げた上で演壇に立ちました。ある時など、彼は大きな風呂敷包みを重そうに提(さ)げて演壇に現れました。そしてそのかさばった包みをドシンとテーブルの上に置きました。聴衆はなんだろうと目を見張りました。そして風呂敷が解かれた時、「おやっ」と再び目を輝かせました。そこには六冊の分厚い本が現れたのです。芥川はやがて講演を始めましたが、彼は時々かがみ込んではその本のページをめくるのでした。一言一句の端々にまで神経を集中させ、間違いを犯しはしないかと常に気を配っていたのでしょう。
その時、聴衆はさらに驚かされました。最初、あれだけの材料を持って演壇に現れた芥川ですから、てっきり大講演をするのだろうと思っていたのに、彼の講演の時間はその時わずかに三十分足らずだったのです。彼が、事の大小(軽重)を問わず、どれほど良心的であったか、そしてどれほど慎重な態度を持ってそれに臨んだかが、この点においてもはっきりと表れていたのです。彼は実に、生涯を努力と良心で鞭打つように生き抜いた作家でした。

『新思潮』の異才
芥川龍之介は、明治二十五年(一八九二)三月一日、東京に生まれました。生まれたのがちょうど辰(たつ)年の辰の月、辰の日、辰の刻(時間)だったので、それにちなんで龍之介と名付けられたのだと言います。
本当の名字は新原(にいはら)氏ですが、母方の実家である芥川家の養子に入って芥川の姓を名乗りました。本所(ほんじょ)の第三中学校を出て第一高等学校に進み、帝国大学(現在の東京大学)の英文科を卒業しましたが、学生時代から夏目漱石(なつめそうせき)の家(門)に出入りし、菊池寛(きくちかん)、久米正雄(くめまさお)、松岡譲(まつおかゆずる)、成瀬正一(なるせしょういち)などと意気投合して雑誌『新思潮(しんしちょう)』を発行して創作を発表し、久米正雄と共に「新思潮の三羽烏(さんばがらす)」と並び称されました。そしてその頃からすでに小説家(文士)としての生活をしていました。
芥川の優れた才能(俊腕異才)を最初に認めたのは夏目漱石ですが、やがて彼が文壇において確固たる地位を築くに至った出世作は、漱石に激賞(大絶賛)された『鼻』と題する小説です。
大正五年、帝国大学を卒業すると、彼はすぐに海軍機関学校に就職して教鞭(きょうべん)をとりました(先生になりました)。教えたのは英語。その頃彼は、祝日というと決まって学校を欠席しました。校長が不思議に思ってその理由を尋ねると、彼は頭をかいて、
「この私の長い顔を見て下さい。シルクハットなんて被ったらどんなことになりますか」
と言ったという話が残っていますが、ここにも彼の持つプライドの一面が表れていると言えるでしょう。
その海軍機関学校も半年で辞めてしまいました。そして彼はますます作品作りに専念したのです。古典的なものの中に新しい技巧(クラシックな新技巧)を示して活躍し、新思潮派の中でもナンバーワンと見なされましたが、彼は仕事の上では誰にも負けないという自信を常に持っていました。
全身全霊の努力を常に失うことのない、あの良心的な態度があってこそ、はじめて持てるプライドでしょう。彼はまた、「澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)」という俳句用の名前(俳名)で俳句をたしなみ、好んで河童の絵を描きました。絵は技術上の上手い下手は別として、彼の神経質な一面をよく表しています。

芸術上の苦悶
自負心が強く、負けん気の強い気性であった反面、彼はまた涙にもろい人情家でもありました。養母に仕えて、いかに素直に親孝行を尽くした彼であったかは、毎晩三十分ずつ養母の肩を揉んだということからも想像できます。
生活の苦しさのために死を選んだ人たちの記事を新聞の三面記事(社会面)で見るにつけても、
「こういう人たちのことを見るにつけても、こうやって自分が生きていることが申し訳ないと思う」
と嘆いたと言います。彼は自分の生活にも悩み、芸術上の悩みにも直面しましたが、しかしその中で熱い情熱に激しく鞭打ち、全身の努力を傾けて作品を書きました。その結果、一つの作品ごとに評価を高め、その一挙手一投足にも世間の人々の注目を集めるに至りました。彼は谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)を驚かせ、佐藤春夫(さとうはるお)を「過渡期の作家」として一蹴(いっしゅう:相手にしないこと)しました。
ですが、そうした彼の前にやがて恐るべき強敵が現れました。志賀直哉(しがなおや)の存在でした。芥川の文学の命は、あくまで手を抜かない良心的な態度と「技巧(テクニック)」にあります。それに反して志賀直哉の芸術は、知恵とか技巧などからかけ離れたところにある、リアルな生活に基づく芸術です。まるで住んでいる世界が違うのですから、さすがの芥川もこれにはどうしても歯が立ちませんでした。
彼はついに、
「自分は、天下でただ一人、志賀直哉に立ち向かう時だけは全く息が切れる。生涯の自分の仕事もただ一人、志賀直哉の仕事にだけはかなわない」
と悲鳴を上げたと言います。彼自身が天才だからこそ、天才・志賀直哉の凄さを深く理解したのでしょう。
しかし、彼が悲鳴を上げるに至ったのは果たして志賀直哉に圧倒されたということだけにあるのでしょうか?いやいや、彼の常に持っていたプライドは、断じてそのようなことだけで屈したり、挫けたりはしません。表面上にはそう見えたとしても、その根本的な理由は別であったに違いありません。
彼は『侏儒の言葉(しゅじゅのことば)』の中で、今の世の中が良いか悪いかはもう常識であって論争の時期ではない、新たな建設に取り掛かる時だ、という意味のことを言っています。当時の社会情勢を明確に認識していたからこそです。
同時に彼は自分自身の芸術の限界をもはっきりと見極めたのです。彼は自分の芸術はもうこれ以上には進まないと思い、このままじっとしていても、世間は押しも押されもせぬ大家として扱っていくでしょうが、何もしないままでそうされることは恥辱だと考えるに至ったのです。

苦悶の総決算
彼の初期のものには『羅生門』『春服』『黄雀風』等、多くの著書がありますが、晩年の力作『西方の人』はそうした多くの著作の過程において生まれ育ってきた、彼の人生観の総決算と言われています。また彼の魂をつかみ出して書いた『阿呆の一生』には、額に汗をにじませた必死の彼が表現されていますが、何と言っても社会に与えた大きな衝撃は、彼の自殺であり、彼にとっては身をもって成し遂げた最後の芸術と言っていいでしょう。
彼は自分の文学が発展していく過程において限界まで苦しみを続け、その苦しみをさらに一歩追及したならば、もはや彼の芸術は大きな転換を成したであろう限界にまで到達したとき、そこに横たわる一つの溝の前で立ちすくんでしまったのです。そして自分の芸術がこの溝を飛び越えられないものであることを、さらに確実にはっきりと自覚しました。
あくまで良心的な、そして貴族的なプライドを持つ彼は、この場合自分の芸術を、そして自分自身を、一体どのように処置したでしょうか。
『倒れて後已む(たおれてのちやむ:死ぬまで努力を続けること)』という言葉がありますが、彼はついに睡眠薬ベロナールを飲み込み、深い眠りに陥ることによって、その苦しみから身を避けました。
すべての現実から自分自身を切り離したのです。そして彼は永遠にその眠りから覚めませんでした。昭和二年(一九二七)七月二十四日のことで、彼はまだ三十六歳の若さでした。
あまりにも深刻を極めた作家の道を最後まで突き詰めて死を選んだ点で、彼を「第二の北村透谷(きたむらとうこく)」と呼んだ人もいます。しかし真剣な気持ちで現実社会を観察していたので、謎の死として色々な世間のうわさにもなりましたが、芸術に苦しんだ結果、彼はその総決算として死を選んだのでしょう。
やるべきことはすべてやり尽くし、仕事を投げやりにして死んだのではありません。可能な限りにおいて、落ち着いて死についたので、古い表現をすると、そこには古い武士の面影を思い起こさせるものがあります。
彼はある古い友人にあてた遺書の中で、
「誰でも皆自殺する者は、やむを得ない場合だけに行うのである。その前に決然と自殺する者はむしろ勇気に富んでいなければならない」と言っていますが、そうした大きな覚悟があってこそはじめて、次のことも言えたのでしょう。
「君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑うだろう。然し、ただ、自然はいつもより一層美しい。それでも、自然の美しいのは僕の最後の目に美しく見える」
日頃から親しくしていた、かかりつけの医者である下島隆(しもじまたかし)先生へと、短冊に書いて贈った『自嘲(じちょう)』と題する一句に、
「水洟(みずばな)や鼻の先だけ暮れ残る」
というのがありますが、これが彼の最後に書いた文字(絶筆)でした。彼の多くの著作は今、全集になって刊行されています。また、若き文学の先頭に輝いた彼を長く記念するために、「芥川賞」が設けられていますが、染井慈眼寺(そめいじがんじ)の墓石の下で、芥川はこれらをどう見ているでしょうか。


