口移しの菓子
まだ小学校に入る前のことですから、六つか七つくらいのことでしょう。有島武郎(ありしま たけお)の兄弟はみな、その教育を西洋人の家庭教師の手に任されていました。
ある日、妹が何かいたずらをして先生に叱られ、みんながもらうおやつももらえずに、物置のようになっている小さな暗い部屋へ閉じ込められていました。しゃくりあげながらシクシクと泣いている声がかすかに聞こえてきます。
武郎はそれがかわいそうでかわいそうでたまりませんでした。身を切られるような思いがします。自分が代わってやりたいくらいです。せめて自分のお菓子を分けてやりたいと思うけれど、こっそりあげたことがバレれば、先生に叱られるに決まっています。
そこで、子供の知恵を一生懸命にしぼって考え出したのは、「口の中に隠して持っていく」ことでした。先生に気づかれないようにそっと忍んでいって、
「お菓子あげるよ。もう泣くんじゃないよ」
と、口移しに妹の小さな口いっぱいに入れてやりました。
大人になったその妹が、「あの事だけはいつまでも忘れない」と言って、折に触れては人々に語ったものですが、人道主義の作家としての有島武郎の心は、すでにこの幼い時に芽生えていたのです。
明治11年(1878年)、東京に生まれ、学習院中等科を経て札幌農学校(現在の北海道大学)で学びました。彼は有島家の長男であり、北海道に広大な農場を持っていた父が、彼にその仕事を任せようというつもりだったのです。在学中、彼を教えた新渡戸稲造(にとべ いなぞう)は、「有島は深山の大木のような男だ」とよく言っていました。
26歳でアメリカへ渡り、その後ヨーロッパ諸国を巡って帰国すると、札幌農科大学や同志社大学で教鞭をとりましたが、間もなく教職を辞めて、小説などの創作活動によって世に出ることになりました。

人道主義と感心屋
当時、思想界を席巻していた自然主義の中でも、またその衰退に乗じても、広い意味での「人道主義的」な思想が盛り上がってきており、日露戦争を迎えては良心的な「非戦論(戦争反対論)」というような形にもなりました。
木下尚江(きのした なおえ)と共にこの思想の中心的存在であった徳富蘆花(とくとみ ろか)が、戦後、遠くロシアにトルストイを訪ねて、トルストイの思想と近況を伝えたことがきっかけで、トルストイ研究が流行しました。そしてトルストイズムが下火になると、それがより発展し、宗教的な色彩から抜け出した「人道主義」が思想界の主流となっていました。
農学校時代からキリスト教の信仰に浸っていた有島は、のちに思想が成長してその信仰は捨てたものの、それだけに一層深く、本物の人道主義へと固まっていきました。教養のせいもあったでしょうが、どこまでも謙虚な性質で、どんな人に対してもその地位や年齢で区別することなく、相手の優れた点を見出して、それを心から尊敬することを忘れませんでした。
他人の良い所(美点)を挙げては感心ばかりするので、「感心屋」とあだ名されたりもしました。
そんなことから、イギリスの紳士みたいな「常識家」に思われもしましたが、実は理想家であり、激しい情熱の持ち主でした。
アメリカへ留学する直前、同級生の友人を訪ねて、「今度あちらから帰ってきたら、僕は生命を懸けて、学校を創ってみたいと夢見ているんだ」と語ったことなど、非常に野心に満ちた彼だったのです。
作品を通じてもそれは見られますが、理想家としての本心を最もあからさまに見せたのは、大正11年の「農場解放」です。

農場を農民に
アメリカに留学中、彼はクロポトキンの著作などに親しんで、「物の私有(個人の財産として独占すること)」ということに疑問を持つようになりました。
「生産の根本となる自然物、すなわち空気、水、土のような類のものは、人間全体で使用すべきものであり、あるいはその使用の結果が人間全体に役立つように向けられなければならない。一個人の利益ばかりのために、個人によって私有されるべきものではない」
有島家の農場というのは、「蝦夷富士(えぞふじ)」の名を持つ羊蹄山(ようていざん)を東方に望む、狩太(かりぶと:現在のニセコ町周辺)一帯・四百五十町歩(約450ヘクタール)の広大な土地でした。彼の父が北海道庁から貸し下げを受けた頃は、背丈より高い熊笹と雑草が生い茂る密林でした。食料品はもちろん、あらゆる物資は、遠く離れた倶知安(くっちゃん)から馬の背で運んでこなければならない、交通の不便な場所でした。
小作人(地主から土地を借りて耕す農民)の人たちは、この密林を貫く川の沿岸に掘っ立て小屋を建て、あらゆる困難と戦ってそこを開拓し、ついに美しい農作地にして、道庁から「無償付与(タダで譲り受けること)」を許可されるまでになったのです。開墾の初期に一番最初に入った者は一人も残っていませんでしたが、だんだん人が増えて、小作人は全部で七十戸近くになっていました。
それまでにする、父の経営の苦労も並大抵のものではありませんでしたが、土地につぎ込んだ資金、その後の維持や納税に払ったお金を合計しても、年々上がる小作料(農民から受け取る地代)に比べればわずかなものででした。父はすでに世を去り、弟や妹たちも皆、不自由のない暮らしをしていました。
そして、何もしないで手をつかねいている間にも、土地の値段(地価)は自然に上がってきます。それは社会が生み出してくれた価値であり、誰の功績でもありません。――こう考えてくると、「土地を私有する理由」はいよいよ成り立たなくなったのです。
これ以上、小作料を受け取ることに耐えられませんでした(忍びなかったのです)。
「しかしながら、もし私が他に何の仕事もできない人間で、諸君(小作人)に頼らなければ食べていけないようでしたら、現在のような仕組みの世の中では、あるいは悪いことだと知りながらも諸君に依存して、パンを食べるような生き方を選んだかもしれません。ところが、私には一つの仕事(作家としての仕事)があって、他の人はどう言おうと、私としてはこの上なく楽しく思う仕事ですし、またその仕事から、とにかく親子四人が食べていくだけの収入は得られています。明日はどうなるか分かりませんが、今日は得られています。そのような保証を持ちながら、私が所有地の解放を断行しなかったのは、私として非常に怠慢であり、諸君に対して誠に面目ない次第です」
そう小作人たちに挨拶して、これほどの巨大な農場を無償で譲ってしまったのです。

その真面目さ
この歴史的な事実は、私有欲の塊になっている人々への強烈な一撃でした。親しい友人でさえが「人道的な行為だ」と呼んだのを、彼は「馬鹿なことを言う」と苦笑しました。
一時の気まぐれや、見栄ではなく、確固たる信念から出た行動だったのです。「大土地所有者」である彼がこのような事を成し遂げ得たということは、彼がいかに真剣で、良心的な態度を持った人物であったかを示しています。
それはただ土地を人数分に分割(頭割り)したのではなく、小作人の「共有財産」として与えられたので、森本厚吉博士に託され、産業組合法に準じて経営されました。現在の「狩太共生農団信用利用組合」がそれです。
この農場の放棄を機に、彼の思想は一段と飛躍し、作家としての歩みも大胆で明確なものになりましたが、間もなく思わぬところから破綻がやって来ました。
早くに妻に先立たれた彼の周囲には、女性からの誘惑が絶えませんでした。それをことごとく退けていた彼も、執拗に迫ってくる情熱的な女性・波多野秋子を、人間の深い愛情(至情)として、拒みきれなかったのでしょう。ただ不運だったのは、秋子に夫がいたことでした。
自ら進んで潔く刑(罰)を受けようとした彼でしたが、女の夫は金を要求しました。その金を用意するのは彼にとって何でもないことでしたが、そのような問題が「金で解決される」とは、彼には考えられませんでした。彼のような性格を持つ場合として、選ぶ道は一つしかありませんでした。
『命絶つ 咎(とが)しあらば手に取りて 世の見る前に我を打ちたまえ』
こうして彼は、市民社会における道徳と自由の矛盾の中に自ら命を絶ちました。大正12年(1923年)6月、45歳で軽井沢に寂しく散ったのです。一陣の風に惜しくも散ったのです。それは決して、彼の本来の望み(本意)ではなかったでしょう。

党派嫌い
『宣言』『女』『カインの末裔』『小さき者へ』などの小説のほか、愛の問題を論じた『惜みなく愛は奪ふ』が有名です。アメリカの民衆詩人ウォルト・ホイットマンの『草の葉』を訳した二巻の詩集も、詩の新しい精神を呼び起こした功績が大きいものです。その聖者のような人格からにじみ出た作風は、社会のあらゆる階層の人々に受け入れられ、人気を一身に集めて、「有島宗(ありしましゅう)」という言葉さえ生まれたほどでした。
心にもなく筆を執らなければならないことの多い「職業的作家生活」に嫌気がさして、個人雑誌『泉』を出したのは大正11年の10月でしたが、それは彼の死までの約1年間続きました。
彼が文壇(文学界)に足を踏み入れた最初から、彼の主張は「一家一流派」ということでした。彼は何事によらず、「党派(派閥)」というものを極端に嫌いました。特に文壇においてそのようなものがあるのは「罪悪だ」とすら考えました。――それにしても、これは読者の大きな支持がなくてはできないことです。作家としても、人間としても、太陽のように慕われた彼でした。
作家の里見弴(さとみ とん)、画家の有島生馬(ありしま いくま)は、彼の弟です。


